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2017年02月10日

第406回:“Chipangu is an Island towards the east in the high seas.”―「ジパングは東方の大洋中にある島である」(マルコ・ポーロ『東方見聞録』より)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。



第406回の今日はこの言葉です。
“Chipangu is an Island towards the east in the high seas.”

「ジパングは東方の大洋中にある島である」
という意味です。
これはイタリアのヴェネツィア共和国の商人マルコ・ポーロ(Marco Polo, 1254-1324)の言葉です。
マルコ・ポーロが口述した『東方見聞録』の第174章で日本と思われる「ジパング(Chipangu)」という島を紹介した部分の冒頭の言葉です。
“Chipangu is an Island towards the east in the high seas, 1500 miles distant from the Continent; and a very great Island it is.”
「チパング〔日本国〕は、東のかた、大陸から千五百マイルの大洋中にある、とても大きな島である」
―愛宕松男訳、完訳 東方見聞録〈2〉(平凡社ライブラリー)
と書かれています。

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マルコ・ポーロ
(1867年のモザイク画)
By Salviati [Public domain], via Wikimedia Commons

マルコ・ポーロがいつ、どこで生まれたかははっきりしませんが、1254年にヴェネツィア(Venezia/Venice)で生まれたと言われています。生家は代々続く商家だったそうです。当時のヴェネツィアは海洋国家ヴェネツィア共和国の首都として栄えた商都で、「水の都」「アドリア海の女王」と言われています。
ニコーロ・ポーロ(Niccolò Polo)は中東貿易に従事する商人をしており、マルコがまだ生まれる前に弟のマッフェオ・ポーロ(Maffeo Polo)と共に貿易の旅に出発し、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルからシルクロード(Silk Road)を経て分中央アジアの交易都市ブハラ(Buxoro)に到着します。ブハラは今でもウズベキスタンのオアシス都市ですが、当時はモンゴル帝国に支配されています。そこでモンゴル帝国の皇帝でげん王朝の始祖でもあるクビライ(Kublai Khan)の招きを受け、元の首都である大都だいと(今の北京)でクビライに謁見します。
クビライはローマ教皇へ宛てた書簡をニコーロとマッフェオに託します。しかしローマ教会は1268年にクレメンス4世(Clemens IV)が亡くなって以来、「使途座空位(Sede vacante)」と呼ばれる教皇がいない時代が続いています。そこで二人はヴェネツィアへ戻って次の教皇の即位を待つことにします。

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ブハラを訪れるニコーロ・ポーロとマッフェオ・ポーロ
(1410年頃の『東方見聞録』の写本の挿絵)
Maître de la Mazarine [Public domain], via Wikimedia Commons

マルコ・ポーロはヴェネツィアで育ちますが、まだ見ぬ父親が帰る前に母親は無くなり、叔父と叔母のもとで育てられます。そしてマルコが17歳頃の時に父ニコーロと叔父マッフェオが長い長い旅から戻ります。マルコは初めて父親と対面します。
ニコーロとマッフェオはヴェネツィアでローマ教皇の即位を待ちますがなかなか決まらず、クビライへ状況を説明するために再び中国へ旅に出ることに決めます。そしてマルコもその旅に同行することになります。マルコが18歳頃のことです。旅の途中で新しいローマ教皇グレゴリウス10世(Gregorius X)が即位し、マルコ・ポーロ一行には宣教師が2人同行します。しかしあまりの旅の困難さに、宣教師たちは早々に逃亡してしまいます。
マルコ・ポーロたちはヴェネツィアから今のイスラエルの地中海沿岸にあるアッコ(Acre)まで船で行き、ラクダに乗って今のイラン南部の港町ホルムズ(Hormuz)に到着します。そこから船で中国へ向かおうとしましたが、まだ大航海時代の200年以上も前だったため安全に外洋を航海する技術も航路もありません。そこでマルコ・ポーロ一行は陸路でシルクロードを東へ向かい、パミール高原やゴビ砂漠を超えて、「歓楽の都ザナドゥ(Xanadu)」と呼ばれる上都じょうとを目指します。上都はモンゴル高原にある元の夏の都で、現在は草原に戻っています。
同行していた隊商が盗賊に襲われたり、砂漠で砂嵐にあったりと、旅は困難を極めます。しかし一行はついに目指す上都に到着して皇帝クビライに謁見します。ヴェネツィアを出て3年半、マルコ・ポーロが21歳の頃です。一行はクビライへローマ教皇からの手紙を渡し、エルサレムで入手した神聖な油を進呈します。神聖な油はニコーロとマッフェオにクビライが所望していたものです。

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クビライに謁見するマルコ・ポーロ一行
(『東方見聞録』の写本の挿絵)
By Unkown artist (later medieval) (Il Milione) [Public domain], via Wikimedia Commons

クビライは喜び、マルコ・ポーロを元王朝の重職に登用します。マルコはイタリア語だけでなく、フランス語やトルコ語、モンゴル語、中国語を話すことができた上に、ヨーロッパや中央アジアの情勢にも明るく、貿易の知識と経験があったからです。マルコは徴税や外交の実務につき、中国各地や近隣諸国を訪れて記録を残します。結局マルコは元に17年間滞在します。その後マルコはモンゴル帝国支配下のイル・ハン国の君主の結婚のための航海の案内人として、ジャンク船の船隊に同行してペルシャ湾岸のホルムズを目指します。シンガポール、スマトラ島、セイロン島などを経て、マルコはホルムズへ無事到着します。結婚の祝賀会が終わるとマルコは西へ向かい、ヴェネツィアへ生還します。17歳で故郷を離れて実に通算24年、マルコは41歳になっています。モンゴル風の服装をしていたので、ヴェネツィア人だとすぐには信じてもらえなかったそうです。

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モンゴル風の衣装をまとうマルコ・ポーロ
By Grevembrock (Scanné de Coureurs des mers, Poivre d'Arvor.) [Public domain], via Wikimedia Commons

マルコ・ポーロがヴェネツィアへ戻った3年後、ヴェネツィアは地中海貿易の覇権を争って対立していたジェノヴァと交戦状態となります。マルコ・ポーロは志願して従軍しますが、ジェノヴァ軍に捕えられて捕虜となり、収監されます。
数ヶ月の収監の間、マルコは獄中で小説家ルスティケロ・ダ・ピサ(Rustichello da Pisa)と知り合い、旅の詳細をピサに語ってピサがそれを書き留めます。
それが世に出たのが『東方見聞録(The Travels of Marco Polo)』です。ヨーロッパ世界に中国や東南アジアなどの極東の情報を初めて包括的にもたらした資料として、同書は評判となります。ヨーロッパで活版印刷はまだ発明されていませんから、様々な写本となって広まります。『世界の記述』『驚異の書』『イル・ミリオーネ(百万)』など様々なタイトルの写本があります。

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マルコ・ポーロが存命中に出版された『イル・ミリオーネ』の写本
(1299年頃)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

『東方見聞録』の中でヨーロッパ人の夢とロマンを最も刺激したのが、「ジパング」の記述です。
マルコ・ポーロはジパングの位置をまず紹介した後に、ジパングの人の特徴を述べます。
“The people are white, civilized, and well-favoured. They are Idolaters, and are dependent on nobody.”
「住民は皮膚の色が白く礼節の正しい優雅な偶像教徒であって、独立国をなし、自己の国王をいただいている。」
―愛宕松男訳、完訳 東方見聞録〈2〉(平凡社ライブラリー)
そして注目すべきはそれに続く記載です。
“And I can tell you the quantity of gold they have is endless,”
「国人は誰でも莫大な黄金を所有している。」
―愛宕松男訳、完訳 東方見聞録〈2〉(平凡社ライブラリー)
この一言が、「黄金の国ジパング」の伝説のもととなります。
マルコ・ポーロはさらに続けます。

・宮殿はすべて黄金でできている
・ばら色をした大きな真珠を産する
・人が死ぬと死者の口に真珠を含ませる
・クビライが遠征軍を送ったが暴風雨などで失敗した
・しかし一時は首都を占領した
・牛や豚や犬や羊の顔をした偶像を崇拝する
・頭が三つある偶像や千の手を持つ偶像もある
・食人の習慣があり最高のごちそうとされる
・様々な香木や黒胡椒や白胡椒を豊富に産する


いやいやいや、マルコ・ポーロ、話を盛りすぎですね。何となく正しい記述もありますし、東南アジアのほかの国と混同しているような記述もあります。まったく根拠がなさそうな記述もあります。
特にインパクトが大きい「黄金の宮殿」は、平泉の中尊寺金色堂のことなのかもしれません。京都の金閣寺はまだ建造されていない時代ですが、中尊寺の話ははるか中国までも伝わっていてもおかしくはありません。

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【参考】“中尊寺金色堂”, 関山中尊寺公式サイト

「クビライが送った遠征軍」の話は、日本では元寇げんこう蒙古もうこ襲来」と呼ばれる戦争のことです。時代や記載内容から、2度目の元寇である弘安こうあんえき(1281年)のことだと思われます。『東方見聞録』には「1279年」と記載されていますが、記憶違いがあったのかもしれません。そもそも「一時は首都を占領」という事実無根の話も交じってしまっていますが、それ以外の経過は史実と大きな矛盾もありません。したがって「ジパング」は日本のことを指していると考えてほぼ間違いないでしょう。

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クビライ
(1294年の肖像画)
By Anige (also known as Araniko) of Nepal, an astronomer, engineer, painter, and confidant of Kublai Khan (Artdaily.org) [Public domain], via Wikimedia Commons

クビライは朝鮮半島まで元の支配下に置いています。しかし日本は平安時代の894年(寛平かんぴょう6年)に菅原道真みちざねが遣唐使を廃止して以来中国との交流は限られたものとなっています。そう代の日宋貿易によって一時的に交流が深まり、平清盛が正式に国交を開きますが、平氏の滅亡後に国交は途絶えます。
クビライは日本に何度か使者を送りますが、日本は応じません。なぜならクビライが日本に求めているのは元の属国としての関係だからです。しびれを切らしたクビライは遠征軍を組織して、モンゴルと中国と高麗こうらい(朝鮮)の連合軍約4万を軍船800隻前後に乗せて日本に侵攻します。1274年(文永ぶんえい11年)の「文永の役」です。元軍は対馬や壱岐を攻略し、博多湾に上陸します。しかし鎌倉幕府政権下の御家人たちは果敢に応戦し、橋頭保きょうとうほ(上陸拠点)を敵に築かせません。元軍の記録によると、日本側は10万の兵力で迎撃したとされます。予想外の日本軍の反撃に、援軍のない元軍は攻略を断念し、撤退を決意します。しかし撤退の最中に暴風雨によって150隻以上が座礁し、1万人を超える将兵が帰らぬ人となります。

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文永の役(1274年)
元軍に突撃する御家人の竹崎季長すえなが
応戦する元軍の兵士たちや炸裂する元軍の「てつはう」も描かれている
『蒙古襲来絵詞』(1293年頃)より
Author unknown. Illustration rolls were ordered by Takezaki Suenaga himself. Cropped by Jim Saeki on 16th January 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

クビライは体制を整え、7年後の1281年(弘安4年)に再び日本を侵攻します。「弘安の役」です。
侵攻兵力は軍船4000隻と将兵15万人という、文永の役とは比較にならないほど大規模な侵攻です。
しかしこの時は鎌倉幕府も万全の迎撃態勢を整えており、25万騎が迎え撃ったと言われます。博多湾岸には全長20キロメートルにおよぶ「いし築地ついじ」と呼ばれる石塁を築いており、水際での元軍の撃退をはかったため、元軍はまたしても橋頭保を築くことができません。しかも停泊している軍船に鎌倉軍は夜襲や白兵戦をしかけて、元軍の戦力を削っていきます。
その後も激しい戦いが続きますが、戦闘が始まって2ヶ月ほどたったある日、激しい暴風雨が元軍の艦隊を襲います。山のような大波が軍船を襲い、軍船同士が衝突して破壊されるなどで4000隻以上の軍船はわずか200隻となってしまいます。なんと95%にのぼる軍船損耗率で、実に10万人以上の将兵が帰らぬ人となります。元軍はなすすべもなく撤退を決めます。鎌倉軍は後に神風かみかぜと言われた台風の助けもあったとはいえ、2度の元寇を見事に撃退したのです。

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弘安の役(1981年)
撤退する元の軍船に乗り込み元兵の首を取る竹崎季長ら
『蒙古襲来絵詞』(1293年頃)より
By 竹崎季長 (『蒙古襲来絵詞』) Cropped by Jim Saeki on 16th January 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

クビライはあきらめずに3度目の侵攻を計画し、軍備を増強します。しかし今のベトナム北部を支配していた陳朝ちんちょうとベトナム南部のチャンパ王国への外征が成功しなかったこともあり、日本侵攻計画は中止となります。クビライは晩年にも日本侵攻の準備を始めますが、クビライの死と共に計画は立ち消えになります。
一方の日本も、時の執権である北条時宗ときむねは外患を絶つべく大陸への逆侵攻を検討します。しかし2度の元寇を撃退したものの日本側は土地も賠償金も得られなかったため御家人たちに恩賞を与えられず、幕府の権威は弱体化して大陸侵攻どころではなくなります。ただ皮肉にも幕府の権威が弱まった結果として、貿易商人が無許可で海賊行為や密貿易を行う倭寇わこうの力が強まって中国沿岸を跋扈することになり、中国側は頭を悩ませるようになります。

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北条時宗
(1295年頃の肖像画)
By Unknown, cropped by Jim Saeki on 16th January 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

おっと、話がマルコ・ポーロからだいぶ脱線してしまいました。すみません。
とにかく、同時代に元王朝の重職にいたマルコ・ポーロもクビライの日本遠征の情熱とその経過を詳細に目の当たりにしたに違いありません。マルコ・ポーロ自身は日本へ行ったわけではなさそうですが、『東方見聞録』のジパングの記載は当時の中国に広く伝わっていた日本観がわかる貴重な資料だと思います。
『東方見聞録』の記載はあいまいなものや間違ったものも多く、中国の喫茶の習慣や万里の長城が記載されていないことから、マルコ・ポーロは中国へ行っていないのではという説もあります。元朝側の記録にマルコ・ポーロらしい人物がまったく登場しないこともその理由の一つとされます。極端な例ではマルコ・ポーロ自体が実在しなかったのではないかという説もあります。
しかし、『東方見聞録』もマルコ・ポーロが見たすべてが書かれたわけではないかもしれません。元朝の記録が残っていない件も、滅びた王朝の記録は新たな征服王朝によって徹底的に破壊されるのが中国の通例ですので、記録が残っていなくても不思議ではありません。

0406-travels_of_marco_polo_jp.png
マルコ・ポーロ一行の行路
By Travels_of_Marco_Polo.svg: *Asie.svg: historicair 20:31, 20 November 2006 (UTC) derivative work: Classical geographer (talk) derivative work: Classical geographer (Travels_of_Marco_Polo.svg), Japanese text added by Jim Saeki on 29th January 2017 [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

マルコ・ポーロの「黄金の国ジパング」の話は、西洋人の夢と情熱を大いにかきたてます。この夢と情熱が後世の大航海時代の冒険につながるのです。大航海時代の冒険は、まさに黄金と香辛料を求めての旅だったからです。
後に西回りでインドを目指してアメリカ大陸を発見したクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)も『東方見聞録』を熱心に研究したらしく、詳細な書き込みがされた写本が残っています。

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クリストファー・コロンブス
(1520年頃の肖像画)
Ridolfo Ghirlandaio [Public domain], via Wikimedia Commons

“Chipangu is an Island towards the east in the high seas.”
ジパングは東方の大洋中にある島である。

「黄金の国ジパング」をヨーロッパに初めて紹介したマルコ・ポーロ。
嘘つき呼ばわりもされました。現に『東方見聞録』には嘘のような情報もまじっていました。中国にすら行ってないのではとも言われました。
しかし若干あやしい記載もあるとはいえ、『東方見聞録』は驚くほど広範な地域の詳細な情報が記載されています。僕はやはりマルコ・ポーロは少なくとも中国までは到達していたのだと思います。
マルコ・ポーロは旅と貿易で莫大な財産をなした後、ヴェネツィアで家族に囲まれて亡くなります。69歳でした。
“I have not told half of what I saw.”
「私は見てきたことの半分も語っていない」
と語ったとされています。


【動画】“マルコ・ポーロ予告編 - Netflix [HD]”, by Netflix Japan, YouTube, 2015/08/17

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。

【関連記事】第96回:“I will either find a way, or make one.”―「道は見つける。なければ作る」(将軍ハンニバル), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年09月22日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“完訳 東方見聞録 2 (平凡社ライブラリー327) Kindle版”, マルコ・ポーロ (著), 愛后 松男 (翻訳), 平凡社, 2016/11/1
【参考】“中尊寺金色堂”, 関山中尊寺公式サイト
【参考】“元(フビライ)の遠征”, 世界史の窓, Y-History 教材工房
【参考】“The Travels of Marco Polo”, WikiSource
【参考】“日本に来てすらない? 「黄金の国ジパング」はマルコ・ポーロの幻想ってほんと?”, 学生の窓口, マイナビ, 2016/01/09
【参考】“黄金の国「ジパング」を日本のことだと思い込んではいけない!?”, by さぶりん さん, さぶりんブログ, 2012-08-08

【動画】“マルコ・ポーロ予告編 - Netflix [HD]”, by Netflix Japan, YouTube, 2015/08/17




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posted by ジム佐伯 at 07:00 | ロンドン ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 冒険家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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