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2016年09月29日

第363回:“An eye for an eye will make us all blind.” ―「『目には目を』では皆が盲目になってしまう」(ガンジー)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。



第363回の今日はこの言葉です。
“An eye for an eye will make us all blind.”

「『目には目を』では皆が盲目になってしまう」
という意味です。
“An eye for an eye makes the whole world blind.”
「『目には目を』では世界中が盲目になってしまう」
とも伝えられています。
これはインド出身の政治指導者で、弁護士で宗教家でもあったマハトマ・ガンジー(マハトマ・ガンディーとも, Mahatma Gandhi, 1869-1948)の言葉です。インド独立の父とされています。
「マハトマ(महात्मा)」とは「偉大なる魂」という意味の尊称です。

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ガンジー(1940年代前半撮影)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

ガンジーは1869年にインド北西部のグジャラート州にある港町ポールバンダル(Porbandar)に生まれます。
当時はイギリス領インド帝国の一部で、ガンジーの父親はポールバンダル藩王国の宰相でした。
小学校では成績が悪く、素行も悪かったそうです。ハイスクールを卒業後、ガンジーはロンドンへ渡ります。18歳の時です。法廷弁護士になるためにインナー・テンプル(Inner Temple)という法曹院で学んだといいますから、優秀な学生に成長したのでしょう。悪名高いイギリスの植民地支配ですが、優秀な若者たちが英国式の一流の教育を受けられる機会に恵まれたという点は優れていたと言えましょう。
法曹院を卒業したガンジーは1893年にイギリス領南アフリカ連邦に渡り、弁護士として開業します。24歳の頃です。

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南アフリカ時代のガンジー(1895年撮影)
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

当時の南アフリカでは白人優位の人種差別政策がとられています。ガンジーも鉄道の一等車への乗車を拒否されて、荷物もろとも放り出されるというひどい人種差別を受けたことがあるそうです。ガンジーはこれに対して、インド系移民の権利を守る運動を始めます。
20世紀に入ると、南アフリカの人種差別政策はますます強化されます。ガンジーはインド系移民の差別を撤廃する運動に力を注ぎます。
逮捕されたり投獄されたりすることもありましたが、ガンジーは屈することなく抵抗を続けます。

0363-gandhi_london_1906.jpg
ロンドンにて(1906年撮影)
By Unknown (gandhiserve.org) [Public domain], via Wikimedia Commons

ガンジーはダーバンの近郊に共同農場を創設してインド系移民と共同生活を始めます。そこで禁欲や断食や清貧を実践します。ここで展望したイギリスからの独立は、その後のインドの独立運動にもつながります。
ガンジーは徹底した非暴力(Nonviolence)の実践者でも知られます。
これは、『新約聖書』に書かれたイエス・キリスト(Jesus Christ)による山上さんじょう垂訓すいくん(Sermon on the Mount)の深い理解によるものだと言われます。
“If anyone slaps you on the right cheek, turn to them the other cheek also.”
「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」
というイエスの言葉は非暴力の象徴ですからね。

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南アフリカ時代のガンジー(1914年頃撮影)
妻のカストゥルバ(Kasturba)と
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

1914年、第一次世界大戦(World War I)が勃発します。
イギリスは植民地統治下のインドに対して、将来の自治を約束して戦争への協力を要求します。
1915年にインドへ帰国したガンジーはこれを信じて、インド人たちへイギリス植民地軍へ参加するよう呼びかけます。
しかし1918年に第一次大戦がイギリス側の勝利に終わってもイギリスはインドの自治を進めず、逆に支配を強化します。1919年には抗議集会に集まった非武装の民衆に政府軍の部隊が発砲して数百人が虐殺されるという「アムリットサル虐殺事件(Amritsar Massacre)」なども起きてしまいます。
その後ガンジーは独立運動をするインド国民会議(INC: Indian National Congress)に加わり、不服従運動(Non-co-operation)で世界に知られるようになります。インドの伝統的な綿製品を身にまとってイギリス製の綿製品を買わない運動を広げるために、インドの糸車でガンジー自らが糸をつむぐ姿は不服従運動の象徴となります。

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糸車で糸をつむぐガンジー(1940年代後半撮影)
By Unknown (gandhiserve.org) [Public domain], via Wikimedia Commons

1929年の大晦日、インド国民会議は独立の旗を掲げて翌年1月に完全独立することを宣言します。
ガンジーはイギリスの植民地支配の大きな収入源になっていた塩の専売制度に目をつけて、これが貧しい人々を苦しめている悪法であると糾弾し、インド総督兼副王だったアーウィン卿に訴えます。直接独立を要求するのではなく、悪法を追及するという形をとることで、合法的に不服従運動を全国に広めようとしたのです。
さすが弁護士のガンジー、人格者であるばかりではなく、なかなかの策士でもありますね。
1930年の3月、ガンジーと78人の支持者は徒歩で海岸に向けて出発し、23日かけて380キロ歩いて海岸に到着します。その間に土地土地の数千人の民衆も行進に合流します。海岸でガンジーは海水を煮詰めて塩を作り、悪法に従わず塩を作ろうと民衆に呼びかけます。
この運動は「塩の行進(Salt March)」と呼ばれて世界中に報道されて注目を集めます。そしてインド全土に非暴力と不服従の運動が広まります。英国製の服や商品の不買運動が起き、塩は民衆が作ったものが販売されます。インド全土で6000人以上の人々が投獄され、ガンジーも逮捕されますが、この運動はインド独立の大きなきっかけとなります。

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「塩の行進」でのガンジー(中央)(1930年)
By Yann (Scanned by Yann (talk).) [Public domain], via Wikimedia Commons

ガンジーの活動の特徴は断固とした不服従ながら徹底した非暴力であることです。
警察や兵士が暴力で向かってきても反撃もせず逃げもしないというのは非常な勇気を必要とします。それでも人々がガンジーを慕って不服従運動に参加したのは、ガンジーが人格的にそれだけ優れており、また人々のイギリスから独立したいという意思が強かったということです。
“An eye for an eye will make us all blind.”
「『目には目を』では皆が盲目になってしまう」
というのも、ガンジーの非暴力主義を象徴する言葉です。
非暴力の思想はインドで生まれたヒンドゥー教や仏教、中東で生まれたキリスト教やイスラム教などに共通して見られます。ガンジーはアジア全般に通じる思想として、人々に暴力ではなく対話による問題解決を呼びかけたのです。

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ロンドンにて(左はチャーリー・チャップリン)
(1931年撮影)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

また、非暴力は単なる人道主義ではありません。イギリスという強大な支配者に民衆が立ち向かう際の唯一にして最強の武器でもあるのです。
もし民衆が暴力で抵抗したら取り締まる側も正義を主張できます。しかし不服従と非暴力をセットにすることによって、取り締まる側が悪であるという印象を世界中の人々に与えることができます。ジャーナリズムと人道主義が発達してきた20世紀の時代に、世界の世論がイギリスの抑圧を許さないだろうとガンジーは読んだのです。なんという冷徹な戦略でしょう。
そしてガンジーの読みは見事に当たり、世界の世論に敏感なイギリス政府は後にインドの独立を認めることになるのです。

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ガンジーとチャンドラ・ボース(1938年撮影)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

1941年12月、日本軍がアメリカ軍やイギリス軍を攻撃して太平洋戦争(Pacific War)が勃発します。
日本軍は破竹の進撃を続けてイギリスが支配していた香港やマレー半島、シンガポールを次々に陥落させ、東南アジア一帯のイギリス軍は壊滅します。
日本はインド国民会議の元議長だったチャンドラ・ボース(Chandra Bose)などインド国外で活動していた独立運動家たちを支援し、インド国民軍(INA: Indian National Army)が組織されて各地で日本軍と共に戦います。国内にいたガンジーはこの動きには参加しませんでしたが、その後日本軍がインド洋のイギリス艦隊を撃破しインドに迫る勢いを見せると、インド国内でも日本との連携が検討されます。
あわてたイギリスはインドをイギリス連邦内の自治領として認めようとしますが、ガンジーは拒絶してあくまでもインドの完全独立を目指し、「クイット・インディア(Quit India, インドから出て行け)」という独立運動を続けます。これによりガンジーは2年間投獄されます。

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書き物をするガンジー(1942年撮影)
Kanu Gandhi [Public domain], via Wikimedia Commons

しかしガンジーは日本を支持していたわけではありません。
ガンジーは1942年7月に「すべての日本人へ(To Every Japanese)」という書簡を雑誌に発表します。ガンジーはこの書簡で、日露戦争に日本が勝利したことに感動したことがあるとしながらも、日本の中国への侵略や枢軸国との同盟を「不当な逸脱(an unwarranted excess)」であると痛烈に批判します。また、インドの独立運動の勢力が日本軍と連携することはないときっぱりと否定しています。

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ネルーとガンジー(1942年撮影)
By Credited to Dave Davis, Acme Newspictures Inc., correspondent [1] Photo taken by Max Desfor, who gave it to Dave Davis [2] [3] [Public domain], via Wikimedia Commons

1945年に日本が降伏して第二次世界大戦(World War II)が終結します。イギリスは戦勝国となりますが、ドイツや日本との戦いに疲弊したイギリスにかつての国力はありません。インドを植民地として支配する余裕がなくなりつつあったのです。
戦後、植民地政府はチャンドラ・ボースなどのインド国民軍の将兵たちを反逆罪の裁判にかけようとします。ガンジーらは「インドのために戦った彼らを救わなければならない」とインド独立を国民に呼びかけます。
インド全土で独立運動の嵐が吹き荒れ、イギリスはこれに耐え切れずにインド独立を受け入れます。
1947年8月、インド国民党の指導者ジャワハルラール・ネルー(Jawaharlal Nehru)がヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言し、英連邦王国としてのインド連邦が成立します。そしてほぼ同時期にイスラム教徒多数派地域も独立し、イスラム国家であるパキスタンとなります。

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ネルーとガンジー(1946年撮影)
By Max Desfor (1913- ) for Associated Press (http://www.aicc.org.in/images/nehru-gandhi.jpg) [Public domain], via Wikimedia Commons

ガンジーはヒンドゥー教徒とイスラム教徒が共存するインドの独立を目指しましたが、実際には分離独立となってしまいます。インド独立後、ネルーはインドの初代首相となりますが、ガンジーは高齢だったこともあり新政府からは距離を置きます。
分離独立の前後には各地で宗教対立による暴動や流血事件が頻発します。
ガンジーはそのたびに断食をして、身を挺して対立を防ごうとします。
しかし逆にその行為が過激派の恨みを買ってしまうのです。
1948年1月、ガンジーはピストルの弾丸3発を至近距離から胸部に受けて暗殺されます。撃ったのはヒンドゥー原理主義集団の若者です。
ガンジーの最期の言葉は、
「ヘーラーム(Hē Ram, हे राम)」(ヒンディー語)
「おお、神よ!」
“Oh God!”
だったと言われます。
時にガンジーが78歳、インド独立からわずか5ヶ月後のことでした。
ガンジーの遺灰はガンジス川などに撒かれました。

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合掌するガンジー(1946年撮影)
By Associated Press photo (http://www.dinodia.com/) [Public domain], via Wikimedia Commons

“An eye for an eye will make us all blind.”
「目には目を」では皆が盲目になってしまう。

徹底した非暴力と不服従でついにイギリスからインド独立を勝ち取ったガンジー。
その非暴力主義は弱気からきているのではなく、不屈の闘志と鉄の勇気からもたらされたものでした。
そして弱者であるインドが強者イギリスに勝利する唯一の武器として、冷静に計算した結果の非暴力でした。
確かに「目には目を」では皆が盲目になってしまいます。
憎しみの連鎖を断ち切れない現在の世界はまさに世界中が盲目になっている状況です。
どこかでこの連鎖を断ち切る勇気が必要とされているのかもしれません。


【動画】“Gandhi (1982) Unofficial Trailer (『ガンジー』(1982年)非公式予告編)”, by KhJorn, YouTube, 2014/02/22

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。

【関連記事】第362回:“Turn the other cheek.” ―「別の頬を出しなさい」(イエス・キリスト) (聖書), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2016年09月26日
【関連記事】第361回:“Eye for an eye.” ―「目には目を」 (ハンムラビ法典、聖書), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2016年09月23日
【関連記事】第46回:“A winner is a dreamer who never gives up.”―「勝者とは決して夢を諦めない人のことだ」(ネルソン・マンデラ), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年06月27日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“Gandhi Letter 83 : To Every Japanese (ガンジーの書簡83 : すべての日本人へ)”, GANDHI SEVAGRAM ASHRAM

【動画】“Gandhi (1982) Unofficial Trailer (『ガンジー』(1982年)非公式予告編)”, by KhJorn, YouTube, 2014/02/22




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posted by ジム佐伯 at 07:00 | ロンドン | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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