英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。
第318回の今日はこの言葉です。
“Do what is right because it is right.”「正しいことをしよう。正しいのだから」
という意味です。
これは日本の外交官、杉原
なんだかとても当たり前の言葉ですが、強い意志を感じさせる言葉ですね。
杉原千畝はその強い意志でどんな正しいことをしたのでしょうか。

杉原千畝
Photo by Unknown [Public Domain], via Wikimedia Commons
杉原千畝は1900年1月1日に岐阜県加茂郡
名古屋の尋常小学校と旧制中学を卒業した千畝は、医師になることを望んでいた父親の反対を押し切って上京し、英語の教師になるつもりで早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学します。授業ではほとんどノートをとらず、講義内容をすべて暗記していたそうです。
しかしアルバイトをしながらの生活はたちまち困窮してしまいます。父の意に反して家を飛び出したため家からの仕送りがなかったからです。そんな時に外務省の留学生試験の広告を新聞で見つけた千畝は、大学の図書館にこもって猛勉強をして、見事合格します。

岐阜県加茂郡八百津町にある杉原千畝記念館(2006年撮影)
By Monami (Monami's file) [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 2.5], via Wikimedia Commons
日露協会学校(後のハルビン学院)に入学した千畝は早稲田大学を中退し、官費留学生として中華民国のハルビンに派遣されてロシア語を学びます。一年間のロシア語の猛特訓の後に千畝は志願兵として3年ほど陸軍で過ごし、23歳の時に日露協会学校を修了します。
翌年千畝は外務省書記生として採用され、ロシア関係の仕事につきます。26歳の時に書き上げた600ページの『ソヴィエト

戦前のハルビン(1945年以前撮影)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
1932年、千畝が32歳の時に満洲国(Manchukuo)が建国され、ハルビンの日本総領事館にいた千畝は満洲国政府の外交部へ出向して書記生(事務官)となります。翌1933年、千畝は政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当します。千畝は周到な調査と粘り強い交渉でソ連側から大きな譲歩を引き出し、有利な条件での譲渡を獲得することに成功します。
千畝はその功績もあり外交部の次長となりますが、満洲国のあり方やそこでの日本の軍人たちの横暴に嫌気がさし、1934年に自ら外交部を辞任して日本へ帰国します。

満洲国の首都・新京(今の長春)(1939年撮影)
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
その後外務省に復帰した千畝は、1937年にフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館へ赴任します。
当初はソ連の在モスクワ大使館へ赴任する予定でしたが、満洲時代の千畝がソ連と敵対する白系ロシア人と通じていたとソ連政府が疑い、外交官としての入国を拒否したのです。
千畝はソ連にこそ入国できませんでしたが、ロシアの専門家として隣国フィンランドで情報収集にあたります。

ヘルシンキの中心街(2007年撮影)
By Mahlum (Own work) [Public domain], via Wikimedia Commons
そして1939年、千畝はリトアニアの臨時首都だったカウナス(Kaunas)にある日本領事館の領事代理となります。領事代理といっても日本人は千畝だけです。情報収集を目的に領事館が作られたといってもいいでしょう。ここで千畝は、表向きの外交官の仕事に加えてソ連とドイツの情報を収集する任務につきます。

かつてカウナスの日本領事館だった建物(2009年撮影)
By Bonio (Own work) [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons
千畝が着任したわずか4日後の9月1日、ドイツ軍とスロバキア軍がリトアニアの隣国ポーランドへ侵攻します。ポーランドの同盟国だったイギリスとフランスは直ちにドイツに宣戦布告します。第二次世界大戦の勃発です。一方でソ連軍は9月17日にポーランドへ侵攻。11月末にはフィンランドへも侵攻し、翌1940年の春にリトアニアを含むバルト三国にも侵攻します。
一方のドイツ軍は1940年4月にデンマークとノルウェーに、5月にオランダ・ベルギー・ルクセンブルクに侵攻します。34万人のフランス・イギリス連合軍はダンケルクに追い詰められてイギリス本島へ撤退し、6月にドイツ軍はパリを占領します。

ポーランドに侵攻するドイツ軍の戦車(1939年撮影)
Bundesarchiv, Bild 146-1976-071-36 / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons
ナチス・ドイツではユダヤ人への国家的な迫害が行われます。ユダヤ人は強制収容所に送られて労働を強いられたり、後にガス室などで大量虐殺されたりすることになります。
リトアニアにもたくさんのユダヤ人がいます。そしてドイツに占領されたポーランドからも、ナチスの追っ手を逃れて多くのユダヤ人がリトアニアへ脱出してきています。

アウシュヴィッツの強制収容所(2007年撮影)
By Cyde (Own work) [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons
そんな中、オランダ領事が南米オランダ領へのビザ無し入国を認める文書を発行します。オランダは本国がドイツ軍に蹂躙されてロンドンに亡命政府がある状態でしたので、ドイツに迫害を受けているユダヤ人に同情的だったのです。
しかし西からはドイツ軍が攻めてきており、西から大西洋航路で南米へ渡ることはできません。南方のトルコ経由の脱出も、トルコ政府がビザ発給を拒否して以降は不可能となります。残された道はシベリア鉄道で東へ向かうルートしかなくなったのです。
しかしソ連は既にリトアニアを併合しており、各国の大使館や領事館は次々に閉鎖して引き上げを始めていました。そんな中でまだ業務を続けていた日本大使館に、通過ビザを求めてユダヤ人たちが殺到したのです。7月18日の早朝のことです。

アウシュヴィッツの強制収容所に到着したユダヤ人たち(1944年撮影)
Bundesarchiv, Bild 183-N0827-318 / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons
千畝は事情を聞いて日本へビザ発行の許可を問い合わせます。しかし難民たちの切実な状況を実感できない外務省からは、「例外は認められない」とのお役所的な返事が届きます。日独伊防共協定の相手でもあり、日独伊三国同盟を締結する直前だったドイツとの関係悪化も懸念したのでしょう。
千畝は悩みに悩んだ末に、独断でのビザ発行を決心します。ソ連の領事館を訪ねてソ連領内の通過の許可をとった上で、千畝はビザの発行を始めます。7月29日のことです。同じ日に外務省から、領事館退去命令が届きます。
帰国の準備をしながらも、千畝は寝る間を惜しんでできるだけ多くの通過ビザと、ビザに変わる許可証の発行に努めます。9月5日、カウナスの駅でベルリンへ向かう汽車に乗車してからも千畝は許可証を書き続け、列車の窓からホームにいるユダヤ人に手渡します。ユダヤ人たちは涙を流しながら、感謝の言葉で千畝の乗った汽車を見送ります。

杉原千畝が発行した手書きのビザ(左ページ中央、1940年発行)
By Huddyhuddy (Self-scanned) [Public domain], via Wikimedia Commons
千畝からビザをもらったユダヤ人たちは、シベリア鉄道を使ってウラジオストクに到着します。
ウラジオストク総領事代理だった
当時の日本で外務大臣を務めていたのは日独伊三国同盟の立役者だった松岡
日本へ入国した難民のうち約1000人はアメリカ合衆国やパレスチナへ向かい、残りは日本にしばらく滞在した後に上海の租界にあるユダヤ人コミュニティへ渡ります。

戦前の上海租界(1928年撮影)
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
その後千畝は、チェコのプラハにある総領事館、そして東プロイセンのケーニヒスベルグにある領事館に赴任します。その後ルーマニアのブカレストにある公使館に勤め、ブカレストで日米戦争の開戦と終戦を迎えます。千畝は家族と共にソ連軍に身柄を拘束された後、ユダヤ難民と同じようにシベリア鉄道でウラジオストクに送られ、引き揚げ船の興安丸で日本へ帰国します。
Passage to Freedom: The Sugihara Story
戦後、千畝は外務省を追われるように退官し、貿易会社やハルビン学院、NHKなどに勤めます。その後は貿易会社などの仕事でモスクワ生活を送ります。
千畝の「命のビザ」の発行は外務省の指示に背いて行われた行為でもあったため、外務省はその話を認めたがらず、宣伝もしませんでした。また千畝は外国人も発音しやすいように音読みで「センポ」と名乗っていたため、かつてのユダヤ難民の問い合わせにも外務省は「センポ・スギハラという外交官はいない」と事務的に答えていました。

2004年に発行されたリトアニアの切手
By Lithuanian postage [Public domain], via Wikimedia Commons
しかし1968年、ユダヤ難民だったイスラエルの参事官が千畝を探し出し、カウナスの駅で別れて以来の再会を果たします。この縁で、四男の
翌々年の1970年に千畝が息子に会いにイスラエルを訪問した時、ゾラフ・バルハフティク宗教大臣(Zerach Warhaftig, 1906-2002)にも面会します。バルハフティクもかつて千畝に命を救われた一人です。バルハフティクは、千畝が本省の許可を得ずに免官を覚悟で独断でビザを発行したことをこの時初めて知って驚愕し、そして深く感動します。

イスラエルで死海を訪問した千畝と留学中だった息子の伸生(1970年)
By Highestever (Own work) [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons
“Do what is right because it is right.”
正しいことをしよう。正しいのだから。
自らの信念にもとづいて独断でビザを発行した杉原千畝。
千畝が発行した「命のビザ」は通し番号がつけられたものだけで2139枚にのぼり、家族も含めると6000人もの人が救われました。
しかし本省命令に背いて行われたこの行為を日本政府は公式に認めることはできず、この話は長い間知られざる秘話といった扱いでした。
「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」と噂する心無い人や、もっとあからさまに「国賊」とののしる人もいました。
1985年、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」が贈られました。
その翌年、千畝は帰らぬ人となりました。86歳でした。
日本国政府による公式の名誉回復が行われたのは、千畝の死後15年たった2000年になってからのことでした。
【動画】“SUGIHARA CHIUNE - Official Trailer (28 April 2016) (『杉原千畝』)”, by GSC Movies, YouTube, 2016/03/23
それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。
【動画】“杉原千畝 Nobuki Sugihara -the 4th son of Chiune Sugihara (杉原伸生 - 杉原千畝の四男)”, by HiramekiTV, YouTube, 2015/11/27
【関連記事】第256回:“Keep calm and carry on.”―「冷静に続けよう」(イギリス政府), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2015年11月08日
【関連記事】第63回:“I shall return.”―「私は必ず帰ってくる」(マッカーサー), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年07月27日
【参考】Wikipedia(日本語版,英語版)
【参考】“Lessons in Manliness: Chiune Sugihara (男らしさの教え:杉原千畝)”, by Brett & Kate, The art of manliness, May 2, 2010
【参考】“ナチスからユダヤ人を救った異色の外交官、杉原千畝”, by 佐高 信 [評論家], 週刊ダイヤモンド, 2015年12月21日
【参考】“杉原千畝はどういう人”, 岐阜県八百津町, 2016年3月31日
【動画】“SUGIHARA CHIUNE - Official Trailer (28 April 2016) (『杉原千畝』)”, by GSC Movies, YouTube, 2016/03/23
【動画】“杉原千畝 Nobuki Sugihara -the 4th son of Chiune Sugihara (杉原伸生 - 杉原千畝の四男)”, by HiramekiTV, YouTube, 2015/11/27
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