英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。
第415回の今日はこの言葉です。
“I intended to go as far as I think it possible for man to go.”
「人間が行ける果てまで行きたかった」
という意味です。
“I intended to go not only farther than any man has been before me, but as far as I think it possible for man to go.”というのがもともとの言葉です。
「私は誰よりも遠くへ行きたかっただけでなく、人間が行ける果てまで行きたかった」
これはイギリスの海軍士官で探検家でもあったジェームズ・クック(James Cook, 1728-1779)の言葉です。船長として3回の地球規模の大航海を行ったことで有名で、キャプテン・クック(Captain Cook)の通称でも知られています。

ジェームズ・クック
Nathaniel Dance-Holland [Public domain], via Wikimedia Commons
ジェームズ・クックは1728年にイングランド北東部のノースヨークシャー州のマートン(Marton)という町に生まれます。父親はスコットランド出身の農民で、ジェームズは7歳の時に家族と共に近くの農場に移り住みます。そして初等教育を終えた13歳の時から農場で働くようになり、16歳の頃にステイテス(Staithes)という漁村にある雑貨店で働き始めます。雑貨店で1年半働いた後、クックは近隣のウィットビー(Whitby)という港町の船主の商家のもとで見習い航海士として働き、測量法や航海術を身につけます。19歳で徒弟奉公を終えたクックは、バルト海の貿易船「フレンドシップ号」で働き、24歳の頃に航海士となります。その後1755年にクックは志願して海軍に入隊します。27歳の頃です。

ロンドンにあるクックの銅像
By Patche99z (Own work) [GFDL or CC BY 3.0], via Wikimedia Commons
クックは58門4等級戦列艦「イーグル号(HMS Eagle)」に一兵卒として配属されます。配属後すぐに准士官である航海士となったクックは、入隊わずか2年後に士官である航海長の試験に合格し、フリゲート艦「ソールベイ(HMS Solebay)」に転属します。
この頃イギリスはプロイセンに味方してオーストリア・ロシア・フランス・スウェーデン・スペイン及びドイツ諸侯との戦争を始めています。戦後「七年戦争(Seven Years' War)」(1756-1763年)と呼ばれる戦争です。
イギリスはフランスとの海戦に勝利して大西洋の制海権を握った上で、北米にあるフランスの植民地を攻撃します。当時の北米大陸は東海岸の大部分をイギリスが、メキシコから南西部にかけてとフロリダ半島をスペインが、そして内陸から五大湖沿岸、そして今のカナダのケベック州にかけてをフランスが支配しています。イギリスはフランス植民地の海の入り口であるケベック州からフランス植民地を攻撃します。北米でのこれらの戦闘は「フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)」とも呼ばれています。

フレンチ・インディアン戦争当時の北米東部
薄い赤がイギリス支配地
薄い青がフランス支配地
薄い橙がスペイン支配地
縞の部分が係争地
By Hoodinski [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
クックは60門4等級戦列艦「ペンブローク号(HMS Pembroke)」の航海長として1759年のケベック包囲戦を戦います。クックはこの戦いでセントローレンス川の河口の測量と海図作成を行い、正確な海図の作成に成功してイギリス艦隊の奇襲上陸作戦を成功に導きます。
戦争はイギリス側の勝利に終わり、イギリスは今のカナダ東部とアメリカ中西部の広大なフランス植民地を獲得します。
フランスは広大な植民地を失った上に戦費の負担が大きく、絶対王政に対する国民の不満も高まり、後のフランス革命の遠因となります。一方の北米のイギリス植民地は支配領域を大きく広げた上に、フランスの脅威が去ったため防衛に本国の支援がそれほど必要でなくなり、アメリカ独立の機運が高まって行きます。

フレンチ・インディアン戦争後の北米東部
濃い赤が従来のイギリス支配地
薄い赤が新たなイギリス支配地
濃い橙が従来のスペイン支配地
薄い橙が新たなスペイン支配地
By Jon Platek [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons
戦後クックは調査船「グレンヴィル号(HMS Grenville)」を指揮して、イギリスが新たに獲得したニューファンドランド島の複雑に入り組んだ海岸線を調査し、同海域の初めての正確な海図を作成します。1763年から1767年まで、実に5年に渡る調査です。
過酷な調査航海から帰還したクックが言ったのが今日の言葉です。
“I intended to go not only farther than any man has been before me, but as far as I think it possible for man to go.”戦時の測量や北洋での調査航海を成功させたクックの功績は、軍人としてだけでなく、科学者や探検家としても大いに注目されます。
「私は誰よりも遠くへ行きたかっただけでなく、人間が行ける果てまで行きたかった」

クックが作成したニューファンドランド島の地図(1775年作成)
By Michael Lane and James Cook [Public domain], via Wikimedia Commons
クックは北洋から帰還した翌年、王立地理協会(Royal Society)の要請で南太平洋に派遣されます。目的は金星の太陽面通過(Transit of Venus)の観測です。クックは海尉(Lieutenant)に任官して正式な海軍士官となり、石炭運搬船を改造した探検用の小型帆船「エンデバー号(HMS Endeavour)」の指揮官となります。クックが38歳の頃です。
1766年にエンデバー号はイングランド南西部の港町プリマスを出港し、南アメリカ最南端のケープ岬の南を通って太平洋に抜けます。そして出港から7か月半かけて目的地である南太平洋のタヒチに到着し、金星の太陽面通過の観測を行います。
観測が終わると、クックは秘密指令を開封します。海軍本部の追加命令は、「テラ・アウストラリス(Terra Australis)」と呼ばれた伝説の南方大陸を探索せよ、というものです。天体観測は国際社会に対する隠れ蓑で、本当の目的は他国を出し抜いて南方大陸を発見し、あわよくば植民地化してその富を独占することだったのです。さすがイギリス、抜け目がないですね。

エンデバー号の復元船
By en:User:John Hill [Public domain], via Wikimedia Commons
南方に大きな大陸があるかもしれないという仮説は、古代ギリシアの昔からあったと言われます。そして大航海時代になると、その一部を思われる陸地が発見されるようになります。
1520年にフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)率いるスペインの艦隊が、南米大陸の南端を大西洋から太平洋へ抜ける海峡を発見します。マゼラン海峡(Strait of Magellan)です。マゼランたちが海峡の南に見たフエゴ島は南方大陸だと信じられ、マゼランの名をとって「テラ・マガラニカ(Terra Magallanica)」と呼ばれます。当時、マゼラン海峡は大西洋と太平洋を結ぶ唯一の水路だとされます。

メルカトルが作成した世界地図(1587年作成)
オレンジ色の陸地が南方大陸(左側の緑色の島がニューギニア島)
By Rumold Mercator [Public domain], via Wikimedia Commons
1606年、オランダの探検家ウィレム・ヤンツ(Willem Janz)がニューギニア島沿岸を探検し、オーストラリア大陸の北部にヨーロッパ人として初めて上陸し、「新オランダ(New Holland)」と名付けます。この時は島か大陸かはっきりわかりませんでしたが、ついに南方大陸が発見されたと話題になります。
さらにオランダの探検家アベル・タスマン(Abel Tasman)が南方大陸の探索を行い、1642年に今のオーストラリア南部のタスマニア島を、翌1643年にニュージーランドを発見します。そして1644年、タスマンは2度目の探検航海でオーストラリア北岸を詳しく調査します。タスマンの航路によると、新オランダと言われたオーストラリアは独立した大陸で南方大陸ではない可能性が高いですが、ニュージーランドは南方大陸の一部である可能性をまだ残しています。

タスマンの探検航路
By Maksim and Siebrand [Public domain], via Wikimedia Commons

1644年のオーストラリアの地図
タスマンの測量をもとにしたもの
タスマニア島の一部とニュージーランドの一部も描かれている
Melchisédech Thévenot [Public domain], via Wikimedia Commons
話をジェームズ・クックに戻します。タヒチで表向きの目的である天体観測を終えたクックは、真の目的である南方大陸の探索に出発します。クックは南太平洋の地理に詳しいトゥパイア(Tupaia)というタヒチ人の協力を得て、ニュージーランドに西洋人として史上2番目に到達します。クックはニュージーランドが南方大陸の一部ではなく島であることを確認し、詳細な地図を作成します。

クックが作成したニュージーランドの地図
By Electionworld and Ibn Battuta [Public domain], via Wikimedia Commons
さらにクックはタスマンが発見したタスマニア島を目指しますが、暴風で北に流されて別の陸地に到達します。オーストラリアの東岸に西洋人として初めて到達したのです。しかしグレートバリアリーフでは船が座礁してしまい、修理に7週間もかかります。その後クックは調査をしながら沿岸を北上し、ニューギニア島と陸続きでないことを確認します。そしてオーストラリア東岸のイギリス領有を宣言します。
クックはその後インド洋からアフリカ南端を経て、1771年にイギリスに帰還します。直ちに航海日誌が出版され、クックは時の人となります。
ちなみにクックはこの航海で一人も壊血病で失いませんでした。18世紀においては奇跡的ともいえる素晴らしい成果です。これは1747年に定められたイギリス海軍の規則に従って、柑橘類とザウアークラウト(ドイツ名物のキャベツの漬物)を乗組員に食べさせて、ビタミンCを十分とらせたおかげです。

クックの第一次航海の航路
AlexiusHoratius at English Wikipedia [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons
その翌年の1772年、クックはより大型の探検用帆船「レゾリューション号(HMS Resolution)」の艦長となり、僚艦「アドベンチャー(HMS Adventure)」と共に第2の航海に出発します。船が座礁した経験から、クックは2隻体制で探検に臨みます。そして今回の目的も南方大陸の探索です。最初の航海でオーストラリアとニュージーランドが南方へつながっていないことが明らかにされたので、クックはさらに南を目指します。
クックはアフリカ南端の喜望峰を過ぎた後に一気に南下し、1773年1月にヨーロッパ人として初めて南極圏に突入します。クックは濃い霧で僚艦とはぐれてしまいますが、ニュージーランドで合流します。さらに南太平洋を東進して南下しますが陸地を発見できずに終わります。クックはこの航海で南方大陸こそ発見できませんでしたが、少なくとも人が住めるほど温かい緯度には南方大陸は存在しないことが明らかになります。
クックは1775年にイギリスへ帰還し、功績が認められて勅任艦長(Post-Captain)に昇進します。一水兵から勅任艦長まで上りつめたのは極めて稀なケースです。
そしてこの航海によって、南方大陸の探索に対する人々の情熱は沈静化します。

南極圏でのレゾリューション号
By Butterfly voyages (mp.natlib.govt.nz) [Public domain], via Wikimedia Commons

クックの第二次航海の航路
AlexiusHoratius at English Wikipedia [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikipedia
また、この第2回航海では初めてクロノメーター(Chronometer)が採用されます。クロノメーターはイギリスの時計職人ジョン・ハリソン(John Harrison)が発明した航海用の正確な機械時計です。緯度は太陽や星の高度を観測することでほぼ正確に知ることができますが、経度を正確に測定するには正しい時間がわからないといけません。それまで最も正確だったのは振り子時計でしたが、振り子時計は揺れる船上では役に立ちません。ハリソンのクロノメーターは板ばねと機械仕掛けを使って、揺れや寒暖差の激しい船上でも正確な時を刻むことができます。
これまでは羅針盤による方角と進んだ推定距離から経度を推定していましたが、当然その誤差は大きく、遭難の原因となっていました。
そして経度が正しく測定できないものという前提で、大航海時代には島の位置などは緯度だけで示されていました。少なくとも緯度が合っていれば真東か真西に航海すれば目的地に到達できたからです。
クックはこの航海で初めて遠洋航海でクロノメーターを使い、正確な経度測定ができることを確認します。緯度と経度でピンポイントで目的地へ到達することができるようになったのです。その後イギリスが7つの海を征服できたのはクロノメーターのおかげとも言われています。
今でも「クロノメーター」と呼ばれる高級時計があります。これは航海用に正確な経度測定ができるように定められたクロノメーター規格に合格した時計だけが名乗ることができる名称なのです。

ハリソンが開発したクロノメーターH4
これに準拠したクロノメーターK1をクックが使用した
By Phantom Photographer (Own Work) [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons
OMEGA スピードマスター コーアクシャル クロノメーター (Speedmaster Co-Axial Chronometer) [新品]
第2の航海から帰還した翌年の1776年、クックは再びレゾリューション号を指揮して第3の航海に出発します。僚艦は「ディスカバリー号(HMS Discovery)」。今回の目的は北極海を抜けて太平洋と大西洋をつなぐ北西航路の探索です。
クックは喜望峰からニュージーランドを経てタヒチへ立ち寄った後、太平洋を北上します。そして北太平洋に浮かぶハワイ諸島(Hawaiian Islands)を西洋人として初めて「発見」します。クックは時の海軍大臣だったサンドウィッチ伯爵の名をとって「サンドウィッチ諸島(Sandwich Islands)」と命名します。パンにハムや野菜をはさんだサンドイッチの語源となったサンドウィッチ伯爵(John Montagu, 4th Earl of Sandwich)です。

レゾリューション号とディスカバリー号
By Creator:Samuel Adkin ([1]) [Public domain], via Wikimedia Commons
クックはハワイから東へ向かい、北米大陸の西岸をカリフォルニアからアラスカまで調査を行います。そしてベーリング海峡を通過してアラスカの端とシベリア東端の北岸を初めて正確に測量します。しかし季節は秋から冬に向かう時期。クックはそれ以上進むことはできず、北西航路の開拓を断念して1779年にハワイへ戻ります。しかしハワイで些細なことで原住民と争いとなってしまい、クックは刺されて亡くなります。50歳の頃のことです。
残された艦隊は再びベーリング海峡を越えて北西航路の開拓を目指しますが、これも季節外れで失敗し、1780年にイギリスに帰還します。

クックの第三次航海の航路
(青線はクック死後の航路)
AlexiusHoratius at English Wikipedia [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikipedia
“I intended to go as far as I think it possible for man to go.”
人間が行ける果てまで行きたかった。
誰よりも遠くへ、そして人間が行ける果てまでを目指したキャプテン・クック。
クックはオセアニアや南極圏、アラスカ沿岸など、それまで未踏だった海域をほぼ調べ尽くしました。北極と南極以外の地図の空白はクックがほとんど埋めたことになります。
果物やザウアークラウトによる壊血病の克服や、クロノメーターによる経度の正確な測定など、航海技術でも大きな進歩がありました。これ以降、遠洋航海は命がけの冒険ではなく科学的な調査となり、ある程度は安全な旅となりました。
クックはイギリスにオーストラリアやニュージーランドの広大な領土をもたらしました。
そしてイギリスが世界の海を支配する大英帝国として飛躍する近代的な航海技術の基盤を築いたのです。
その功績ははかり知れません。
【動画】“The voyage of Captain James Cook (キャプテン・ジェームズ・クックの航海)”, by Alex Bunyan, YouTube, 2012/09/18
それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。
【関連記事】第414回:“Life at sea is better.”―「海で暮らす方がいい」(フランシス・ドレーク), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年03月14日
【関連記事】第409回:“The church says the earth is flat, but I know that it is round.”―「教会は地球は平らだと言うが、私は丸いことを知っている」(マゼラン), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年02月22日
【関連記事】第408回:“Who among you, gentlemen, can make this egg stand on end?”―「皆さんの中でこの卵を立てられる人はいますか」(コロンブス), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年02月18日
【関連記事】第142回:“The same as Sandwich!”―「サンドウィッチと同じものを!」(サンドウィッチ伯爵の友達), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年12月14日
【参考】Wikipedia(日本語版,英語版)
【参考】“Captain Cook: Explorer, Navigator and Pioneer (キャプテン・クック:探検家、航海者にして先駆者)”, By Professor Glyn William, History, BBC, 2012-03-09
【参考】“第14回 ニュージーランドは誰が発見したか”, by 小松正之(アジア成長研究所 客員主席研究員), 太平洋を取り巻く国々と私, 株式会社カワシマ, 2015年3月21日
【参考】“キャップテン・クックの大平洋探検大航海 1768〜1779 3度にわたり探検航海”, by 切手で綴る(つづる) さん, スタンプ・メイツ
【参考】“地球を測った人々(7) キャプテン・クック”, by hmt さん, 地球計測の歴史 〜地球を測った人々〜(eiji_t さん提案), 落書き帳アーカイブズ, 都道府県市区町村, 今日は悠々日..., 2005年10月1日
【参考】“ジェームズ・クック”, by pochi さん, 海賊物語, 2005年10月1日
【動画】“The voyage of Captain James Cook (キャプテン・ジェームズ・クックの航海)”, by Alex Bunyan, YouTube, 2012/09/18
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