英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。
第386回の今日はこの言葉です。
“AIR RAID ON PEARL HARBOR THIS IS NO DRILL”
「真珠湾空襲、演習にあらず」
「真珠湾が空襲されている、これは訓練ではない」
という意味です。
“drill”という言葉は練習帳という意味の「ドリル」にも使われているように、「訓練」「演習」を表します。
1941年(昭和16年)12月7日の朝(日本時間12月8日未明)に日本軍がハワイの真珠湾(Pearl Harbor)を空襲したことを伝える電文です。この真珠湾攻撃 (Pearl Harbor attack)により、太平洋戦争(Pacific War, 1941-1945年)が勃発します。

炎上する戦艦「ウェストバージニア」
(1941年12月7日)
By U.S. Navy [Public domain], via Wikimedia Commons
ハワイ、オアフ島の真珠湾は、複数の河川が海にそそぐ深い入り江となっている天然の良港です。
1908年にアメリカ海軍はこの地形に注目し、海軍基地を開設します。
ただ真珠湾は旅順のように湾口に山が迫っておらず、湾内と外洋を隔てる陸地が平地なため、外洋から湾内が見渡せて艦砲射撃をされるという弱点があります。そこでアメリカ海軍はカメハメハ要塞やルーシー要塞などからなる、オアフ島要塞と呼ばれる要塞群を建設します。1921年には戦艦の主砲と渡り合える40センチ砲を備えるウィルソン砲台が完成し、オアフ島要塞には死角がなくなります。当時、鉄壁の守りを持つ真珠湾を艦隊で攻撃するのは不可能と言われていました。
「パール・ハーバー(Pearl Harbor)」という地名は直訳すると「

真珠湾の衛星写真
湾内奥に浮かぶのがフォード島
画面右下がヒッカム飛行場とホノルル国際空港
(2003年撮影)
By NASA EO-1 satellite (NASA Goddard Space Flight Center photo [1]) [Public domain], via Wikimedia Commons
それではまず、日本が真珠湾攻撃に至った歴史的経緯を振り返ってみましょう。
アメリカが太平洋に進出したのは19世紀のアメリカ・メキシコ戦争 (Mexican-American War, 1846-1848年)でメキシコに勝利して広大なカリフォルニア州を手に入れてからです。これによりアメリカ大陸を移民が開拓して行った最前線であるフロンティアは間もなく太平洋岸に到達して消滅します。そこでアメリカは新しいフロンティアをさらに西方に求めるようになります。
1867年にロシア帝国からアラスカを購入したアメリカは、1898年にハワイを併合します。また同年アメリカは米西戦争 (Spanish–American War, 1898年)でスペインに勝利してフィリピンやグアムを手に入れ、続くアメリカ・フィリピン戦争 (Philippine–American War, 1899-1913年)を経てフィリピンを植民地化し、太平洋の覇権を手にします。アメリカが次に目指すのは成長著しい日本市場と巨大な中国市場です。

女王リリウオカラニ(Lili‘uokalani)
ハワイ最後の王となった
James J. Williams [Public domain], via Wikimedia Commons
一方、日本は日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-1905年)で帝政ロシアと戦います。満州の陸戦で薄氷の勝利を重ねた日本は日本海海戦 (Battle of Tsushima)でロシアのバルチック艦隊を撃破し、アメリカの仲介で講和に持ち込んで勝利を得ます。日本は講和による領土獲得はできませんでしたが、
当時アメリカは日本の外債の購入や平和交渉などで積極的に日本を支援します。しかし日本は日露戦争後も市場を開放しなかったためアメリカは不満を持ち、満州における権益でも利害が対立します。
さらに第一次世界大戦 (World War I, 1914-1918年)で戦勝国となった日本は旧ドイツ領のパラオやサイパンの委任統治を始めます。
アメリカと支配領域が隣接した日本は、中国大陸だけでなく太平洋でもアメリカと直接利害がぶつかるようになったのです。

後の満鉄のシンボル、特急「あじあ」(1934-45年頃撮影)
日本の技術で作られた最高時速120キロ、全客車冷暖房完備の豪華列車
戦後日本の新幹線の開発にその設計が生かされた
By English: No information 日本語: 著者名はありません。 This image was photographed by 塩崎伊知朗 (Ichiro Shiozaki) from the original publication. [Public domain], via Wikimedia Commons
その後もシベリア出兵 (Siberian Intervention, 1918-1922年)やワシントン軍縮会議(1921-1922年)とそれに伴う日英同盟失効(1924)などを経て、日本とアメリカは冷戦のような状態になります。
さらにパリ講和会議(1919年)で日本が提出した画期的な人種的差別撤廃提案(Racial Equality Proposal)に対して、アメリカはオーストラリアと共に強硬に反対します。採決の結果は11対5で賛成多数でしたが、議長をしていたアメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)は「全会一致でないため提案は不成立である」と裁定して否決します。
1924年、アメリカで排日移民法 (Immigration Act of 1924)が成立します。日本人はアメリカという大きな移民先を失い、満州を中心とする中国大陸への移民を重視せざるを得なくなります。この人種差別的な措置に、日本の対米感情は決定的に悪化します。

ウッドロウ・ウィルソン(1919年撮影)
By Harris & Ewing [Public domain], via Wikimedia Commons
1929年10月24日、ニューヨーク市場の株価が大暴落します。「暗黒の木曜日 (Black Thursday)」です。
続いて金融危機と設備投資の縮小による大不況が発生し、世界各国にも混乱と不況が飛び火します。世界恐慌 (Great Depression)です。
広大な植民地を持つイギリスとフランスや多くの州を持つアメリカは高関税で自国の通貨と経済を守るブロック経済 (Bloc Economy)を進めますが、必ずしも成功しません。
日本やドイツは産業統制により資源配分を国家が管理して恐慌から脱しますが、軍部が台頭して全体主義的な社会となります。
一方でソ連は計画経済の共産主義社会だったため世界恐慌の影響をまったく受けずに着々と工業化を進め、1930年にはGDPでイギリスを抜いて世界第2の経済大国となります。

「暗黒の木曜日」のウォール街
(1929年撮影)
Public domain, Link
1931年9月18日、奉天の郊外の
翌1932年、関東軍は清国最後の皇帝だった
満州国建国後、日本から多くの人々が満蒙開拓団として満州へ移民します。そして広大な満州国を自国の経済ブロックに組み込むことができた日本はいち早く恐慌から回復し、日本のGDPは1934年に恐慌前の水準に戻ります。

満州事変で瀋陽に侵攻する関東軍
(1931年撮影)
See page for author [Public domain], via Wikimedia Commons
しかし、1932年に海軍の青年将校が首相の
そして、1936年に陸軍の青年将校がクーデター未遂事件を起こします。二・二六事件です。
これらの事件は鎮圧されますが、国内でも軍部による政治への干渉が強まります。
ヨーロッパでは1933年にアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)がドイツの首相となり、急速に独裁体制を固めます。

二・二六事件
永田町を制圧した兵士たち
(1936年撮影)
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
一方アメリカでは、大統領フランクリン・ルーズベルト (Franklin Roosevelt)のニューディール政策(New Deal)によって1936年にGDPが恐慌前の水準に戻ります。しかしその後も不況が起こり、結局景気が回復できないまま第二次大戦が起こることになります。

フランクリン・ルーズベルト
(1933年撮影)
By Elias Goldensky (1868-1943) [Public domain], via Wikimedia Commons
1937年、当時「北支」と呼ばれていた華北に駐屯していた日本軍と中国国民党軍との軍事衝突が発生します。

盧溝橋(2005年撮影)
By Taken by Fanghong (Own work) [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 1.0], via Wikimedia Commons
日本軍は北京や上海などの主要都市を占領し、中国国民党政府の首都南京も陥落させます。しかし国民党政府の
国民党軍は当初からソ連から武器弾薬や物資の援助を受けていましたが、イギリスも蒋介石の支援に参加します。
また国民党政府は内戦状態にあった
こうして日中戦争は戦線が奥地へ伸び切って長期戦となり、泥沼化します。
英米の世論は長期化する日本軍の軍事行動を激しく批判するようになります。国民党のプロパガンダ工作もあり、アメリカの新聞や雑誌でも日本に批判的かつ中国に同情的な論調が徹底され、世論は対日強硬論に誘導されます。そして1939年、アメリカは日米通商航海条約を一方的に破棄します。

日中戦争
大陸前線での日本陸軍の一部隊
(1938-1945年頃撮影)
By Unknown (https://freeweibo.com/weibo/re:3576623808697775) [Public domain], via Wikimedia Commons
1939年8月、ナチス・ドイツが突然ポーランドに侵攻し、ポーランドと同盟関係にあったイギリスとフランスはドイツに宣戦布告します。一方で独ソ不可侵条約を結んでいたソ連もポーランドに侵攻し、ポーランドはドイツとソ連に分割占領されます。第二次世界大戦 (World War II, 1939-1945)の始まりです。
翌1940年4月、ドイツは中立国のデンマークとノルウェーに突如侵攻してこれを占領します。続いて5月にはベルギー、オランダ、ルクセンブルクに侵攻し、電撃的にフランスへも侵攻します。フランス・イギリスの連合軍はドーバー海峡に面するダンケルクに追い詰められ、イギリス本土へ撤退します。6月にフランスはドイツに降伏、ドイツ軍はパリに無血入城します。

ポーランドに侵攻するドイツ軍
(1939年撮影)
Bundesarchiv, Bild 146-1976-071-36 [CC BY-SA 3.0 de ], via Wikimedia Commons
日本はこの機をとらえ、フランスに成立したヴィシー政権(Vichy France)と協定を結んで今のベトナムにあたり「
さらに翌年の1941年7月、日本は南部仏印への進駐を開始します。アメリカはただちに日本への石油禁輸を発表します。当時の日本は石油の6割以上をアメリカから輸入しています。そして石油備蓄は1年半しか持ちません。石油を絶たれたら中国との戦争どころではなくなります。これによって日本は石油を求めて南方の資源地帯を確保することを第一優先事項として考えるようになります。南方の資源を求めるということは、資源地帯を領有するイギリスやオランダ、そして輸送航路の途中にあるフィリピンを支配するアメリカと戦うということです。

南部仏印のサイゴン(今のホーチミン)に進駐する日本軍
(1941年撮影)
By Japanese Army ("Chronique de la Seconde Guerre Mondiale") [Public domain], via Wikimedia Commons
同年9月、日本はドイツとイタリアと手を結ぶ日独伊三国同盟 (Tripartite Pact)を締結します。アメリカは対抗措置として日本への屑鉄の禁輸を発表し、その後イギリスと共に経済制裁を強化します。
日本はアメリカと関係改善をはかるため、外交ルートを通した日米交渉を進める一方で首脳同士の直接交渉による解決の道も探ります。しかし直接交渉はアメリカに拒絶され、外交ルートでの交渉もうまくいきません。
南方資源を確保するための開戦の決断に迫られた首相の
そして、皮肉なことに東條英機が次の首相となります。戦争を回避するために陸軍の暴走を抑えることを期待されたのです。

東條英機(撮影年月未詳)
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
1941年11月、日本はアメリカに対する最終交渉案を甲乙2案用意して交渉にあたります。しかしアメリカは両案とも拒絶し、中国、満州や仏印からの完全撤退と日独伊三国同盟の破棄を含む非常に強硬な交渉案を提示します。当時の国務大臣コーデル・ハル (Cordell Hull)の名をとって「ハル・ノート(Hull note)」と呼ばれるものです。
とても条件を飲めない日本は、これをアメリカの最後通牒と受け取り、開戦を決意します。
12月1日の御前会議で、東條内閣は日本時間12月8日の対米開戦を決定します。

コーデル・ハル(1936年撮影)
By Harris & Ewing [Public domain], via Wikimedia Commons
この決定の翌日、大本営は日本海軍の空母機動部隊に「ニイタカヤマノボレ

航空機を搭載して単冠湾に停泊する空母「赤城」
(1941年撮影)
By Not stated. [Public domain], via Wikimedia Commons
攻撃作戦の総指揮を執るのは連合艦隊司令長官の山本
「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れます。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てません。」と答えた話は有名です。
そんな山本ですが、やむなく日米開戦した場合には、航空戦力で開戦劈頭ハワイを叩いて太平洋におけるアメリカの海軍力を駆逐し、日本が有利なうちに講和に持ち込むしかないと考えたのが真珠湾攻撃です。多数の反対者や技術的な困難を乗り越え、機動部隊はまさにハワイへ向かっています。

山本五十六
(1941年頃撮影)
By 撮影: 海軍省 Ministry of the Navy (『写真週報』 第199号 (昭和16年12月17日) 3頁より) [Public domain], via Wikimedia Commons
ハワイ時間の12月7日の早朝、ハワイ近海で空母から発艦した戦闘機と爆撃機・雷撃機あわせて183機が真珠湾へ向かいます。この大編隊はオアフ島北端のレーダー基地でもとらえられますが、当直の士官は本土から到着予定だったB-17爆撃機の編隊だと思い込んで警戒を怠ります。
攻撃隊の総指揮官である淵田
さらに淵田中佐は大本営に対して、「トラ・トラ・トラ」を打電します。敵が迎撃態勢をとっていないことを伝える、「我奇襲ニ成功セリ」という意味の符牒です。
攻撃隊の急降下爆撃機が急降下して爆弾を投下して格納庫を破壊したのに続いて、多くの日本軍機が艦艇や航空機を魚雷や爆弾で攻撃します。

炎上する真珠湾上空を飛行する日本軍機
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
ちょうど日曜の朝。真珠湾のアメリカ軍は日本軍の攻撃をまったく警戒していません。
急降下爆撃機による格納庫の攻撃も、爆発が起きるまでは米軍機の安全ルール違反だと思われます。
機体の日の丸が確認されて、初めて日本軍による奇襲だということがわかったアメリカ軍はただちに全艦艇の出撃を命令します。しかし、艦艇も航空機もすぐに出撃することはできません。
アメリカ軍はただちに事態の急を告げる電文を発信します。
“AIR RAID ON PEARL HARBOR THIS IS NO DRILL”です。暗号にする余裕はなく、
「真珠湾空襲、演習にあらず」

炎上する戦艦群
By USN [Public domain], via Wikimedia Commons
一連の攻撃で、アメリカ軍は戦艦8隻中4隻沈没、2隻が大破、2隻が小破とすべて撃滅されます。さらに軽巡洋艦3隻が大小破、駆逐艦3隻が大中破します。航空機は399機のうち188機が破壊され、155機が損傷を受けます。無傷だったのはわずか56機です。
一方の日本側は航空機350機のうち29機が未帰還となり、74機が損傷を受けます。
予想を上回る大勝利です。しかし最大の目標だったアメリカ軍の空母2隻はたまたま真珠湾にいなかったため、撃ちもらす結果となります。
【動画】“真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor (カラー映像)”, by VLITRA9 さんのチャンネル, YouTube, 2010/08/04
この攻撃は日本の戦闘のごく一部にすぎませんでした。
真珠湾攻撃直前の日本時間12月8日未明に、日本軍の上陸部隊がイギリス領マレー半島のコタ・バルに上陸してイギリス軍と交戦を始めます。
また台湾を飛び立った日本軍の航空部隊が同日朝にフィリピンの空軍基地を空襲し、アメリカ軍の航空戦力をほぼ壊滅させます。真珠湾攻撃の直後のことです。そして翌々日は軍港を空襲して大きな損害を与え、フィリピンの制空権と制海権を確保します。
また同日、サイゴンなどの基地を飛び立った日本軍の航空部隊がイギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈します。マレー沖海戦です。
ほかにも日本は香港やグアム、北太平洋のウェーク島などを同時多発的に攻撃します。

マレー沖海戦で攻撃を受けるプリンス・オブ・ウェールズ(左手前)とレパルス(左奥)
(1941年撮影)
Public domain, Link
真珠湾攻撃を受けて、アメリカのルーズベルト大統領は有名な『恥辱の日(Day of infamy)』の演説を行い、日本への宣戦を布告します。そしてアメリカは事あるごとに真珠湾攻撃が「卑怯なだまし撃ち(Sneak Attack)」であると喧伝し、国際社会での日本への非難や自国民の士気向上に利用します。
確かに日本からアメリカへ実質上の宣戦布告にあたる交渉打ち切りの通告が手交されたのは真珠湾攻撃の約1時間後でした。しかしこれは故意に遅らせたのではなく、さまざまな悪条件と不運が重なった結果、日本大使館での翻訳とタイピングが遅れたためだというのが通説となっています。
しかもアメリカ側は日本大使館への暗号を解読して既に通告の内容を知っています。さらにマレー半島での戦闘開始も知っています。当時の国際慣習では戦闘開始前の宣戦布告は必ずしも必要ではないという説もあります。いや実は日本の外務省が奇襲を成功させるためにわざと遅らせたのだという説もあります。
僕はもし通告の手交が予定通り攻撃の30分前に手交されていたとしても、日本が様々な理由で「卑怯なだましうち」と非難されることは変わらなかったのではないかと思います。それが戦争であり、外交なのです。

日本への宣戦布告書に署名するルーズベルト
(1941年撮影)
Abbie Rowe [Public domain], via Wikimedia Commons
真珠湾攻撃やマレー沖海戦の大成功により、戦艦が海軍戦力の主役であった時代は終わりを告げ、航空機が主役となります。
アメリカはいち早くそれを痛感し、直ちに航空機と空母の大増産に着手します。
日本はなかなか思想の切り替えができず、生産力も貧弱で飛行士の要請も不十分だったこともあり、終戦時には圧倒的な戦力差がついてしまいます。そして悲惨な敗戦を迎えることになるのです。

沖縄戦で水平線を埋めて押し寄せるアメリカの攻撃部隊
(1945年撮影)
By Post-Work: User:W.wolny (http://arcweb.archives.gov/arc/) [Public domain], via Wikimedia Commons
当時の国際情勢と国内情勢からすると、日米の戦争を避けることは困難だったかもしれません。
また日本が攻撃直前まで和平の道を探り、攻撃前に交渉打ち切りを通告しようとしたことは、今ではアメリカでも広く知られています。
そして日本とアメリカは同盟国となっています。
しかし日本がアメリカを攻撃したことはまぎれもない事実であり、僕たちがその事実を消すことはできません。2345人の将兵が戦死し、68人の民間人が犠牲になったという事実も消えません。
もちろんそのことでいつまでもくよくよしたり、卑屈になったりする必要はありません。
しかし過去の事実を忘れず、戦いのない世界への道を常に目指すことが僕たちの責務なのだと思います。

長崎への原爆投下
(1945年撮影)
By Charles Levy from one of the B-29 Superfortresses used in the attack. [Public domain], via Wikimedia Commons
“AIR RAID ON PEARL HARBOR THIS IS NO DRILL”
真珠湾空襲、演習にあらず。
そう、演習ではなかったのです。
75年前の今日、日本は確かにアメリカを攻撃しました。
ハワイの真珠湾には今でも沈没した戦艦「アリゾナ」が保存され、記念館となっています。
ハワイを訪れた人はホノルル空港からほど近いこの記念館を訪れ、アメリカと日本の戦没者に哀悼の祈りを捧げられてはいかがでしょうか。

アリゾナ記念館
(水中に沈むアリゾナの艦体が見える)
(2002年撮影)
By DoD photo by: PH3(AW/SW) JAYME PASTORIC, USN [Public domain], via Wikimedia Commons
それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。
【動画】“Attack on Pearl Harbor - History (真珠湾攻撃 - 歴史)”, by WatchMojo.com, YouTube, 2010/12/06
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【参考】Wikipedia(日本語版,英語版)
【参考】“「真珠湾攻撃、遅れた最後通告〜大使館怠り説を覆す?外務省の故意か」”, エムズの片割れ, 2012年12月10日
【動画】“真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor (カラー映像)”, by VLITRA9 さんのチャンネル, YouTube, 2010/08/04
【動画】“Attack on Pearl Harbor - History (真珠湾攻撃 - 歴史)”, by WatchMojo.com, YouTube, 2010/12/06
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