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2018年09月24日

第516回:“The Tycoon is only the Head of Princes.” ―「将軍は諸侯連合の首席にすぎない」(アーネスト・サトウ)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。


第516回の今日はこの言葉です。
“The Tycoon is only the Head of Princes.”

「タイクーンは貴族たちの首席にすぎない」
というのが文字通りの意味です。
“Tycoon”とは日本語の大君たいくんから来ており、江戸時代に外国人が徳川将軍のことをこのように呼んでいました。
“Princes”は「王子」というイメージが強いですが、ここでは西欧での「公爵」などにあたる貴族という意味で使われています。江戸時代の封建貴族とはすなわち三百諸侯、いわゆる「殿」と呼ばれる大名たちのことを指しています。
「将軍は諸侯連合の首席にすぎない」
という意味です。江戸時代の幕藩体制という政治体制を正確に言い表した言葉です。
これはイギリスの外交官、アーネスト・サトウ(Ernest Satow, 1843-1929)の言葉です。

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アーネスト・サトウ
By Unknown author, cropped by Jim Saeki in 2018 [Public domain], via Wikimedia Commons

アーネスト・サトウは1843年にイギリスのロンドンで生まれます。父親はドイツ人で土地家屋を売買する金融業を営んでおり、母親はイギリス人でした。
サトウ(Satow)という名前はスラヴ系の珍しい姓で、当時スウェーデン領だったドイツ東部のヴィスマール(Wismar)にルーツがあるそうです。もちろん日本に多い佐藤さんとは関係ありません。
サトウはロンドンの名門総合大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL: University College London)に進学した後、日本行きを決意してイギリス外務省に通訳生として入省します。

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若き日のアーネスト・サトウ
By World Imaging [Public domain], via Wikimedia Commons

アーネスト・サトウが日本に憧れたのは、外交官ローレンス・オリファント(Laurence Oliphant)の著作『エルギン卿遣日使節録(Narrative of the Earl of Elgin's mission to China and Japan in the years 1857, '58, '59)』(1859年)を読んだのがきっかけです。オリファントは1858年(安政5年)に日英修好通商条約(The Anglo-Japanese Treaty of Amity and Commerce)が調印された際に秘書官として使節団に同行した人物です。時の幕府の外交代表は大老の井伊直弼なおすけ。井伊は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印し、さらに続けて日露・日蘭・日英・日仏の修好通商条約を結びます。「安政の五ヶ国条約」と呼ばれる不平等条約です。同書は日英修好通商条約が結ばれた時の様子をまとめたものです。

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ローレンス・オリファント
By Abdullah brothers (Bibliothèque nationale de France) [Public domain], via Wikimedia Commons

これに対して国内の攘夷派の大名や公卿、志士(活動家)たちから批判が沸き起こり、井伊直弼は反対派の大名や公卿に対して隠居や謹慎や追放を命じ、捕えた志士たちを死罪や遠島などの極刑に処します。処分を受けた者は100人以上に上り、福井越前藩の橋本左内や長州藩の吉田松陰らも命を落とします。安政の大獄(Ansei Purge)です。
そして1860年(安政7年)、水戸藩の脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が江戸城の桜田門外で井伊の行列を襲い、井伊を暗殺します。桜田門外の変(Sakuradamon Incident)です。


【動画】“映画『桜田門外ノ変』予告編”, by シネマトゥデイ, YouTube, 2010/08/05

2年後の1862年(文久2年)、サトウは通訳生として横浜に着任します。19歳の時のことです。
サトウが来日直後に日本語を学んでいる頃、薩摩藩主の父・島津久光の行列に騎馬のまますれ違おうとしたイギリス人4人が薩摩藩士に切りつけられて1人が死亡し、2人が重症を負います。もう1人は女性だったので手加減されたのか、帽子と髪の一部を切られただけに留まります。これが生麦事件(Namamugi Incident)です。


【動画】“生麦事件”, by はささは, YouTube, 2013/09/22

翌1863年、英国公使代理のジョン・ニール(John Neale)は幕府に対して10万ポンドの賠償金を要求し、薩摩藩にも賠償金2万5千ポンドと犯人の死刑を要求します。サトウも賠償交渉の場に加わります。幕府は賠償金の支払いをあっさりと認めますが、犯人の処刑は未解決のままです。そこでニールは問題解決能力のない幕府に見切りをつけ、薩摩と直接交渉することにします。ペリー来航以来の幕末外交史上、前代未聞のことです。

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ジョン・ニール(1863年のイラスト)
By Unknown author [Public domain], via Wikimedia Commons

ニールは軍艦7隻を率いて鹿児島へ向かい、サトウも同行します。艦隊は鹿児島の錦江湾に停泊して交渉が始まりますが、交渉はまもなく決裂し、薩摩は沿岸の砲台から英国艦隊を砲撃します。英国は幕府の弱腰外交に慣れきっていたため油断しており、すぐに反撃できずに薩摩が優勢となります。やがて体制を立て直した英国艦隊の砲撃によって薩摩の砲台は破壊され、鹿児島城下は火の海となり市街地の10分の1が消失します。しかしイギリス側も旗艦ユーライアス(HMS Euryalus)が大破し2隻が中破。旗艦の艦長や副長を含む13人が戦死し、けが人は50人に上ります。英国艦隊は上陸戦闘も検討しますが弾薬と燃料が不足し、これ以上の被害が出ないように撤退を決めて横浜に帰ります。薩英戦争(Bombardment of Kagoshima)です。

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薩英戦争(1864年のイラスト)
Source: "Le Monde Illustre" [Public domain], via Wikimedia Commons

戦後両者は横浜で和平交渉を行いますが、当初両者は一歩も引きません。しかし3回に渡る交渉の末に妥協点を見出して講和を結び、賠償金2万5千ポンドにあたる6万両あまりを幕府から借用して支払います。そして薩摩と英国は、戦後急接近をはかるのです。薩摩は英国の優れた軍事力に驚愕し、自分たちも導入したいと強く願います。英国は能力も誠意もない幕府よりも、戦意旺盛でも約束は守る薩摩に好意と共感を抱きます。こうして両者は対立を乗り越えて友好関係を築き、薩摩は倒幕勢力としてますます実力を強めていくことになります。


【動画】“「薩英戦争」解説映像”, by
KagoshimaConvention, YouTube, 2013/12/16

同じ年、幕府が各藩に命じた攘夷実行の通達を受けて長州藩が馬関海峡(今の関門海峡)を封鎖し、アメリカやフランス、オランダの艦船を砲撃します。その報復として半月後に米仏の軍艦が馬関海峡に侵攻し、長州軍艦を砲撃します。しかし長州藩は砲台を拡張して海峡封鎖を続け、高杉晋作が下級武士や農民・町人からなる「奇兵隊」を組織して防備を強化します。翌1864年(元治元年)、海峡封鎖で大きな経済的損失を受けていたイギリスは報復措置としてアメリカ、フランス、オランダに呼びかけて17隻からなる四国連合艦隊を派遣、長州の砲台を砲撃した上で各国の陸戦隊が上陸して守備隊と交戦します。奇兵隊も長州藩兵も連合軍の最新兵器に手も足も出ません。砲台は占領されて徹底的に破壊されます。馬関戦争(下関戦争、Shimonoseki Campaign)です。

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馬関戦争で連合国に占領された長州藩の砲台(1864年撮影)
Felice Beato [Public domain], via Wikimedia Commons

戦後の和平交渉で、長州藩の高杉晋作が名前と身分を偽ってイギリス艦司令長官のクーパーと交渉にあたります。高杉は毅然とした態度で長州は負けていないと主張します。通訳をしたアーネスト・サトウはこの時の高杉の様子を「まるで魔王のようだった」と好意をこめて書いています。またクーパーは賠償金300万ドルを要求します。長州藩が50年かかっても払えない金額です。高杉は、この戦闘は幕命に従ったものだから幕府が賠償金を支払うべきだと主張し、クーパーもそれを認めます。さらにクーパーは、下関南部の彦島の四ヶ国による租借を要求します。高杉は絶対に認めてはいけないと直感し、いきなり「そもそも、日本国なるは…」と気がふれたように話し始め、古事記や日本書紀の講釈を延々と続けます。サトウもどう通訳してよいかわからず絶句し、皆はあっけにとられます。クーパーはとうとう根負けして租借のことは撤回し、講和が成立します。
この事件でイギリスは長州にも好感を持つようになり、長州もこれ以降イギリスと協力関係を強めていくことになります。


【動画】“高杉晋作の古事記演説”, by ichiro matsui, YouTube, 2013/06/06

翌1865年(慶応元年)、サトウは21歳の時に通訳としてのトップである通訳官に昇進します。日本語も上達し、日本人に馴染みの深い「佐藤」と名のることによって日本人にも親しまれるようになります。
1866年(慶応2年)、サトウは横浜で発行されている週刊英字新聞ジャパンタイムズ(The Japan Times)に匿名で「English Policy(英国の政策)」という論文を連載します。そして翌年それを日本語訳してまとめた小冊子『英国策論』(1967年)が「英國士官ストウ著」として出版されます。


序盤でサトウは徳川将軍の地位に関する率直な疑問を提示します。今日の言葉にある
“The Tycoon is only the Head of Princes.”
「将軍は諸侯連合の首席にすぎない」
というものです。ジャパンタイムズでの論文では、
“It must be borne in mind that the Tycoon, though claiming to conduct the Government of Japan, is in reality, or was at the time when the first Treaties were made, only the Head of a Confederation of Princes, and to arrogate to himself the title of ruler in a country of which only about half was subject to his jurisdiction, was a piece of extraordinary presumption on his part.”
「大君は日本政府を率いていると主張しているが、実際には、或いは条約成立時には諸侯連合の首席に過ぎず、日本の半分しか領有していないのに日本の君主であると偽っており、この点についてはとんでもない越権行為である」
と辛辣に書かれています。また邦訳された『英国策論』では、
「大君ハ日本一統ノ君主タルヨウニ最初條約ノ節ニ云シナレトモ彼ハ只諸侯ノ長ニテ僅ニ日本半國ホト而己領ルカナルニ自ラ日本國主ト唱ヘシ是名分不正ニシテ」
(将軍は日本全体の君主であるように最初条約の節に言っていたけれども彼はただ諸侯の長で、わずか日本の半分ほどしか領有していないのに自ら日本国主と称していることは間違っており」
と書かれています。幕府や将軍は日本を代表する資格がないと言っているのです。安政五ヶ国条約の締結の経緯や弱腰外交、引き延ばし政策、攘夷の混乱などから感じたサトウの率直な思いだったのでしょう。


「今此ニ改革ニ及フトモ強チニ日本ノ君主タルヨウニ偽リシ大君を廃スルト言ドモ国家ノ顚覆ニハ至ラサルナリ」
(今ここに改革に及ぶとも、日本の君主であるように偽ってきた将軍を廃するとしても、けっして国家転覆にはあたらない)
サトウはここまで書いています。まるで倒幕を肯定するような記述です。『英国策論』は志士たちの間だけでなく開明的な幕閣や諸藩の幹部にも読まれ、大きな影響を与えます。同書にある意見はサトウの私見ですが、七つの海を支配する世界最強の大英帝国の公式な政策であると受け止めた読者も多かったようです。


その後もサトウは幕末の日本を見守り続け、明治維新を迎えます。15代将軍の徳川慶喜や幕臣の勝海舟、薩摩藩の小松帯刀西郷隆盛大久保利通、長州藩の桂小五郎高杉晋作伊藤博文井上馨品川弥次郎、土佐藩の後藤象二郎、佐賀藩の大隈重信、公卿の三条実美岩倉具視など、サトウと交流があった人物は明治維新のオールスターキャストのようなものです。サトウは後に明治天皇にも謁見します。

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ロンドン訪問中の岩倉使節団(1872年撮影)
左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

1871年(明治4年)頃サトウは日本人女性の武田兼と結婚し、後に2男1女をもうけ、2人の息子が無事育ちます。
サトウは1880年(明治13年)まで日本に滞在し、イギリスへ帰国します。その後はシャム駐在総領事代理、ウルグアイ駐在領事、モロッコ駐在領事を歴任し、1895年(明治28年)に駐日特命全権公使として再び日本に赴任します。サトウは5年間日本に滞在した後に駐清公使として北京に6年間滞在します。

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武田兼(1870年撮影)
Source:"Saigo Takamori and Okubo Toshimichi" [Public domain], via Wikimedia Commons

“The Tycoon is only the Head of Princes.”
将軍は諸侯連合の首席にすぎない。

日本を愛し、日本に溶け込み、近代日本の夜明けに深く関わったアーネスト・サトウ。
幕府の無力化と将軍の本質を鋭くとらえたこの言葉は、サトウが日本の政治の実体を正確に把握していた証拠です。
外交官としての最後の勤務地である北京で、サトウは日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-1905)の勃発と日本の勝利を見届けます。当時は日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)が結ばれていましたから、サトウも日本に有利になるように尽力したに違いありません。
サトウはその後まもなく引退し、イングランド西部のデヴォン州に隠居して著述や研究に明け暮れます。家族のいる日本に移住しようとしましたが病気で果たせず、孤独のうちに1929年(昭和4年)に亡くなります。86歳でした。

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アーネスト・サトウの墓(2018年撮影)
By Tedster007 [CC BY-SA 4.0], from Wikimedia Commons

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。

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【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“近代国家への一太刀 【実録】生麦事件{後編} [Namamugi Incident]”, by 取材・執筆/黒澤 里吏, 英国に関する特集記事 『サバイバー』, 週刊ジャーニー No.927(2016年4月7日)掲載
【参考】“生麦事件と薩英戦争 幕府の凋落と薩摩藩の興隆について”, by 見城豊, 歴史の読み物, 公開日 : 2017.12.13 / 更新日 : 2018.04.18
【参考】“幕末の分水嶺となった「生麦事件」”, by 宮 徹, グッと身近に来る日本史, 2017-09-21
【参考】“【西郷どん(せごどん)】生麦事件とは?薩英戦争になった原因はイギリス人が悪いのか?久光の責任なのか?”, 大河ドラマネタバレ感想日記!, 公開日 : 2018年6月23日 / 更新日 : 2018年7月28日
【参考】“革命の体現者、高杉晋作”, by 間宮 淳, シリーズ 吉田松陰とその弟子たち, nippon.com, 2015.01.20
【参考】“高杉の大芝居、下関講和 (9)”, by gundayuu, シリーズ幕末史, いり豆 歴史談義, 2007年06月30日
【参考】“倒幕派に大義名分を与えた「英国策論」”, by 宮 徹, グッと身近に来る日本史, 2017-11-29
【参考】“Ernest Satow, British Policy and the Meiji Restoration (アーネスト・サトウの『英国策論』と明治維新)”, by Ian Ruxton, Article (PDF Available), Sep 08, 2016
【参考】“英国策論”, by サトウ, 国立国会図書館オンライン

【動画】“映画『桜田門外ノ変』予告編”, by シネマトゥデイ, YouTube, 2010/08/05
【動画】“生麦事件”, by はささは, YouTube, 2013/09/22
【動画】“「薩英戦争」解説映像”, by
KagoshimaConvention, YouTube, 2013/12/16
【動画】“高杉晋作の古事記演説”, by ichiro matsui, YouTube, 2013/06/06




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posted by ジム佐伯 at 07:00 | ロンドン | Comment(2) | 国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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この記事へのコメント
のざわさん、こんにちは。ジム佐伯です。コメントありがとうございます。そしていつもブログをご覧になって頂きありがとうございます。アーネスト・サトウは一外交官ですが通訳だっただけに多くの幕末の人材たちと直接交流を持ちました。そして著書の「英国策論」は結果的に本人も驚くほど日本の歴史に影響を与えました。江戸時代最初期のウィリアム・アダムスといい、幕末のアーネスト・サトウといい、歴史の大きな転換点で若き英国人が日本史に大きな影響を与えたのは本当に面白いですね。コメントとても励みになります。これからもよろしくお願い致します。
Posted by ジム佐伯 at 2018年09月26日 04:17
ジム佐伯様、アーネスト・サトウの名言を初めて知りました。とても興味深く拝読しました。
幕末史という本を読んだとき、アーネスト・サトウの存在は知りましたが。アーネスト・サトウの言葉が倒幕の大きな引き金になったのでしょうね。薩摩藩も長州藩も英国等と戦って痛い思いをしたのに、戦後はお互い好意的になったところは興味深いです。また高杉晋作が古事記を演説してサトウは面食らって通訳できなかったところも面白いです。アーネスト・サトウは外国語(日本語)を習得して大きな歴史の舞台で緊張の人生を生きたことでしょう。その後は他の国々の領事となり、外国語を学ぶことはずっとその後も続いたはずです。勇気もあったことでしょう。
Posted by のざわ at 2018年09月24日 23:05
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