英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。
第403回の今日はこの言葉です。
“I am a cat.”
「我輩は猫である」
という意味です。
これは日本の小説家、夏目漱石(Soseki Natsume, 1867-1916)の小説『吾輩は猫である』のタイトルで、この作品の書き出しの一文である「吾輩は猫である」を英訳したものです。
「我輩は猫である。名前はまだない。」と続きます。
“I am a cat. I have, as yet, no name.”

夏目漱石
(1912年撮影)
Ogawa Kazumasa [Public domain], via Wikimedia Commons
夏目漱石は1867年(慶応3年)に江戸の牛込(今の新宿区喜久井町)に生まれます。幼名は金之助です。金之助の父親は牛込から高田馬場までの一帯を治めている
同じ年に江戸幕府は大政奉還を行って政権を明治天皇に返上し、翌年に元号は明治に変わります。
明治維新の混乱で名主だった実家は没落し、金之助は何度か里子や養子に出されたり実家へ戻ったりを繰り返して小学校も転々とします。12歳の時、漱石は東京府第一中学(今の都立日比谷高校)に入学します。同校を2年で中退して漢学を教える私塾「

若き日の正岡子規
大学予備門で漱石と同窓だった
Photo by Unknown, from Japanese book Soseki no Omoide (漱石の思ひ出) [Public domain], via Wikimedia Commons
金之助はここで生涯の友となる正岡
【動画】“【FULL・高音質】坂の上の雲 オープニング”, by りゅーきょー竜峡, YouTube, 2015/04/11
23歳の頃、漱石は帝国大学の英文学科へ進学します。子規は同年に哲学科へ進学し、後に国文科へ転科します。進学後も二人の交流は続き、俳句や漢文を一緒に創作したり批評し合ったり、松山の実家に帰省した子規を漱石が訪ねたりします。子規はその後大学を中退し、新聞『日本』の記者となって文芸活動を本格化します。

正岡子規(1900年撮影)
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
26歳の時に漱石は帝国大学を卒業し、教員養成機関である高等師範学校(後の東京教育大学や筑波大学)の教員となります。この頃の漱石は日本人が英文学を学ぶことへの違和感を覚え始めます。また慕っていた女性の死や漱石自身の肺結核、極度の神経衰弱などで心身ともに弱ってしまいます。
28歳の頃に漱石は東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、親友の子規の故郷である松山の旧制松山中学(今の松山東高校)の教師となります。この頃ちょうど子規も肺結核などの病の静養で松山に滞在しており、漱石と子規は再び一緒に俳句の創作に励みます。
翌年、漱石は熊本の第五高等学校(今の熊本大学)に赴任します。熊本でも漱石は、五高の生徒たちと俳句の創作に活躍します。

夏目漱石
熊本時代に漱石夫妻が暮らした
(2011年撮影)
By Motoki-jj (Own Work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
1900年、漱石は文部省から命じられてイギリスへ国費留学します。33歳の時です。目的は英文学の研究ではなく、英語教育法の研究です。漱石はロンドンの物価高に苦しみながら、イギリスの小説家ジョージ・メレディス(George Meredith)やチャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)などの作品を読み漁ります。またUCLとして名高いユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(University College London)の英文学の授業は「聴ク価値ナシ」として聴講をやめ、シェイクスピア研究家として高名なウィリアム・クレイグ(William Craig)の個人教授を受けたりします。
しかし漱石はまた神経衰弱に悩まされ、日本からの留学生仲間と疎遠になったり、文部省への報告書を白紙で送ったりします。下宿屋の女性主人にも心配されたり、文部省内で「漱石発狂」の噂が流れたりするほどです。漱石は取り急ぎ帰国を命じられ、帰国の途につきます。1年半あまりの留学生活でした。
なお、親友の子規は脊椎カリエスが悪化し、漱石が英国留学中に亡くなります。
帰国後漱石は、第一高校および東京帝国大学の講師となります。漱石の分析的で固い講義は学生に不評で人気がなく、そのうちに漱石の神経衰弱が再発してしまいます。
翌年、日露戦争(1904-1905)が勃発します。

ロンドン滞在時の漱石の最後の下宿
(2010年撮影)
漱石記念館として公開されていたが2016年に閉館した
By Simon Harriyott from Uckfield, England (Natsume Soseki Uploaded by Oxyman) [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons
1905年、漱石は小説の執筆を始めます。38歳の頃です。亡き子規の同郷の弟子である高浜
そして翌1906年、漱石は『ホトトギス』に小説『坊つちやん』を発表します。松山時代の漱石の体験をもとにしたと思われる痛快なこの作品は大人気となります。
さらに翌年の1907年、漱石は一切の教職を辞して朝日新聞社へ入社し、職業作家として生きていく道を歩み始めます。40歳の時です。
漱石の処女作となった『吾輩は猫である』の主人公は文字通り「猫」です。名前はまだありません。
中学校の英語教師である
珍野苦沙弥のモデルは明らかに漱石自身であり、ふざけた名前がつけられています。漱石自身もこの時期に自宅に迷い込んだ野良猫の世話をしています。
当時の日本文学は現実を赤裸々に描く「自然主義」が主流でしたが、漱石の作品は世俗を忘れて、人生をゆったりと眺めようとする作風が特徴です。風刺やユーモアも効いており、人生に対して余裕を持って臨んでいることから「余裕派」とも呼ばれます。
朝日新聞社に入った漱石は、新聞小説を次々に発表します。
1907年には『虞美人草』、1908年に『坑夫』と『三四郎』、1909年に『それから』『門』『夢十夜』などを発表します。
『門』の執筆途中で胃潰瘍を発症した漱石は、伊豆の修善寺で療養しますが大喀血をして生死の境をさまよいます。漱石はその後も何度も胃潰瘍や神経衰弱に悩まされます。
1912年に漱石は『彼岸過迄』を、1913年にかけて『行人』を、1914年に『こゝろ』を執筆します。
1915年には『道草』を、1916年に『明暗』を執筆した漱石は、1916年9月に胃潰瘍で亡くなります。専業作家となってから10年目のことで、まだ49歳の若さでした。

夏目漱石
(1912年撮影)
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
親友の正岡子規が病魔に侵されながらも底抜けに明るいイメージを持たれているのに対して、漱石には神経衰弱を患ったり、皮肉で斜に構えたところがあったりと陰影が深いイメージがあります。
司馬遼太郎が小説『坂の上の雲』で描いた明治期の「楽天主義」も、漱石からはそれほど感じられません。
国から期待されてイギリスへ国費留学までした漱石が国を憂いるあまり神経衰弱にまでなってしまったのは、明治期のもう一つの特徴である「国家のどうしようもない重さ」のせいだったのかもしれません。
そんな重さから逃れようとして漱石が見いだしたのは、英文学でもなく英語教育でもなく、皮肉にも日本文学への道でした。
漱石の数々の作品で見られる新しい表現はその後の日本語の口語体の文章の手本となりました。司馬遼太郎も、現代日本の文章の基礎を作ったのは漱石であると書いています。

夏目漱石
(撮影年不詳)
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
“I am a cat.”
我輩は猫である。
明治期と共にに生まれ、明治期と共に生きた夏目漱石。
処女作『吾輩は猫である』の名もなき猫は、はたしてどんな人間模様を目撃したのでしょうか。
それは作品をご覧になって下さい。
それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。
【関連記事】第260回:“Weather today fine but high waves.”―「本日天気晴朗なれども浪高し」(秋山真之), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2015年11月29日
【参考】Wikipedia(日本語版,英語版)
【動画】“【FULL・高音質】坂の上の雲 オープニング”, by りゅーきょー竜峡, YouTube, 2015/04/11
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