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2017年03月14日

第414回:“The people of Japan are good, curteous and valiant.” ―「日本の人々は善良で礼儀正しく、勇敢である」(ウィリアム・アダムス(三浦按針))

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。



第414回の今日はこの言葉です。
“The people of Japan are good, curteous and valiant.”

「日本の人々は善良で礼儀正しく、勇敢である」
という意味です。
これはイングランド出身の航海士で貿易家でもあったウィリアム・アダムス(William Adams, 1564-1620)が祖国に宛てた書いた手紙の言葉です。アダムスは江戸時代初期の日本で徳川家康に仕えた人物で、欧米ではウィル・アダムス(Will Adams)としても知られており、日本では三浦按針あんじんという日本名でも知られています。
また、ジェームズ・クラベル(James Clavell)の小説を原作に制作されたアメリカNBCのテレビドラマ『将軍 SHOGUN』(1980年)の主人公ジョン・ブラックソーン(John Blackthorne)のモデルにもなっています。

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ウィリアム・アダムス
by Unknown [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons

ウィリアム・アダムスは1564年にイングランド南東のジリンガム(Gillingham)という港町に生まれます。
父親は船大工で船員でしたがウィリアムが12歳の時に北極海で船ごと行方不明となります。ウィリアムは故郷を離れてロンドンへ移り、父親のかつての同僚で船大工の棟梁だったニコラス・ディギンス(Nicholas Diggins)に弟子入りして造船術と航海術を12年間みっちりと仕込まれます。
1588年に奉公の年限が終わると、アダムスはイギリス海軍に入ります。ちょうどこの年、「無敵艦隊(Invincible Armada)」と呼ばれたスペイン艦隊がリスボンの港からイギリスを目指して出撃します。130隻の大艦隊です。
イギリス側は海賊上がりの海軍中将フランシス・ドレーク(Francis Drake)率いる200隻が迎え撃ちます。アルマダの海戦です。アダムスもドレークの指揮下で貨物補給船リチャード・ダフィールド号(Richarde Dyffylde)の船長として従軍します。
この戦いはイギリスの圧勝に終わり、フランシス・ドレークは救国の英雄となります。

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フランシス・ドレーク
Marcus Gheeraerts the Younger [Public domain], via Wikimedia Commons

その後アダムスは軍を離れてバーバリー商会(Barbary Company)の航海士や船長として働きます。
アダムスはネーデルランド共和国(今のオランダ)が極東へ向かう航海のために航海士を探しているという話を聞きつけ、弟のトマスと共にロッテルダムへ渡り志願し、採用されます。
船団はホープ号(De Hoope)、リーフデ号(De Liefde)、ヘローフ号(De Geloof)、トラウ号(De Trouw)、フライデ・ボートスハップ号(De Blijde Boodschap)の5隻。1519〜1522年に世界初の世界一周航海をしたマゼラン艦隊も、1577〜1580年に2度目の世界一周航海をしたドレーク艦隊も、5隻からなる船団です。
アダムスは旗艦ホープ号の航海士として採用されます。旗艦の航海士ということは、全艦隊の航海の責任者ということです。
1598年6月、船団はオランダを出港します。目的は東洋の探検と販路の開拓、そして東洋の香料や財宝の収集です。なお、日本ではこの年の8月に豊臣秀吉が亡くなります。

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アダムスが乗り組んだオランダの艦隊
(右手奥がホープ号、右手前がリーフデ号)
by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

当時の七つの海はスペインとポルトガルに支配されています。
コロンブスの新大陸発見の翌年である1493年、ローマ教皇が新大陸を通る一本の子午線をひいて、その東の新領土はポルトガル、西はスペインが領有すると定められたのです。
翌1493年、正式に西経46度37分の子午線の西をスペイン領、東をポルトガル領にするというトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)が結ばれます。さらに1523年にマゼラン艦隊が世界一周に成功すると、その6年後にもう1本の境界線を東経144度30分に定めるサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)(1529年)が結ばれます。
それほど当時はスペインとポルトガルが支配的だったのです。
ちなみにこの条約によると、日本は北海道の一部を除きポルトガルに優先権があることになります。
ただこの時代は、経度を正確に測る方法はまだ確立されていませんでした。緯度は太陽や星の高度を観測すればわかりますが、あとは羅針盤(方位磁石)で得られた方角と進んだ距離の推定値から概算するしかありません。現にアダムスの手紙にある航海記録にも、途中の島や日本の位置として緯度は書かれていますが経度は書かれていませんでした。

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左の点線:1493年にひかれた教皇子午線
左の実線:1494年のトルデシリャス条約で定めた境界線
右:1529年のサラゴサ条約で新たに定めた境界線
By Lencer (Own work) [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

そしてスペイン王のフェリペ2世(Felipe II)が1580年にポルトガル王を兼ねてポルトガルを併合して以降、世界は実質的にスペインの支配となります。スペインは「太陽の沈まない帝国」と呼ばれます。歴史上初めてのグローバルな広がりを持つ大帝国です。
一方のオランダはもともとスペインの統治下だったのが、反乱を起こして1581年にその統治権を否定する独立宣言をした経緯があります。もちろんスペインは独立を承認するはずもなく、反乱の前後からスペインとオランダは後に八十年戦争と呼ばれた戦争状態にあります。

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最盛期のスペイン(赤)とポルトガル(青)の領土と植民地と属領
(1580年-1640年)
By en:User:Câmara [Public domain], via Wikimedia Commons

アダムスの母国イギリスはオランダ独立を支援します。同じプロテスタントの新教国家としてスペインのカトリック教会に対抗する意図もあります。またそれだけでなく、女王エリザベス1世(Elizabeth I)が海賊たちにポルトガルやスペインの船や植民地を襲って金品を奪ってもよいという私掠しりゃく免許(Letter of Marque)を与え、私掠船しりゃくせん」(Privateer)がスペインの船や植民地を襲って財宝を奪い取るというとんでもない政策を推進しています。カトリック国家のスペインとポルトガルが独占している海洋貿易に風穴を開けようとしていたのです。
アダムスも従軍した1588年のアルマダの海戦も、これにキレたフェリペ2世がイギリスを叩こうとしたのが経緯です。この戦いはイギリスが勝利しますが、まだまだスペインの覇権はびくともしない時代です。

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エリザベス1世
(1575年頃の肖像画)
Painted by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

またこの時代の航海は、自国の拠点がない所では自由に食料や物資の補給ができません。
スペインのマゼラン艦隊は太平洋を回ってフィリピンと香料諸島に到達した後、インド洋から喜望峰と大西洋を回ってスペインに帰ります。しかしインド洋やアフリカ沿岸のめぼしい港はすべてポルトガルが支配していたため補給ができず、船員たちは太平洋横断の時と同じように飢えと壊血病に苦しみます。

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マゼラン艦隊の航路(1519-1522年)
By Knutux (Own work by the original uploader), Japanese text added by Jim Saeki on 29th January 2017 [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

一方、世界で2番目に世界一周航海に成功したイギリスのドレーク艦隊は、食料や物資の補給は武力を用いた略奪で行うものと最初から割り切っています。ドレークはエリザベス1世の私掠しりゃく免許を携えて、行く先々のスペインやポルトガルの船や植民地を「合法的に」襲います。そして物資や食料だけでなく、積み荷や財宝までも略奪しながら世界一周をして巨万の富を得たのです。ドレークは後にスペインの無敵艦隊の襲来を撃退した英国海軍の英雄ですが、この当時は実質上「海賊の世界一周」です。

0414-drake_1577-1580.png
ドレーク艦隊の航路(1577-1580年)
By Continentalis (This file was derived from  World Topography.jpg:), Japanese text added by Jim Saeki on 4th February 2017 [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

アダムスが参加しているオランダの艦隊もイギリス艦隊と同じです。道中スペインやポルトガルの船に攻撃される恐れもありますので、5隻の船は多くの大砲で重武装しています。
艦隊はアフリカ西岸に立ち寄りますが、ここまで天候や風向きが悪かったため予定を超える長い日数がかかってしまいます。そこでアダムスは当初予定の喜望峰をまわってインド洋を通る東回り航路ではなく、マゼラン海峡を通って太平洋を通る西回り航路で東洋へ向かうことを提案し、艦隊は南西に向かいます。マゼラン海峡近くで越冬し、南大西洋に到達したとき、悪天候に襲われた艦隊は散り散りになってしまいます。フライデ・ボートスハップ号は漂流した後にチリ沿岸でスペインに拿捕されます。ヘローフ号は航海の継続を断念してオランダへ帰還します。
アダムスが配置転換されていたリーフデ号は、南米大陸の西岸のエクアドルのはるか沖に浮かぶガラパゴス諸島(Galápagos Islands)のフロレアナ島(Floreana Island)で僚艦を待ちます。しかし合流できたのはホープ号の1隻だけに終わります。さらに島の原住民に襲われて、2隻の船の船長を含む40人あまりが殺されます。アダムスの弟トマスも命を落とします。
ここで合流できなかったトラウ号は後に東南アジアの香料諸島(モルッカ諸島)に到達しますが、ポルトガルに拿捕されて乗組員は殺害されてしまいます。

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ハウステンボスにあるリーフデ号の復元船
(2007年撮影)
By Nissy-KITAQ (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

リーフデ号とホープ号はハワイと思われる島で食料を補給しながら航海を続けます。しかし途中で嵐にあってホープ号も沈没します。残ったリーフデ号は豊後ぶんごの国、今の大分県臼杵うすき市の黒島に漂着します。5隻の艦隊はただ1隻のみとなっており、出港時に500人近くいた隊員のうち日本に漂着したのは24人です。
1600年(慶長5年)の春、関ヶ原の戦いの半年前のことです。

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リーフデ号の推定航路(1598-1600年)
Route and text by Jim Saeki, added to BlankMap-World-90W.svg: Lokal_Profil derivative work: Shadowxfox [Public domain], via Wikimedia Commons

アダムス達は救助され、臼杵城にいた領主、太田一吉かずよしから親切な待遇を受けます。太田一吉は城下の侍屋敷を休息所としてアダムスたちに使わせ、船には太田家の侍たちが搭乗して積荷が奪われないように夜通し警戒します。しかし長崎から来たポルトガルの宣教師たちは、アダムスたちは海賊だから即刻死罪にせよと太田一吉に進言します。
時の最高権力者は大阪城にいる豊臣秀頼ひでより。しかし真の実力者だった五大老筆頭の徳川家康が漂着船に興味を持ちます。船長のヤコブ・クワッケルナックが重体だったため、航海士のアダムスと副航海士のヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteyn)らが大坂に連行されて取り調べを受けることになります。
ここでもスペインやポルトガルの宣教師たちがアダムスたちが海賊であると家康らに吹き込みます。自分たちが日本に苦労して築いた宣教や貿易の既得権益を新参のオランダやイギリスに奪われたくないためです。
そのためか、大坂についたアダムスたちは収監されてしまいます。

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玉田信行の作品『出会い』に描かれたリーフデ号の来訪
左よりヤコブ・クワッケルナック船長、航海士のウィリアム・アダムス、副航海士のヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン
By Masaharu Kitayama (Own work) [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons

まもなく、アダムスらは家康に呼び出され、会見します。
この時のことを後にアダムスは妻への手紙で語っています。
“Coming before the king, he viewed me well,”
「王の前に参上すると、彼は私をじっと見た」
まさに緊張の対面です。家康の気分次第で自分たちの命が危うくなることは、アダムス達は十分承知していたことでしょう。家康はこの時は将軍でも王でもありませんでしたが、最高実力者としてアダムスは「王」と表現しています。
手紙はさらに続きます。
“... and seemed to be wonderfully favourable. He made many signs unto me, some of which I understood, and some I did not. In the end, there came one that could speak Portuguese. By him, the king demanded of me of what land I was, and what moved us to come to his land, being so far off.”
「彼は驚くほど好意的なように見えた。そして私に向っていろいろな身ぶり手ぶりをした。いくつかは私も理解できたが、いくつかは理解できなかった。しまいにはポルトガル語が話せる者がやってきた。その者を通して、王は私に質問をした。私がどこの国の者なのか、そしてこの国に遠路はるばる何をしに来たのかと。」
異国人に対して興味津々な家康の様子が目に見えるようですね。質問も率直です。
アダムスはオランダとイギリスから友好と貿易を求めて来たと答えます。

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徳川家康と会見するアダムス一行の想像図
(1707年の地図の挿絵より)
by Pieter van der Aa [Public domain], via Wikimedia Commons

アダムズの手紙にもあるように、アダムスらと家康らとの会話はポルトガル語で行われます。
当時、ポルトガル海上帝国として世界の海を支配していたポルトガルの言葉が今の英語のように世界共通語として使われていたのです。イギリス人やオランダ人の船乗りも当然のようにポルトガル語を話せます。日本にいるポルトガル人の宣教師も日本語を話せるようになっていますし、日本人でも宣教師の妻子や自ら宣教師になった者、商人や役人などポルトガル語を話せる人がある程度いて、通訳を手配できたのです。
ちなみに「イギリス」という日本式の国名はポルトガル語の
“Inglês”
ングリス)
から来ていると言われます。
また「オランダ」という国名はポルトガル語の
“Holanda”
ランダ)
から来ているようです。

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スペインの大手デパート「エル・コルテ・イングレス(El Corete Inglés)」
スペイン語で「英国仕立ての」洋服を扱っていたことが店名の由来
(ポルトガル語ではないですが...)
By No machine-readable author provided. Esansero assumed (based on copyright claims). [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 2.5-2.0-1.0], via Wikimedia Commons

家康は続けて戦争について、そして宗教について尋ねます。アダムスは、オランダとイギリスがスペインやポルトガルと戦争をしていること、自分たちは神を信じていることを正直に答えます。さらに日本までの道のりを訊ねられたアダムスは、世界地図を示してマゼラン海峡を通ってきたと答えます。家康は嘘だろうと驚きます。家康は次々と質問をして、彼らは夜遅くまで語り合ったそうです。
アダムスの率直な受け答えを聞いて人柄と知識も信用できると見込んだ家康は、アダムスたちの拘禁を解きます。アダムスたちを気に入った家康は自らの本拠地である江戸に招くことにします。
ポルトガルやスペインの宣教師たちはアダムスたちのことを悪く言いましたが、家康は、
「貴国らが交戦中であることは十分承知した。されどわが国にはあずかり知らぬこと。罪と害なき異国人を死罪に処すのは我々の法ではできぬ。道理と正義にも反する」
と答えます。今では常識ともいえる対応ですが、当時としては驚くほど公明正大で、素晴らしく進歩的で文明的な英断だと思います。宣教師たちはそれ以上まったく反論できなかったことでしょう。

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徳川家康
Kanō Tan'yū, cropped by Jim Saeki on 30th January 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

リーフデ号は大阪に回航され、さらに江戸に回航されて係留されます。生き残ったほかの乗組員たちも船と共に江戸に移ります。取り外された大砲は関ヶ原の戦いでも威嚇のために使われたと言われます。
日本がスペインやポルトガル以外の西洋国家と接触したのは、この時が初めてだとされています。南蛮なんばんと呼ばれたスペインやポルトガルの人たちはカトリック教で、一般的に黒髪で瞳の色も日本人に近い黒や茶色です。これに対してイギリスやオランダの人はプロテスタント教で、髪は金色や茶色が多く、瞳の色は青や緑などの明るい色が多いです。同じ西洋でも明らかに南蛮人と異なるイギリス人やオランダ人のことは、紅毛こうもうと呼ばれるようになります。

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「紅毛人巡見之図」
オランダ人を描いた江戸時代後期の錦絵(作者不詳)
By unknwon (Catalogue) [Public domain], via Wikimedia Commons

乗組員たちは解放され、一部は平戸から中国船で東南アジアへ向けて出国します。しかしアダムスやヤン=ヨーステンら幹部数人は帰国を願い出ても許されず、家康は屋敷と俸給を与えて通訳や外交・軍事顧問として彼らを召し抱えます。いわば家康の参謀です。アダムスたちは家康や側近に幾何学や数学、航海術などの知識を紹介したりもしたそうです。
ヤン=ヨーステンは後に耶楊子やよすという日本名を名乗りますが、「耶楊子」が「八代洲やよす」→「八重洲やえす」となり、彼の屋敷があった今の八重洲の地名の語源となったという話は有名です。

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ヤン=ヨーステン
八重洲地下街にあるヤン・ヨーステンの像
by Shutter Speed (Own Work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

1600年(慶長5年)秋の関ケ原の戦いに勝利して天下をとった徳川家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍となって江戸幕府を開きます。
この頃、家康はアダムスに西洋式帆船の建造を命じます。アダムスに船大工の経験があることを知っていたからです。アダムスはリーフデ号の修理の際に知り合った日本の船大工の協力を得て、1604年に80トンの船を、1607年に120トンの船を相次いで建造します。この功により家康はアダムスを250こく取りの直参旗本に取り立て、三浦半島の今の横須賀市にある逸見へみに領地を与えます。名字帯刀も許され、アダムスは家康の提案で三浦按針あんじんと名乗ります。「三浦」は領地がある三浦半島からとったもので、「按針」は水先案内人という意味です。
家康は三浦半島の先にある浦賀の港を長崎や平戸のような海外貿易の拠点にしようと考えており、その近くにアダムスの領地を与えたのです。


【動画】“Shogun trailer (『将軍』予告編)”, by Freddy Vermeulen, YouTube, 2009/03/21

家康は、信長や秀吉の時代から続いていたスペインやポルトガルとの南蛮貿易を継続します。
しかし秀吉の頃から日本ではスペインやポルトガルに対する警戒心が次第に高まりつつあります。スペインやポルトガルがカトリックの宣教や貿易をきっかけとして植民地を広げていることを知り、日本も植民地として征服しようとたくらんでいるのではないかと警戒したのです。家康はアダムスやヤン=ヨーステンから最新の情報を仕入れつつ、同様の警戒心をもちながら朱印状を用いた許可制による南蛮貿易を続けます。
そして1609年、オランダ東インド会社の船が来日して日本との貿易を開始します。ヤン=ヨーステンは平戸にできたオランダ商館で働き、アダムスも手伝います。
アダムスはオランダ船に乗っていたイギリス人に手紙を託します。以前にもイギリスの妻に宛てて手紙を書いて商人に託しましたが、届いたかどうかわかりません。東南アジアのイギリス東インド会社までなら、今やオランダ船でダイレクトに届けられるのです。
宛先は、イギリス人なら誰でも受け取れるよう“Unknown Friends and Country-men(未知の朋友と同国人へ)”とします。アダムスは手紙の中で、自分の出自と日本漂着の経緯、日本の状況を短い手紙で簡潔に説明します。そして、
“The people of this Land of Japan are good of nature, curteous above measure, and valiant in war.”
「日本の人々は善良で、とても礼儀正しく、戦いでは勇敢である。」
と説明します。当時の武士の気質を簡潔に表しています。そしてアダムスは末尾に、
“I do pray to make my being here in Japan known to my poor wife.”
「私が日本にいることを哀れな妻に知らせて下さい」
と書き添えます。

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アダムスが平戸からイギリス東インド会社へ出した手紙
(1613年12月1日付け、大英図書館蔵)
World Imaging [Public domain], via Wikimedia Commons

手紙は無事にジャワ島のイギリス東インド会社に届けられます。実はリーフデ号の日本到着やアダムスが日本でサムライとなって活躍していることはポルトガルやスペインの船乗りたちによって西欧にも伝わり、船乗りや商人たちの間では有名となっていたのです。妻へ宛てた手紙も後半部分は無くなりながらも船乗りたちの手から手に渡り、妻のもとに届いたと言われます。
1613年、待ちに待ったイギリスの船が平戸に来航します。イギリス東インド会社のクローブ号です。クローブ号はイギリス国王ジェームス1世(James I)の親書と様々な献上品を運んできています。
アダムスは使節が家康と2代将軍の徳川秀忠ひでただに謁見する仲介などで協力します。家康は喜んでイギリスとの通商を許し、秀忠は朱印状を発行します、イギリスも平戸にイギリス商館を開きます。そしてリチャード・コックス(Richard Cocks)が商館長として残ります。翌年クローブ号が帰国する時にアダムスは帰国を許されますが、司令官のジョン・セーリス(John Saris)との仲が悪化したアダムスは帰国を見合わせ、イギリス商館で働くことになります。

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ジェームズ1世
Attributed to John de Critz the Elder, cropped by Jim Saeki on 11th February 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

この後、江戸幕府は次第にスペインなどのカトリック国を冷遇し、オランダやイギリスなどの新教国を厚遇するようになります。スペインとポルトガルが領土的野心を警戒されたのに対して、英蘭はほぼ貿易だけに力を入れていたため、幕府は国を乗っ取られる心配をせずに貿易ができたからです。
幕府は1612年に天領(徳川家の直轄地)での宣教を禁止し、翌1613年に全国での禁教を宣言します。長崎や京都にあった教会は破壊され、宣教師や信徒たちはマカオやマニラに国外追放されます。そして1616年、将軍の秀忠は「二港制限令」を出し、外国との貿易を長崎と平戸の二港に制限します。
同年、アダムスを厚く信頼していた徳川家康が亡くなると、鎖国体制を築きつつある幕府はアダムスを冷遇します。アダムスは自ら船を調達して今のタイやベトナムに何度か航海して何度かは貿易に成功しますが、何度かは嵐などで失敗します。さらにアダムスは南方でマラリアにかかり、平戸で病床につきます。
1620年、アダムスは平戸で死亡します。55歳の頃のことです。

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平戸にあるアダムスの墓
by Robbot [Public domain], via Wikimedia Commons

この頃すでに東南アジアの制海権はオランダが握っており、スペイン・ポルトガルの船だけでなく、友好国のイギリスの船でも敵とみなされオランダ船に次々と襲撃されます。いくら日本で売買ができても、安全にたどり着けなければ貿易はできません。1623年、ついにイギリスは日本貿易からの撤退を決め、イギリス商館を閉鎖します。
そして翌1624年、幕府はスペイン船の来航を禁止します。さらに1639年にはポルトガル船の来航を禁止します。オランダを通した貿易だけでこれまでの物資が調達できることが確認できたからです。
これ以降の日本と西洋との貿易は、長崎の出島を通したオランダとの貿易だけに完全に限定されます。
鎖国の完成です。

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出島
By Isaac Titsingh [Public domain], via Wikimedia Commons

“The people of Japan are good, curteous and valiant.”
日本の人々は善良で礼儀正しく、勇敢である。

遠く日本に流れ着いて徳川家康にオランダやイギリスを紹介したウィリアム・アダムス。
アダムスの目は日本と日本人に対して限りなく好意的です。
そのアダムスを信用して受け入れ、250石取りの直参旗本に抜擢するという破格の待遇で応えた家康。
アダムスが徳川政権の最初期の対外政策に与えた影響の大きさははかり知れません。


【動画】“Will Adams, the English Samurai (ウィル・アダムス, 英国人のサムライ)”, by NWTV, YouTube, 2016/03/06

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。


【動画】“歴史ミステリー 関ヶ原の戦いの黒幕はエリザベス女王だった?”, by RE Gettings, YouTube, 2016/11/28

【関連記事】第412回:“Life at sea is better.”―「海で暮らす方がいい」(フランシス・ドレーク), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年03月06日
【関連記事】第411回:“The Japanese are truly the delight of my heart.”―「日本人は本当にわが心の喜びである」(ザビエル), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年03月02日
【関連記事】第409回:“The church says the earth is flat, but I know that it is round.”―「教会は地球は平らだと言うが、私は丸いことを知っている」(マゼラン), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年02月22日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“Will Adams' 1611 Letter From Japan”, The Fight School
【参考】“Letters written by the English residents in Japan, 1611-1623, with other documents on the English trading settlement in Japan in the seventeenth century”, Internet Archive
【参考】“三浦按針 (ウイリアム・アダムス)”, by 中野昌彦 さん, 日米交流
【参考】“偉人 三浦按針”, 名言集|心の常備薬, 2016/09/19
【参考】街道をゆく〈35〉オランダ紀行 (朝日文芸文庫), 司馬 遼太郎 (著)

【動画】“Shogun trailer (『将軍』予告編)”, by Freddy Vermeulen, YouTube, 2009/03/21
【動画】“Will Adams, the English Samurai (ウィル・アダムス, 英国人のサムライ)”, by NWTV, YouTube, 2016/03/06
【動画】“歴史ミステリー 関ヶ原の戦いの黒幕はエリザベス女王だった?”, by RE Gettings, YouTube, 2016/11/28




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