英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。
第313回の今日はこの言葉です。
“It is better to be Socrates dissatisfied.”「不満足なソクラテスであるほうがよい」
という意味です。この言葉には続きがあります。
“It is better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.”実はもっと長い文の一部で、
「満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい」
“It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.”というのがもともとの言葉です。肉体的な快楽を求めず、精神的な充実を求めよ、ということです。
「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。」
これはイギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806-1873)の言葉です。日本ではJ・S・ミルと略されることが多いです。J・S・ミルは論理学分野の分析哲学に強い影響を与えた哲学者で、社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を与えた社会思想家、経済思想家でもあります。上の言葉は『功利主義(Utilitarianism)』(1861年)の第二章に残された言葉です。

ジョン・スチュアート・ミル(1870年頃撮影)
By London Stereoscopic Company (Hulton Archive) [Public domain], via Wikimedia Commons
今日の言葉に似た言葉で、日本でとても有名になった言葉があります。
「太った豚より痩せたソクラテスになれ」という言葉です。
これは、1964年3月28日の東京大学の卒業式で総長の大河内一男氏(Kazuo Okochi, 1905-1984)が卒業生に贈った言葉であると報道されています。
「いくら東大卒だからといって、エリートとして人生を生きてはならない、太った豚より痩せたソクラテスになれ。」という文脈で語られたとされています。
とても格好いい、含蓄のある言葉ですよね。新聞やテレビでも大きく報道されて話題となり、素晴らしい訓示だとして有名になったそうです。当時の流行語にもなったとも言われています。

東京大学の安田講堂
Daderot at the English language Wikipedia [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons
しかしそれから50年余りたった2015年3月25日、同じ東京大学の教養学部の卒業式(学位記伝達式)で、教養学部長の石井洋二郎氏(Yojiro Ishii, 1951-)が式辞の中で驚くべき事実を明らかにします。
石井学部長は有名な「太った豚よりも痩せたソクラテスになれ」という言葉を紹介し、この言葉について3つの大きな間違いがあると指摘するのです。

東京大学教養学部がある駒場キャンパスの1号館時計台
Wikipedia user Tyuukyuueigo [GFDL], via Wikimedia Commons
第一に、これが大河内総長の言葉として伝わってしまっているということです。式辞の原稿にはちゃんと、
「昔J・S・ミルは『肥った豚になるよりは痩せたソクラテスになりたい』と言ったことがあります」と書かれていたそうです。それをマスコミが大河内総長自身の言葉であるかのように報道し、世間もそれを信じ込んでそのまま語り継いできたのだそうです。

ソクラテス
Sting [CC BY-SA 2.5], via Wikimedia Commons
第二に、肝心のミル自身も「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」とは言っていないということです。
はい、皆さんもうご存じですね。
“It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.”が正しい言葉です。何となく意味は似ていますが、「豚」と「人間」、「馬鹿」と「ソクラテス」の二組の対比が「豚」と「ソクラテス」の対比に短縮されていますし、「満足」と「不満足」の対比が「太った」と「痩せた」の対比に変わってしまっています。大河内総長はとても教養のある人物ですが、教養がある故に原典を確認せずに記憶の引き出しにあった言葉をそのまま使ってしまったのかもしれません。
「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。」

ブタ
Dbenbenn [Public domain], via Wikimedia Commons
第三に、もっと大きな間違いなのですが、実は大河内総長自身も卒業式でこの言葉を言っていないということです。
事前にマスコミに配られた式辞の原稿には載っていたのですが、実際の挨拶ではこの部分は読まれなかったのだそうです。単に読み忘れただけなのか、大河内総長が間違いに気づいて意図的に読み飛ばしたのかわかりません。僕は後者なのではないかと思います。
ところがもとの草稿のほうがマスコミに出回って報道されたため、本当は言っていないのに言ったことになってしまった、というのが真相のようです。と石井学部長は指摘しています。
功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)
どうでしょう。何だかものすごいびっくりな話ですよね。
今や伝説にもなっている大河内総長の名言に、ここまでデタラメな事実が隠されていたとは。
ともすれば自らの大学の権威を汚しかねないこの事実を公表した石井学部長の勇気は賞賛に値します。逆にこのような式辞を堂々と発表したのは、さすが東京大学だと言えますね。
善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます。このように、式辞の続きで石井学部長はネット社会における情報伝達の危うさに警鐘を鳴らします。そしてあらゆることを疑い、一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみることの大切さを説くのです。
Utilitarianism (Dover Thrift Editions)
“It is better to be Socrates dissatisfied.”
不満足なソクラテスであるほうがよい。
痩せたソクラテスになれ。
肉体的な快楽よりも精神的な充実の大切さを説いたJ・S・ミル。
J・S・ミルの言葉をさらにわかりやすい言葉にした大河内総長。
実際には使われなかったその言葉を広く伝えて流行語と伝説を作ったマスコミ。
半世紀以上信じられてきた話を覆す驚きの事実を明らかした石井学部長。
石井学部長はさらにソクラテスに関するオリジナルなメッセージを使って卒業生を励まし、そして自らが好きなニーチェの言葉を引用して卒業生に贈ります。
詳細はここでは書きませんので、皆さんもぜひ一次資料(東大が発表した式辞の原稿)を読んでみて下さい。
教訓とユーモアに溢れる、歴史に残る素晴らしいスピーチだと思います。
【参考】“平成26年度 教養学部学位記伝達式 式辞”, 東京大学教養学部長 石井洋二郎, 平成二十七年三月二十五日

東京大学駒場キャンパスの講堂(900番教室)
Tyuukyuueigo at the English language Wikipedia [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons
それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。
【関連記事】第21回:“Wonder is the beginning of wisdom.”―「驚きは英知の第一歩である」(ソクラテス), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年05月14日
【関連記事】第79回:“Stay hungry. Stay foolish.”―「貪欲であれ。愚直であれ」(スティーブ・ジョブズ), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年08月24日
【参考】Wikipedia(日本語版,英語版)
【参考】“平成26年度 教養学部学位記伝達式 式辞”, 東京大学教養学部長 石井洋二郎, 平成二十七年三月二十五日
【参考】“話題の東京大学卒業式の式辞 元ネタを調べてみた J.S.ミル『功利主義論』”, 臼北信行, 赤坂8丁目発 スポーツ246, ITメディアビジネスONLiNE, 2016年05月03日
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