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2017年02月22日

第409回:“The church says the earth is flat, but I know that it is round.”―「教会は地球は平らだと言うが、私は丸いことを知っている」(マゼラン)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。



第409回の今日はこの言葉です。
“The church says the earth is flat, but I know that it is round.”

「教会は地球は平らだと言うが、私は丸いことを知っている」
という意味です。
これはポルトガル出身の探検家フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan, 1480頃-1521)の言葉と言われています。英語読みでは「マジェラン」と発声されますが、日本では「ゼラン」と呼ばれることが多いようです。なお、マゼランの母国のポルトガルでは「フェルナン・デ・マガリャンイス(Fernão de Magalhães)」、マゼランの艦隊を送り出したスペインでは「フェルナンド・デ・マガリャネス(Fernando de Magallanes)」と呼ばれます。
マゼランはスペインの艦隊を率いて西回りで東洋を目指し、マゼラン海峡を発見して太平洋を横断し、フィリピンに到達した人物です。マゼラン自身は航海半ばで亡くなりますが、マゼランの艦隊は世界で初めて世界一周航海をなしとげます。

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フェルディナンド・マゼラン
(16世紀か17世紀頃の肖像画)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

今日の言葉には続きがあります。
“The church says the earth is flat, but I know that it is round, for I have seen the shadow on the moon, and I have more faith in a shadow than in the church.”
「教会は地球は平らだと言うが、私は丸いことを知っている。月に落ちる影を見たことがあるからだ。私は教会よりも影を信用する。」
マゼランは月食をおこす地球の影が丸いことを言っているのです。
ただこの言葉、マゼランがいつどこで言ったのか文献として残っているわけではありません。
マゼランの言葉ではないのではないかという説もあります。

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月食の時の地球の影
(2011年12月10日の月食)
By Alpsdake (Own work), cropped by Jim Saeki on 29th January 2017 [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

フェルディナンド・マゼランは1480年頃にポルトガル北部のポルト近郊で生まれたと言われます。父親は下級貴族で、フェルディナンドは1492年にポルトガル王ジョアン2世(João II)の王妃レオノール・デ・ヴィゼウ(Leonor de Viseu)の小姓としてポルトガルの宮廷に入ります。12歳の頃のことです。
ちょうどこの年にクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)が率いるスペインの艦隊が今の南北アメリカ大陸である「新世界」を発見します。また、1498年には同じポルトガル人のバスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)がアフリカ最南端の喜望峰を経由してインドのカリカットを経てゴアに到達し、インド航路を発見します。さらに1500年にはやはりポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カブラル(Pedro Álvares Cabral)が「新世界」にある今のブラジルの海岸に到達します。
マゼランは大航海時代(Age of Discovery)の幕を開いたこれらの偉業を聞いて航海への関心を深めます。

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バスコ・ダ・ガマ
António Manuel da Fonseca [Public domain], via Wikimedia Commons

バスコ・ダ・ガマのインド航路発見を受けて、ポルトガルは次々にインド洋へ艦隊を送り出して香料貿易の独占をはかります。そしてインド洋におけるポルトガルの制海権を確立すべく、1505年にポルトガルはフランシスコ・デ・アルメイダ(Francisco de Almeida)が率いる22隻の大艦隊をインドに派遣します。25歳になっていたマゼランは志願して、弟のディエゴ・マゼランと従兄弟のフランシスコ・セラーンと共に航海に参加します。

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フランシスコ・デ・アルメイダ
By Unknown, cropped by Jim Saeki on 22nd January, 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

アルメイダの艦隊はアフリカ東岸のキルワ島、モンバサ、ソファラなどのイスラム商人の交易拠点に立ち寄り、これらを攻撃してイスラム勢力の排除をはかります。その後艦隊はインドへ到達し、アルメイダは副王の称号を用いて、インド総督の活動を開始します。
1509年、インド北西部のディーウ沖でポルトガルの艦隊とイスラム勢力の艦隊が激突します。ディーウ沖海戦(Battle of Diu)です。アルメイダ率いるポルトガル艦隊は18隻、一方のイスラム勢力はオスマン帝国やヴェネチア共和国の支援を受けた連合軍100隻です。ポルトガル軍は強力な大砲による砲撃とディーウ泊地に上陸した海兵隊の白兵戦によって連合軍を圧倒します。マゼランもこの戦闘に参加しますが負傷し、インド南部沿岸のコチンで5ヶ月も入院することになります。戦いに勝利したポルトガルはインド洋の制海権を徐々に確立し、周辺都市を次々に制圧していきます。安定したインド航路を確立したポルトガルは、かつて香料貿易を独占していたヴェネチアからその地位を奪って香料貿易から莫大な利益を獲得し、「ポルトガル海上帝国(Portuguese Empire)」と呼ばれる大海洋国家となります。

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16世紀のポルトガル領とポルトガルの交易拠点
Tokle [GFDL or CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

一方、1492年にコロンブスの航海によって「新世界」への航路を開拓したスペインも、大航海時代の主役のもう一つです。アフリカ回りのインド航路はポルトガルががっちりと押さえていたため、スペインは「新世界」へ積極的に進出します。
そして1493年、スペイン出身のローマ教皇アレクサンデル6世(Alexander VI)は、アフリカ大陸の西に浮かぶポルトガル領のカーボベルデ(Cabo Verde)の西100リーグ(約480キロ)を通る子午線を「教皇子午線」として、その東側の新領土をポルトガル領に、西側の新領土をスペイン領とする回勅「インテル・チェテラ(Inter caetera)」を布告します。

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1493年に定められた教皇子午線(右)
左は1494年のトルデシリャス条約で定められた境界線
Tzzzpfff at the German language Wikipedia, Japanese text added by Jim Saeki on 29th January 2017 [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

この子午線は「新世界」の東の端をわずかにかすめているに留まっており、教皇の出身国であるスペインに非常に有利な回勅です。ポルトガル国王のジョアン2世はスペイン国王のフェルナンド2世と直接交渉し、境界線をさらに270リーグ(約1300キロ)ほど西へ移動した西経46度37分の子午線の東をポルトガル領、西をスペイン領にするというトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)をスペインと結びます。ローマ教皇もそれを承認します。南米大陸の中でブラジルだけがポルトガルの植民地となったのはこの条約がもとになっています。そかしそれ以外の「新世界」の権益はほぼスペインのものとなります。スペインとポルトガルは、一本の子午線によって世界を二分したのです。
当然、この条約から締め出されたほかの国々は面白くありません。しかし当時のスペインやポルトガルの海軍力に太刀打ちできる海洋国家はまだ育っていません。この両国の権益をイギリスやオランダが脅かすようになるのはもう少し後の話となります。

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スペイン帝国の最大版図(1790年頃)
By Nagihuin (Own work) [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons

さて、ディーウ沖海戦での傷が癒えたマゼランは、続くマラッカ遠征にも参加します。マラッカ王国はマレー半島南部と対岸のジャワ島の一部を支配していたイスラム勢力の一つです。この遠征はマラッカ王の策略によりポルトガル側の敗北に終わりますが、マゼランはこの戦いの功績により船長の地位を得ます。1511年にポルトガルは再びマラッカに大艦隊を送り、今度は制圧に成功します。マゼランもこの制圧戦でさらに功績を挙げ、1513年にポルトガルに帰国します。

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マラッカ王国(15世紀)
By Gunawan Kartapranata (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

ポルトガルがはるか東方のマラッカを制圧したのは、その先に「香料諸島(Spice Islands)」と呼ばれたモルッカ諸島(Moluccas)があったからです。
当時インド経由でヨーロッパへ輸入されていた胡椒を除く香料のほとんどが香料諸島の産出品です。ポルトガルは産地の香料諸島からインド航路を経たポルトガルまでの香料貿易の全てを押さえることを狙っていたのです。
マラッカを制圧したポルトガルは、当然のように香料諸島への遠征隊を派遣します。しかしこの遠征隊は途中で遭難してしまいます。マゼランはこの遠征隊に加わっていませんでしたが、マゼランの従兄弟のフランシスコ・セラーンは孤立しながらも通りかかった中国のジャンク船を奪って香料諸島に到達します。そして島の一つテルナテの王に気に入られ、王の軍事顧問として高い地位と豊かな生活を手に入れます。マゼランも凄いですが、セラーンも地味に凄いです。セラーンはマゼランに手紙を書き、香料諸島が噂どおり豊富な香料を産すること、ポルトガルの支配はまだ確立されておらず、マゼランとポルトガルの艦隊が来るべきであることを伝えます。


香料諸島と呼ばれたモルッカ諸島

ポルトガルに帰国したマゼランは、北アフリカ征服を目指したモロッコ遠征に参加して負傷します。その後マゼランは東洋へ向かう艦隊を指揮させてほしいとポルトガル宮廷に要求します。香料諸島で現地の王の重臣となった従兄弟のセラーンの手紙の情報も宮廷に報告したはずです。しかしポルトガル王マヌエルはこれを拒絶します。ポルトガルは既に東回りの航路の制海権をほぼ押さえつつあったので、西回りの航路を開拓する必要性が切実ではなかったのです。
マゼランはポルトガル宮廷を去りますが、そんなマゼランに今度はスペインの商人が接近します。東回りの貿易拠点を持っていなかったスペインは、西回りでのアジア航路の開拓を狙っていたのです。マゼランはスペインの商人のお膳立てでスペイン王カルロス1世に謁見します。後の神聖ローマ皇帝カール5世です。マゼランは、ポルトガルが支配する東回りのアジア航路よりも西回りの航路が航路が短く、コストも安くなるだろうとスペイン王に説明します。
当時の「新世界」は独立した大陸ではなく、東アジアの東端にある大半島だと思われています。「新世界」をインドの一部だと思ったコロンブスと同じ世界観です。ですからもし「新世界」の南を迂回して西に抜けることができたら、すぐに香料諸島に到達できると考えられていたのです。

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マルテルス図(1490年)
コロンブスやマゼランの世界観に近い
アメリカ大陸は独立した大陸ではなく、アジア東端の大半島として考えられていた。
(Wikipediaより)
By Heinrich Hammer the German ("Henricus Martellus Germanus")Ptolemy (Κλαύδιος Πτολεμαῖος, Claudius Ptolemaeus) [Public domain], via Wikimedia Commons

スペイン王はマゼランに艦隊を任せる決断を下します。ポルトガルはこれを面白く思わず、艦隊の物資調達を妨害したり、マゼランの暗殺計画を検討したります。
しかし1519年、マゼランが率いる5隻の艦隊はスペインのセビリアを出航します。目的地は東洋の香料諸島。マゼランが39歳の頃のことです。当時はスペインよりもポルトガルの航海技術のレベルが高いとされており、スペインの艦隊にはマゼランと同じポルトガル人の船員も多く雇われています。

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16世紀の地図に描かれたビクトリア号
(5隻のマゼラン艦隊の中の1隻)
By Ortelius (www.helmink.com) [Public domain], via Wikimedia Commons

艦隊はカナリア諸島や今のブラジルのリオデジャネイロ地方に立ち寄りながら、南米大陸の東岸を南下します。大陸南端に近いパタゴニアで冬を迎え、マゼランは長期の停泊を決めて食料の節約を命じます。
しかしスペイン人が主体の隊内では不満がつのり、スペイン人幹部が反乱をおこして5隻の船のうち3隻が反乱側についてしまいます。マゼランはすばやく反撃してこれを制圧し、首謀者や加担者を処刑したり追放したりして反乱を収めます。しかしマゼランとスペイン人たちとの確執はその後も根深く残ることになります。
春が訪れると艦隊は航海を再開し、さらに南下を続けます。当時、新世界は南方の大陸(南極とオーストラリアがつながったような巨大大陸)と地続きになっているという説もありましたが、マゼランは西へ抜ける航路が必ずあると信じて探索を続けます。
1520年11月の末、マゼランたちは複雑に入り組んだ海峡を抜けて、ついに西方の広い海に到達します。太平洋です。
マゼランたちが通った海峡は「マゼラン海峡(Strait of Magellan)」(スペイン語では「マガリャネス海峡」)と名付けられます。途中で船の1隻が難破し、さらにもう1隻が行方不明となったため、艦隊は3隻となっています。

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マゼラン海峡の衛星写真
(2003年撮影)
Image courtesy of MODIS Land Rapid Response Team at NASA GSFC [Public Domain] via Wikimedia Commons

マゼラン海峡は南米大陸とフエゴ島の間の海峡です。マゼランは海峡の南側の陸地は南方の巨大大陸だと思っていましたが、実際はフエゴ島という九州ほどの大きさの島だったのです。このあたりは多島海となっており、最南端のオルノス島南端のホーン岬と南極大陸との間の海峡は1578年に発見され、「ドレーク海峡」と名づけられます。ドレーク海峡の幅は650キロと広いのですが、いつも海が荒れているため、波の静かな内海であるマゼラン海峡の方が航行には適しており、近道にもなります。
さて、マゼラン海峡を抜けたマゼランは、広くおだやかな大洋を「マール・パチフィコ(Mar Pacífico, 平和の海)」と名付けます。「太平洋(Pacific Ocean)」の名前の由来です。

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マゼラン海峡を航行するアメリカ海軍の空母ロナルド・レーガン
By Photographer's Mate 3rd Class Elizabeth Thompson (Main article, with link to image.) [Public domain], via Wikimedia Commons

マゼランの艦隊はしばらく今のチリ西岸を北上した後、北西に進路をとります。しかし「新世界」の西側にこれほど広い大洋があるとはマゼランの想定外のことです。食料も底をついており、マゼランたちは壊血病と栄養失調に苦しみながら航海を続けます。そして3ヶ月の後、艦隊は何とかマリアナ諸島のグアム島にたどりつきます。さらに1週間後、マゼランたちはフィリピン諸島に到達します。現地住民の中にマレー語を理解する者がいたことから、マゼランはついに東洋に到達したと確信します。西回りで初めて東洋に到達できたのです。
マゼランの一行は補給のためセブ島に停泊します。しかし3週間を超える長期滞在中にキリスト教を布教したり武力をちらつかせたりしたこともあり、セブ島の隣のマクタン島の領主ラプ=ラプ(Lapu-Lapu)が反乱を起こします。マゼランは反乱を制圧しようと50名の上陸部隊を率いてマクタン島に乗り込みますが、1500人の現地兵に包囲されて戦闘となります。船に残るスペイン人たちはマゼランと反目していたため援軍を出さなかったこともありマゼランは孤立無援の戦いを強いられ、ついに戦死します。41歳の頃のことです。

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マクタン島でラプ=ラプと闘うマゼラン
Nmcast at English Wikipedia [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons

残された艦隊は航海を続け、何とか目的地の香料諸島までたどり着きます。マゼランの従兄弟セラーンは既にこの世を去っています。仕えていたテルナテ王と共に政敵のティドーレ王に毒殺されたのです。
一行は最期の1隻となったビクトリア号に香料を積んで、西回りでスペインへ向かいます。指揮を執るのはスペイン人のフアン・セバスティアン・エルカーノ(Juan Sebastián Elcano)です。海域はポルトガルの支配下でしたので途中の港で補給ができず、乗組員は再び壊血病と栄養失調に苦しみます。ビクトリア号がスペインにたどり着いた時、270人いた隊員はわずか18人に減っていました。およそ3年の航海でした。

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ビクトリア号の復元船
世界一周航海の途上、愛知万博期間中に名古屋に停泊した
(2005年撮影)
By Gnsin (Own work) [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

スペインはその後も何度か艦隊を送り出しますが、ことごとく失敗してしまいます。それだけ太平洋は大きく、西回り航路は苛酷なのです。スペインはマゼラン艦隊が立ち寄ったフィリピンの植民地化には着手しますが、香料諸島への航路はポルトガルに売却します。しかしポルトガルも西回り航路の定期便は開設せず、その後しばらく放置します。

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マゼラン艦隊の航路
By Knutux (Own work by the original uploader), Japanese text added by Jim Saeki on 29th January 2017 [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

一方で、議論となったのが1494年のトルデシリャス条約です。西経46度37分の子午線の西がスペイン領、東がポルトガル領と定めたとんでもない条約です。平らな地図上ではこれで問題ないのですが、マゼラン艦隊によって世界地図の東の端と西の端がつながっていることが証明されます。そこで境界線をもう一本ひかないと極東での帰属がはっきりしないのです。スペインとポルトガルは特に香料貿易で莫大な富をもたらす香料諸島の帰属を争います。そして両国の交渉の末、1529年にサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)が締結されます。新たに設定された第二の境界線は東経144度30分。日本の北海道やニューギニア島の中央部、オーストラリアの東よりの部分を通っています。ポルトガルは香料諸島を含むアジアの権益を確保するため、スペインに賠償金を払ったそうです。またフィリピンは第二の境界線の西側ですが、交渉でスペインが権利を獲得します。

0409-spain_and_portugal.png
1529年のサラゴサ条約で新たに定めた境界線(右)
左の点線は1493年にひかれた教皇子午線
左の実線は1494年のトルデシリャス条約で定めた境界線
By Lencer (Own work) [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

“The church says the earth is flat, but I know that it is round.”
教会は地球は平らだと言うが、私は丸いことを知っている。

世界で初めて西回りで東洋にたどり着いたマゼラン。航海途中で無念の死をとげますが、艦隊は香料諸島へ到達し、さらに世界一周を達成しました。
実はコロンブスやマゼランの当時でも人々は地球が丸いということを知識として知っていました。しかしマゼランによって、西へ西へと航海すれば東洋にたどり着けることが初めて実証されたのです。
マゼラン海峡の発見と太平洋の発見、太平洋を横断した東洋への到達など、地理学上でのマゼランの功績ははかり知れません。


【動画】“Ferdinand Magellan - Mini Biography (フェルディナンド・マゼラン - ミニ伝記)”, by BIO, YouTube, 2013/08/01

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。

【関連記事】第408回:“Who among you, gentlemen, can make this egg stand on end?”―「皆さんの中でこの卵を立てられる人はいますか」(コロンブス), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年02月18日
【関連記事】第406回:“Chipangu is an Island towards the east in the high seas.”―「ジパングは東方の大洋中にある島である」(マルコ・ポーロ『東方見聞録』より), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年02月10日
【関連記事】第103回:“You, happy Austria, marry.”―「幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」(ハプスブルク家), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年10月05日
【関連記事】第48回:“It's a chicken-and-egg situation.”―「これは鶏と卵の状態だ」(日常会話), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年06月30日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“フェルディナンド・マゼラン”, 海賊物語
【参考】“マゼラン/マガリャンイス”, 世界史の窓
【参考】“そうだったのか コロンブス(1492)、バスコ・ダ・ガマ(1498)、マゼラン(1522)”, 続・エヌ氏の私設法学部社会学科, 2012-09-05

【動画】“Ferdinand Magellan - Mini Biography (フェルディナンド・マゼラン - ミニ伝記)”, by BIO, YouTube, 2013/08/01




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posted by ジム佐伯 at 07:00 | ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 冒険家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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