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2017年08月25日

第455回:“I shall do my utmost to fulfil my duty towards my country.” ―「全力で国への義務を果たします」(ヴィクトリア女王)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。



第455回の今日はこの言葉です。
“I shall do my utmost to fulfil my duty towards my country.”

「全力を尽くして国に対する義務を果たします」
「全力で国への義務を果たします」
という意味です。
“shall”は強い意思を表す助動詞です。
これはイギリスのハノーヴァー朝の女王ヴィクトリア(Queen Victoria, 1819-1951)の言葉です。

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ヴィクトリア女王(1838年の戴冠式の時の肖像画)
Henry Pierce Bone [Public domain], via Wikimedia Commons

ヴィクトリアは1819年にロンドンのケンジントン宮殿(Kensington Palace)で生まれます。
父親は時のイギリス国王ジョージ3世(George III)の息子ケント公エドワード王子(The Prince Edward Augustus, Duke of Kent and Strathearn)。借金まみれだったため物価の高いロンドンでは暮らしていけず、ベルギーやドイツ諸国を転々としています。しかし妻であるケント公妃ヴィクトリアの出産が近づくと、生まれる子供をロンドン生まれにしようと一時帰国します。

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ヴィクトリアの父エドワード王子(1818年の肖像画)
William Beechey [Public domain], via Wikimedia Commons

国王だったジョージ3世はグレートブリテン及びアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Ireland)の国王とドイツのハノーファー国王を兼ねた同君連合を組んでいます。アメリカ独立戦争(1775-83)やフランス革命(1789-)、ナポレオン戦争(1803-15)などの様々な難局の時代を生きた人物です。王子たちの借金やスキャンダルによる心労からか晩年は精神を病み、王位継承者である長男のジョージ王子摂政王太子(prince regent)として公務についています。

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ヴィクトリアの祖父ジョージ3世(1761年の戴冠式の時の肖像画)
Allan Ramsay [Public domain], via Wikimedia Commons

ジョージ王太子は弟のエドワードと仲が悪く、王位を継がせたくないと思っています。国王に代わってエドワードの王女の名付け親になった時も、半ば嫌がらせのようにイギリス王女らしくないロシア名とドイツ名のアレクサンドリナ・ヴィクトリア(Alexandrina Victoria)という洗礼名を与えます。
ヴィクトリアが生まれて間もなく父エドワードが亡くなります。また同じ頃に国王ジョージ3世が崩御し、摂政王太子だったジョージが即位してジョージ4世(George IV)となります。

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ジョージ4世(1821年の戴冠式の時の肖像画)
Allan Ramsay, cropped by Jim Saeki in 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

ヴィクトリアはケンジントン宮殿で母ケント公妃の手によって厳格に育てられます。幼い頃から英語とドイツ語、フランス語を自由に話せたそうです。
ヴィクトリアが11歳の時、ジョージ4世が子のないまま崩御し、弟のウィリアム4世(William IV)が即位します。ウィリアム4世は即位時すでに65歳で子もなかったため、ヴィクトリアが暫定王位継承者となります。その後ヴィクトリアの母ケント公妃は摂政のようにふるまうようになり、ウィリアム4世に非常に嫌われたそうです。

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ウィリアム4世(1833年の肖像画)
Martin Archer Shee, cropped by Jim Saeki in 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

1837年6月20日未明、ウィリアム4世が崩御します。ヴィクトリアは朝6時に起こされ、寝間着姿でガウンを羽織ったまま宮内長官カニンガム侯爵とカンタベリー大主教ウィリアム・ハウリを引見します。カニンガム侯爵は国王の崩御を告げ、ひざまづいて新しい女王の手に口づけをします。成人したばかりの18歳の新女王「ヴィクトリア」の誕生です。彼女は即位の日の日記に次のように書いています。
“Since it has pleased Providence to place me in this station, I shall do my utmost to fulfil my duty towards my country; I am very young and perhaps in many, though not in all things, inexperienced, but I am sure, that very few have more real good will and more real desire to do what is fit and right than I have.”
「王位につくことが神の思し召しなら、私は全力で国への義務を果たします。私はとても若く、多くの点で経験不足でありましょう。しかし正しいことをしようという善意と意欲は誰にも負けません」


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即位の朝のヴィクトリア
宮内長官カニンガム侯爵がひざまづいて新女王の手に口づけしている
By Engraved by Emery Walker (1851–1933), from the picture by Henry Tanworth Wells (1828–1903) at Buckingham Palace. Cropped by Jim Saeki in 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

なお、同君連合を組んでいたハノーファー王国では女性の王位継承が認められておらず、ハノーファーの王位はヴィクトリアの叔父にあたるアーネスト王子(Ernest)が継いでエルンスト・アウグスト1世(Ernst August I.)として即位し、英国とハノーファーの同君連合は解消されます。

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ハノーファー王エルンスト・アウグスト1世(1840年頃の肖像画)
By Unknown, cropped by Jim Saeki in 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

ヴィクトリアは王位につくと、バッキンガム宮殿(Buckingham Palace)に移り住みます。これ以降、バッキンガム宮殿がイギリス王室の公式の宮殿となります。またかつて摂政のようにふるまっていた母ケント公妃が干渉してこないよう、母の部屋を自分の部屋から遠ざけます。
まもなくヴィクトリアは同い年の従兄弟であるドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ家のアルバート公子(Prince Albert)と恋に落ち、1840年に結婚します。二人が20歳の時のことです。
二人は4男5女の子宝に恵まれます。ヴィクトリアの出産前後にはアルバートが補佐役を務めることが多くなり、イギリスは次第にヴィクトリアとアルバートの共同統治のような状態になります。

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アルバート公子(1840年頃の肖像画)
By John Partridge (1790-1872) (The Royal Collection) [Public domain], via Wikimedia Commons

この頃のイギリス首相はホイッグ党(Whig Party)の第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム(William Lamb, 2nd Viscount of Melbourne)。ヴィクトリアはメルバーン子爵を相談役として信頼し、君臣の関係を越えてまるで父娘のような関係になります。
イギリスが清国しんこくとの間で阿片戦争(First Opium War, 1840-42)を戦ったのはこの頃です。イギリスは2年に渡って清国をフルボッコにし、不平等条約を結んで香港を獲得します。

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メルバーン子爵ウィリアム・ラム
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

1841年、解散総選挙で保守党(Conservative Party)が勝利し、暫定政権をはさんでサー・ロバート・ピール(Sir Robert Peel)に首相の大命が下ります。ヴィクトリアは過去に宮中人事でピールと揉めたことがあり、当初はピールを嫌います。しかし首相の職務に全力をあげるピールを見て、夫のアルバートと共に次第に強い信頼を寄せるようになります。しかし1845年のジャガイモ飢饉(Potato Famine)の救済策である穀物法廃止法案が保守党内の抵抗勢力の反発を受け、法案は成立したものの保守党は分裂し、首相を辞任したピールの支持派は政敵だったホイッグ党と組むことになります。

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サー・ロバート・ピール
By Robert Richard Scanlan (1801-1876) [Public domain], via Wikimedia Commons

対外的には、イギリスは清国に再度侵攻します。アロー戦争(Second Opium War, 1856-60)です。再び清国をフルボッコにしたイギリスは、さらにひどい不平等条約を結んで清国を半植民地化します。
一方、イギリス東インド会社(British East India Company)が支配していたインドでは、セポイ(Sepoy)と呼ばれる東インド会社の傭兵たちが反乱を起こします。「セポイの乱」(Sepoy Mutiny, 1857-58)とも呼ばれたインド大反乱(Indian Rebellion)です。反乱は虐殺とともに鎮圧され、既に形骸化していたムガール帝国(Mughal Empire)は滅亡します。インドはイギリスが直接統治するインド帝国(Indian Empire)となって東インド会社は解散します。

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インド大反乱(1859年の絵画)
By Granger [Public domain], via Wikimedia Commons

その間しばらくホイッグ党とピール派の連立政権と保守党政権が何度も入れ替わりますが、1859年にホイッグ党とピール派などが合同して自由党(Liberal Party)を結成します。これによって二大政党制への道が開かれ、政党政治が安定化するようになります。
自由党は外相や首相、内相を歴任した大ベテランの第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(3rd Viscount Palmerston Henry John Temple)を首相に擁立し、6年以上にわたる長期政権となります。

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第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(1955年の肖像画)
By Francis Cruikshank [Public domain], via Wikimedia Commons

1861年、ヴィクトリアの夫アルバートが42歳の若さで亡くなります。最愛の夫を失った悲しみは深く、ヴィクトリアは喪に服して引きこもるようになります。
しかし1868年に首相になった保守党のベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli)の説得で、ヴィクトリアは徐々に公務に復帰します。少数与党だったディズレーリは短期政権に終わりますが、1874年の総選挙の結果、再び首相に返り咲きます。ヴィクトリアの信頼厚いディズレーリも6年を超える長期政権となります。
1876年、ヴィクトリアは正式にインド女帝(Empress of India)となります。

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ベンジャミン・ディズレーリ
By H. Lenthall, sucessor to Mr Kilburn, 222 Regent Street, London ([1]) [Public domain], via Wikimedia Commons

その後もヴィクトリアは長命し、1887年に在位50年を祝うゴールデン・ジュビリー(Golden Jubilee)、1897年に在院60年を祝うダイヤモンド・ジュビリー(Diamond Jubilee)という祝典が行われます。
1901年1月、ヴィクトリアは子供たちや孫たちが見守る中で静かに息を引き取ります。81歳でした。

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在位50年記念式典の時のヴィクトリア(1887年撮影)
Alexander Bassano [Public domain], via Wikimedia Commons

ヴィクトリアの在位は63年間に及びます。歴代の英国王の中では玄孫(孫の孫)にあたるエリザベス2世(Elizabeth II)に次ぐ長さです。
その間に大英帝国は世界各地を次々に植民地化し、領土を10倍以上に拡大させます。そして地球の全陸地面積の4分の1、全世界人口の4分の1(4億人)を支配する史上最大の大帝国となります。
ヴィクトリア自身は政策的には強硬派で主戦論者の場合が多かったものの、慈愛に満ちた「帝国の母」(Mother of the British Empire)として植民地の臣民からも慕われます。その人気は植民地支配への抵抗心をやわらげ、大英帝国の維持と拡大に大きな力となります。また、子女がヨーロッパ各国の王室や皇室と婚姻を結んだ結果、ヴィクトリアは「ヨーロッパの祖母」(the grandmother of Europe)とも呼ばれます。

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ヴィクトリア朝のイギリスの領土(1898年の地図)
By McVitie and Price (Canadian War Museum in Ottawa) [Public domain], via Wikimedia Commons

“I shall do my utmost to fulfil my duty towards my country.”
全力で国への義務を果たします。

ヴィクトリアの覚悟と意思が伝わってくる言葉です。
18歳の若さで即位し、その一生をイギリスに捧げたヴィクトリア。
まさに全力を尽くして国に対する義務を果たした人生でした。
63年間もの長きに渡る治世は「ヴィクトリア朝」(Victorian era)と呼ばれ、政治や軍事や経済でイギリスが世界を席巻しただけでなく、文化や芸術でも多くのすばらしい成果が上げられました。大英帝国の最盛期であったと言われています。

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20歳の頃のヴィクトリア(1839年頃の肖像画)
By Sophie Liénard (fl. 1842-1845), after a portrait by Edmund Thomas Parris (sketched on the Queen's first state visit to Drury Lane Theatre in November 1837) [Public domain], via Wikimedia Commons

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。


【動画】“VICTORIA PREMIERE TRAILER”, by Vision TV, YouTube, 2017/03/16

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【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“Queen Victoria's Journals (ヴィクトリア女王の日記)”, Her Majesty Queen Elizabeth II
【参考】“5/25 ヴィクトリア女王の日記―ウェブサイトで4万ページ分を初公開”, onlineジャーニー, 2012/05/25
【参考】“ヴィクトリア女王の日記”, by おだしまさちこ さん, 大好きロンドン, 2014年05月31日
【参考】“英語だからこそ心に響く恋愛ポエム15フレーズ”, by spintheearth, Spin The Earth

【動画】“VICTORIA PREMIERE TRAILER”, by Vision TV, YouTube, 2017/03/16




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posted by ジム佐伯 at 07:00 | ロンドン ☔ | Comment(2) | TrackBack(0) | 皇室・王室・王家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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この記事へのコメント
のざわさん、こんにちは。ジム佐伯です。 コメントありがとうございます。そしていつもブログをご覧になって頂きありがとうございます。強い意志のshallは「神様用語」とも言われ、もともと「神の意志」という意味があります。そこから強い意志や運命、義務などといった意味につながります。過去形にしてやわらげたshouldが「そうあるべき」という意味になるのもそのためです。若きヴィクトリアは神の意志として自分の義務をとらえていたのかもしれません。ヨーロッパの歴史は複雑ですが調べれば調べるほど奥が深くて興味が尽きませんね。僕もまだまだ勉強中です。コメントとても励みになります。これからもよろしくお願いします!!
Posted by ジム佐伯 at 2017年08月29日 04:40
ジム佐伯様、大変興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。冒頭にあるshallは強い意志を示すとありますが、不覚にもshallは単純未来と昔学んだままの知識でした。デンマーク語にskulleという助動詞があって、訳す場合とても難しいです。英語でもmay,maybe, perhaps(後ろのの二つは副詞ですが)など正しい知識をまだ習得していない私です。
昨日デンマーク人作家アイザック・ディネーセン(Karen Blixenとペンネーム二つ使い分けています)の「アフリカの日々」を読み、ケニアの農場主として18年間ケニアの人々との生活に興味をお持ちました。ジム佐伯様のまとめの中で、英国が世界中に植民地を持った時代が出ていますね。すごく惹きつけられた記事でした。余談ですが、最近フランス映画「夜明けの祈り」を見たのですが、1945年ポーランドで、ソ連兵によるシスター暴行事件を元にしたストーリーでした。私はヨーロッパの歴史に疎いので、ジム様のまとめてくださった記事を読んで、ますます歴史にも興味を持ちました。素晴らしいブログに感謝致します。
Posted by のざわ at 2017年08月25日 15:03
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