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2016年02月06日

第282回:“It is 3 minutes to midnight.” ―「人類滅亡まであと3分」(世界終末時計)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。

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By 509th Operations Group [Public domain], via Wikimedia Commons

第282回の今日はこの言葉です。
“It is 3 minutes to midnight.”
「真夜中まであと3分」
というのが文字通りの意味です。
午後11時57分がどうかしたのでしょうか。
実はこれ、「世界終末時計(Doomsday clock)」による人類滅亡までの時間をあらわす言葉です。
“doomsday”とは「最後の審判の日」「地球最後の日」という意味です。
「終末時計」は核戦争などによる人類の絶滅(終末)を真夜中の午前零時として、その終末までの残り時間を「真夜中まであと何分」という形で象徴的に示しています。実際の動く時計ではなく、イラストで描かれた時計で、その時の世界情勢によって時刻が修正されます。
ですから今日の言葉は、
「終末まであと3分」
「人類滅亡まであと3分」

という意味なのです。ドキリとする、なかなか刺激的な言葉です。

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世界終末時計(Doomsday clock)
By user:Yury Tarasievich [CC0], via Wikimedia Commons

世界終末時計は1947年にアメリカの科学誌『Bulletin of the Atomic Scientists (原子力科学者会報)』の表紙として誕生しました。
1947年といえば日本が降伏して第二次世界大戦(World War II)が終結した1945年のわずか2年後です。日本はまだアメリカ軍の占領下。東京裁判(The International Military Tribunal for the Far East, 国際極東軍事裁判)が行われていました。
1945年にアメリカによって広島と長崎に落とされた原子爆弾(Atomic Bomb)により、世界は核の時代を迎えます。1発で10万人単位の死者が出る核兵器の出現で、戦争によって人類が滅亡する危険性が大きく高まったのです。広島や長崎では被爆による放射線障害に苦しむ人も多く、その被害の全貌すら明らかになっていませんでした。
同誌は表紙に大きく時計のイラストを載せ、人類に対する警告を発したのです。
最初の時計では人類滅亡まで「あと7分」と発表されます。
ただ表紙のイラストは「あと8分」のように見えますね。直前の変更などがあったのかもしれません。

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雑誌に初めて掲載された世界終末時計(1947年)
By The Bulletin of the Atomic Scientists

第二次世界大戦で、アメリカ合衆国とソビエト連邦(ソ連)は共に連合国として戦いました。
しかし戦後、米ソは戦後処理や占領政策などで対立するようになります。その影響でドイツは東西に分割され、朝鮮半島は南北に分割されます。ドイツは国だけでなく首都ベルリンまでもが東西に分割されます。
さらに世界は西側諸国(主に資本主義諸国)と東側諸国(主に共産主義諸国)に別れ、米ソ2つの超大国は両陣営の盟主として激しく対立するのです。ヨーロッパだけでなくアジアやアフリカ、中東や中南米でも両陣営の対立が生まれ、非同盟諸国を除いて世界は二分されます。米ソは直接戦火は交えないものの、東西陣営間での人やモノの交流は限定され、お互いを激しく非難したり牽制したりします。
1946年にイギリスの首相だったウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)は東西間の見えない壁を「鉄のカーテン(Iron Curtain)」と表現します。冷戦(cold war)の始まりです。
終末時計が「あと7分」とされたのは、そんな状況が不安視されたためです。

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冷戦時代の世界の様子(1959年当時, Wikipediaより)
青:北大西洋条約機構(NATO)、空色:NATO以外のアメリカ寄りの西側諸国、
ワインレッド:ワルシャワ条約機構(WTO)、ピンク:WTO以外のソ連寄りの東側諸国、
灰色:非同盟諸国、薄緑:植民地

By Sémhur [GFDL or CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

冷戦のもとで軍備拡張競争も激化します。
1949年、ソ連は原爆実験に成功します。米ソの核兵器開発競争が始まったのです。
この年、終末時計は一気に「3分前」まで進みます。終末に近づいたことが警告されたのです。
1950年、朝鮮半島ではソ連が支援する北朝鮮軍が突如韓国へ侵攻し、朝鮮戦争(Korean War)が始まります。アメリカは国連軍を率いて韓国に軍を投入、北朝鮮にはソ連が軍事顧問団を派遣すると共に物資を支援、そして中国が人民解放軍を投入します。朝鮮戦争は米ソ、そして東西両陣営の代理戦争の様相となります。国連軍を指揮していたダグラス・マッカーサー元帥(Douglas MacArthur)は戦況が不利になった時、原爆の使用も検討したそうです。

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ソ連初の原爆実験(1949年)
By nuclearweaponarchive.org [Public Domain], via Wikipedia

1952年、イギリスも原爆実験に成功します。
そして同じ年、アメリカが原子爆弾よりもはるかに破壊力が大きい水素爆弾(Hydrogen Bomb)と呼ばれる熱核兵器(thermonuclear weapon)の実験に成功します。原子爆弾はウランやプルトニウムなどの核分裂反応を利用した爆弾ですが、水素爆弾は二重水素や三重水素の核融合反応(熱核反応)を利用したもので、原子爆弾よりもはるかに強力なエネルギーを放出することができます。広島・長崎級の原爆の数十倍から数百倍のエネルギーを持つ兵器が作れるようになったのです。
さらに翌1953年、ソ連も水爆実験に成功します。
朝鮮戦争は休戦協定が結ばれましたが、東西の緊張は高まるばかりです。
この年、終末時計は「2分前」に進められます。終末まで秒読み段階。過去に最も終末に近づいた時期です。
1958年、イギリスも水爆実験に成功します。
さらに1960年にフランスが、そして1964年に中国が相次いで原爆実験に成功します。
この頃から世界の核兵器の量は全人類を滅ぼすのに必要な量をはるかに上回るようになります。

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世界初の水爆実験(1952年アメリカ)
By United States Department of Energy [Public Domain], via Wikimedia Commons

冷戦のもとで、宇宙開発競争も始まります。
1957年には世界初の人工衛星「スプートニク1号(Sputnik 1)」が打ち上げと周回飛行に成功します。これは核爆弾を世界のどこにでも運べる能力をソ連が持ったことを示しています。
1961年の春、ユーリ・ガガーリン(Yuri Gagarin)が初の有人宇宙飛行に成功します。
このように宇宙開発の黎明期はソ連がアメリカを圧倒し、1969年にアメリカがアポロ11号の月着陸を成功させるまでソ連の有利が続きます。

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スプートニク1号の模型
By NSSDC, NASA [Public domain], via Wikimedia Commons

唯一の被爆国である日本では、1954年にビキニ環礁で第五福竜丸という漁船がアメリカの水爆実験に巻き込まれます。いわゆる「死の灰」と呼ばれる放射性降下物の降灰を受けて乗組員23名全員が被爆します。近隣のロンゲラップ環礁の住民も死の灰をかぶり、多くの住民に深刻な放射線障害を招きます。
この事件は社会問題となり、日本では反核運動が高まります。
同年に公開された映画『ゴジラ』(1954年日本)も、この事件に着想を得て製作されたのだそうです。
水爆実験で目覚めた怪獣ゴジラは、核実験や原水爆に対する当時の人々の恐怖心を象徴しています。

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ビキニ環礁の水爆実験(1954年)
By United States Department of Energy [Public domain], via Wikimedia Commons

この頃から世界的にも核兵器に反対する運動が始まります。
1957年にはカナダのパグウォッシュで第1回のパグウォッシュ会議(Pugwash Conference)が開かれます。これは核兵器と戦争の廃絶を訴える科学者による国際会議です。日本の湯川秀樹(Hideki Yukawa)、朝永振一郎(Sin-Itiro Tomonaga)、小川岩雄(Iwao Ogawa)らを含む10ヶ国22人が参加して核兵器の廃絶が議論されます。
1959年に署名された「南極条約(Antarctic Treaty System)」では、南極地域における核爆発が禁止されます。
また、世界各地で「非核地帯(NFZ: Nuclear Free Zone)」が定められます。
これらの動きを受けて、1960年には終末時計は「7分前」まで戻されます。
しかしその矢先、1960年にフランスが原爆実験に成功し、核保有国は4ヶ国に増えてしまいます。

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世界の非核地域と核兵器保有状況(2009年現在, Wikipediaより)
青:非核兵器地帯
赤:核保有国、オレンジ:ニュークリア・シェアリング
黄色:その他のNPT(核拡散防止条約)加盟国

By Original uploader: JWB (File:BlankMap-World6.svg with recoloring.) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

1961年、東ドイツ領の中で西ドイツの飛び地となっていた西ベルリンを囲むように「ベルリンの壁(Berlin Wall)」が建設されます。東から西への住民流出を防ぐために東ドイツとソ連が建設したものです。西ベルリンは、空路と直通の高速道路(アウトバーン)、そして途中停車しない鉄道でのみ西ドイツと行き来できるようになります。
そしてベルリンの壁は東西冷戦の象徴となります。

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建設中のベルリンの壁(1961年)
By National Archives [Public domain], via Wikimedia Commons

同じ1961年、ソ連で超強力な水爆実験が行われます。「ツァーリ・ボンバ(Tsar Bomba)」と呼ばれる人類史上最大の兵器です。実験では出力が50%に制限されましたが、それでもTNT火薬50メガトン相当、広島型原爆の3300倍。一発で第二次世界大戦で使用された総爆薬量の10倍の威力なのだそうです。この爆発は2000キロメートル以上離れたところからも観測され、衝撃波は地球を3周したそうです。


【動画】“TSAR BOMBA (ツァーリ・ボンバ)”, by Michael Lennick , YouTube, 2013/02/09

1962年、キューバ危機(Cuban Missile Crisis, キューバ・ミサイル危機)が起こります。
カリブ海の島国キューバをめぐって米ソが対立し、代理戦争ではなく米ソ軍が戦火を交える直接衝突の寸前まで緊張が高まったのです。キューバ危機については以前の記事でもご紹介しましたね。
この時キューバには秘密裏にソ連の核ミサイルが配備されていました。アメリカの軍部やCIAはキューバのミサイル基地を空爆するよう強硬に主張します。アメリカはキューバの海上封鎖を宣言し、艦艇180隻と航空機でキューバに向かっていたソ連の貨物船をキューバに近づけない措置をとります。ソ連側も態度を硬化させますが、貨物船は海上封鎖線のぎりぎり手前で引き返します。
もし戦争になっていたら米ソの全面核戦争となった恐れもあります。

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ソ連の貨物船とアメリカ軍の哨戒機
By USN [Public domain], via Wikimedia Commons

ソ連の貨物船が引き返した後も、アメリカのU-2偵察機がソ連の地対空ミサイルに撃墜されたり、ソ連の潜水艦がアメリカの駆逐艦に爆雷攻撃をされて核魚雷による反撃が検討されたりします。アメリカは核武装した戦略爆撃機B-52ストラトフォートレスが出撃し、空中待機します。
しかし当時のアメリカ大統領のジョン・F・ケネディ(John Fitzgerald Kennedy)とソ連書記長のニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)はその後も粘り強く交渉を重ね、戦争は直前で回避されます。
短期で解決したため雑誌の表紙には反映されませんでしたが、この時まさに終末時計は「1分前」だったと言われます。
キューバ危機を乗り切ったケネディ大統領とフルシチョフ書記長の間にはホットラインという直通の通信手段が設けられ、その後も維持されます。
このキューバ危機をきっかけに、核戦争の恐怖を世界がより具体的に認識するようになります。
またアメリカとソ連も、核戦争防止と核軍縮に共通の利益を見出すようになります。

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フルシチョフ書記長(左)とケネディ大統領(右)(キューバ危機前年の1961年撮影)
By work of the United States Federal Government (NARA's website) [Public domain], via Wikimedia Commons

1963年8月、「部分的核実験禁止条約(Partial Test Ban Treaty)」が調印されます。
核兵器開発競争を初めて制限する条約です。
これをうけて終末時計の針は「10分前」まで巻き戻されます。
しかしこれはあくまで「部分的」であり、大気圏内、宇宙空間、そして水中での核実験が禁止されているにすぎません。各国は条約の盲点をつくように地下核実験を続けることになります。
そして同年11月、ケネディ大統領は何者かに暗殺されてしまいます。

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部分的核実験禁止条約に調印するケネディ大統領(1963年)
Robert L. Knudsen, cropped by Jim Saeki on 5 February 2016 [Public domain], via Wikimedia Commons

その9ヶ月後の1964年8月、ベトナムのトンキン湾でおきた軍事衝突「トンキン湾事件(Gulf of Tonkin Incident)」をきっかけにアメリカはベトナムへの介入を強めていきます。それに対抗してソ連もベトナム民主共和国(北ベトナム)への全面的な軍事援助を開始。アメリカは北爆とともに地上軍も投入して南側のベトナム共和国(南ベトナム)を支援します。ベトナム戦争(Vietnam War)の始まりです。対する北側の南ベトナム開放民族戦線(いわゆる「ベトコン」)はゲリラ戦でそれに対抗、ソ連もそれを支援します。これも米ソの代理戦争です。爆撃や地上戦、枯葉剤の散布などで民間人にも多数の被害が出て、戦局は泥沼化します。
核兵器開発競争も続きます。1964年には中国が原爆実験に成功。そして1967年に中国が、1968年にフランスが水爆実験に成功します。
これを受けて1968年の終末時計は「7分前」まで進んでしまいます。

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ベトナム戦争(Vietnam War, 1960-1975)
By James K. F. Dung, SFC, Photographer, 16 May 1966, National Archives and Records Administration [Public domain], via Wikimedia Commons

1968年、核拡散防止条約(NPT: Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)が調印されます。
既に核兵器を保有している米・ソ・英・仏・中の5ヶ国以外の核保有を禁じる条約です。
上記5ヶ国が圧倒的に有利な条約で何やら釈然としませんが、核不拡散には賛成する各国が加盟します。
アメリカも1969年にこの条約を批准します。
この年の終末時計は「10分前」に戻されます。
ベトナム戦争への介入が続くアメリカの国内では反戦運動が盛んになり、ヒッピー活動などの反体制的な空気も高まります。
1969年1月、リチャード・ニクソン(Richard Nixon)がアメリカ大統領に就任します。ニクソンは公約通りベトナムからの兵力削減を進めます。米ソは対話をすべく歩み寄りを始め、緊張緩和デタント(Détente)と呼ばれます。

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ベトナム戦争反対運動の象徴的な写真
By Department of Defense, 21 October 1967 [Public domain], via Wikimedia Commons

またデタントを受けて1969年から米ソ間で戦略兵器制限交渉(SALT: Strategic Arms Limitation Talks)が開始されます。1972年に「SALT Iソルト・ワン」 という核軍備制限条約が調印されます。核ミサイルの数をこれ以上増やさないという条約です。
この年の終末時計は「12分前」まで戻されます。

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アメリカ訪問時のブレジネフ書記長(左)とニクソン大統領(右)(1973年)
By Knudsen, Robert L. [Public domain], via Wikimedia Commons

しかしその後、SALT Iに続く米ソの軍縮交渉は難航します。
また1974年にNPTに未加盟だったインドが核実験を成功させます。核の不拡散は失敗したのです。
それを受けて、この年の終末時計は「9分前」に進められます。
米ソはその後も軍縮交渉を続け、制限を強化した「SALT IIソルト・ツー」が1979年に調印されます。
しかしその年の12月、ソ連が突然アフガニスタンに侵攻します。これを理由にアメリカ議会はSALT IIへの批准を拒否。発効せずに期限切れとなります。

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アフガニスタンに侵攻するソ連軍の部隊(1984年)
By Undetermined (Soviet Military Power, 1984. Photo No. 130, page 116. U.S Department of Defense publication) (dodmedia.osd.mil) [Public domain], via Wikimedia Commons

このアフガン侵攻によって東西対立は再び激化し、世界は「新冷戦(Cold War II)」の時代を迎えます。
翌1980年に開催されたモスクワオリンピックは、アメリカや日本を含む西側50ヶ国がアフガン侵攻に抗議してボイコットします。
この年の終末時計は「7分前」に進みます。
続く1984年のロスアンゼルスオリンピックは逆にソ連や東ドイツなどの東側14ヶ国がボイコット。1983年のアメリカのグレナダ侵攻への抗議というのが表向きの理由ですが、モスクワ不参加への報復であることは明らかです。

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モスクワオリンピックの閉会式(1980年)
マスコットキャラ「こぐまのミーシャ」がボイコットを悲しんで涙を流すという演出があった
RIA Novosti archive, image # [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

1981年に就任したアメリカのロナルド・レーガン大統領(Ronald Reagan)は、デタントが冷戦を長期化させたとしてこれを否定し、対ソ強硬路線をとります。レーガンはソ連を「悪の帝国(Evil Empire)」と名指しして非難し、国防予算を大幅に増額。核ミサイルを宇宙空間で迎撃するという「戦略防衛構想(SDI: Strategic Defense Initiative)、通称「スターウォーズ計画(Star Wars)」を推進します。ソ連もそれに対抗して防衛予算を増強します。
新冷戦がさらに悪化したとして、この年の終末時計は「4分前」に進められ、1984年にはさらに「3分前」に進みます。


【動画】“STAR WARS - Strategic Defense Initiative (スターウォーズ - 戦略防衛構想)”, by Inhalesulfur, YouTube, 2013/12/23

しかしソ連はアフガン侵攻や共産主義の行き詰まりなどで財政赤字が拡大し、財政が危機的状況に陥ります。
1985年にミハイル・ゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)がソ連書記長に就任します。ゴルバチョフはペレストロイカ(perestroika, 改革)とグラスノスチ(glasnost, 情報公開)を進め、米ソ対話にも積極的に望みます。
そして1987年、中距離核戦力全廃条約(Intermediate-Range Nuclear Forces Treaty)が結ばれます。核兵器の削減を定めた初めての画期的な条約です。
これで終末時計は「6分前」に戻ります。

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中距離核戦力全廃条約調印時のゴルバチョフ書記長(左)とレーガン大統領(右)
By White House Photographic Office [Public domain], via Wikimedia Commons

1989年6月、東側陣営の一員だったポーランドが戦後初の自由選挙を行い、民主化を達成します。
またハンガリーは同年5月にオーストリアとの国境を開放し、さらに10月に新憲法を施行して民主化を達成します。
東ドイツでは国民がハンガリーやオーストリア経由で西側に大量出国するようになり、国内でも民主化を求めるデモが激化します。書記長だったエーリッヒ・ホーネッカー(Erich Honecker)は失脚。政府は東ドイツからの出国の自由を認め、東西冷戦の象徴だったベルリンの壁はあっけなく崩壊します。1989年11月のことです。
翌月に地中海の島国マルタで行われた米ソ首脳会談で、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領(George Herbert Walker Bush, 「パパブッシュ」の方ですね)とゴルバチョフ書記長が「米ソ冷戦の終結」を宣言します。40年以上続いた東西対立がついに解決したのです。
翌1990年、東西ドイツは再統一を果たします。
この年の終末時計はさらに巻き戻され、「10分前」となります。

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ベルリンの壁にのぼって「崩壊」を祝うベルリン市民(1989年)
Lear 21 at English Wikipedia [GFDL or CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

その後も東側諸国の民主化は続きます。
1989年11月、チェコスロバキアでは大規模なデモやゼネストを受けて政府は民主化を認めます。
同12月にはルーマニアで革命がおきて、ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu)大統領が射殺されます。
1990年にはブルガリアでも自由選挙が行われます。
さらに1990年3月、ソ連に併合されていたリトアニアが独立を宣言します。ソ連は軍を投入して武力鎮圧を行い、民間人13人が殺害されます。「血の日曜日事件(Bloody Sunday)」です。これによりソ連は国際社会の非難にさらされます。

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国旗を持ってソ連軍戦車の前に立ちはだかるリトアニア市民
By Unspecified (http://www.kam.lt/images/2734/8629) [GFDL], via Wikimedia Commons

翌1991年年8月、改革を進めようとするゴルバチョフに反対する守旧派がクーデターを起こし、当時大統領となっていたゴルバチョフを一時監禁します。しかしボリス・エリツィン(Boris Yeltsin)らと市民の抵抗でクーデターは失敗します。
クーデター失敗の翌日、エストニアとラトビアも独立を宣言。さらにウクライナもソ連からの離脱を国民投票で決定します。
そして12月、ソ連に変わる枠組として「独立国家共同体(CIS: Commonwealth of Independent States)」が成立、ソ連は事実上崩壊します。ゴルバチョフ大統領は辞任し、ロシア連邦の大統領にはエリツィンが就任します。
終末時計はさらに巻き戻され、今までで最も終末から遠い「17分前」となります。

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ソ連8月クーデターの時に戦車の上で演説するボリス・エリツィン
Kremlin.ru [CC BY 3.0 or CC BY 4.0], via Wikimedia Commons

かつてのソ連のアフガン侵攻で頓挫したSALT IIの後を受けて1982年に交渉が開始された戦略兵器削減条約 (START)は、 1991年7月に「START Iスタート・ワン」として調印されます。戦略核弾頭の上限を大きく削減する条約です。ソ連崩壊にともなって条約の批准は1994年まで遅延しますが、ロシアとベラルーシ、カザフスタンとウクライナが条約を継承します。旧ソ連の核弾頭はベラルーシなどからロシアに運ばれて解体されます。
続いて1993年には「START IIスタート・ツー」が調印。しかしロシア議会が批准せず、発効されないままとなってしまいます。新生ロシアの国内は、まだまだ混乱していたのです。

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START IIの調印に臨むブッシュ大統領(パパ・ブッシュ)(左)とエリツィン大統領(右)
National Archives and Records Administration [Public domain], via Wikimedia Commons

ロシア国内の混乱を受けて、ソ連崩壊後もロシアに残る核兵器が不安視されます。
そして1995年に時計は「14分前」に進みます。
一方で2002年には、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領(George Walker Bush, 息子の方ですね)とロシアのウラジーミル・プーチン大統領(Vladimir Putin)がモスクワ条約(SORT: Strategic Offensive Reductions)に調印します。

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モスクワ条約に調印するプーチン大統領(左)とブッシュ大統領(息子の方)(右)
By White House photo [Public domain], via Wikimedia Commons

2009年にアメリカ大統領に就任したバラク・オバマ(Barack Obama)は「国際的な核兵器禁止を目指す」と明言します。オバマ大統領はそれが評価されてその年のノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)を受賞します。
翌2010年4月、オバマ大統領(Barack Obama)とロシアのドミトリ・メドベージェフ大統領(Dmitrii Medvedev)が「新START(New Strategic Arms Reduction Treaty)」に調印します。

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新STARTに調印するオバマ大統領(左)とメドベージェフ大統領(右)
Kremlin.ru [CC BY 4.0 or CC BY 3.0], via Wikimedia Commons

米ロ両国の核兵器は、かつての米ソ冷戦の時代に比べて大幅に削減されました。
データを見ると冷戦時代の核兵器の多さは恐ろしいかぎりです。
世界の終末の一歩手前どころか、人類を2度も3度も滅亡させられるほどの兵器があったのです。
終末時計が何周もしてしまう勢いです。
なんと愚かな軍拡競争をしたものでしょう。

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アメリカとソ連・ロシアの核弾頭数の推移
By Created by User:Fastfission first by mapping the lines using OpenOffice.org's Calc program, then exporting a graph to SVG, and the performing substantial aesthetic modifications in Inkscape. [Public domain], via Wikimedia Commons

ベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結し、ソ連が崩壊しました。
米ソ両国は着々と核軍縮を進めています。
それでははたして「終末の日」は完全に回避することができたのでしょうか。
いえいえ、そうではありませんよね。
平和を実感するどころか、世界では戦争が絶えず、テロの危険におびえる毎日です。
第一に、世界の安全保障はより複雑になっています。東西冷戦の時代はまだ図式が単純でした。しかし現在は、国際関係がより複雑化し、国と国の関係とはまた違った問題も噴出しています。
冷戦終結後しばらくは唯一の超大国となったアメリカの一極支配で安定が保たれていました。
しかし2001年のアメリカ同時多発テロや最近の難民問題、ISISの台頭などで、世界は非常に不安定な状況になっています。テロも難民も簡単には解決できない問題です。

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同時多発テロで炎上する世界貿易センタービル
Michael Foran [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons

第二に、核兵器の拡散は今でも続いています。
1968年に調印された核拡散防止条約(NPT: Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)は現在も更新されていて有効です。
しかし1974年にNPT未加盟のインドが核実験に成功したのは前述した通りです。
また1988年、インドとの対立が激化していたNPT未加盟のパキスタンも核実験に成功します。
さらに北朝鮮は1993年と2003年にNPT脱退を表明し、2006年に核実験を成功させます。
NPT未加盟のイスラエルは核兵器の保有を肯定も否定もしていませんが、核施設への査察を拒否しており、核兵器を所有している可能性は濃厚だと見られています。
相手が持つと自分も持つ、このように核拡散の防止は難しくなっているのが現状です。

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USGSによる2013年の北朝鮮による核実験の画像
By USGS [Public domain], via Wikimedia Commons

第三に、戦争以外にも環境問題が「終末の日」を招く可能性があることです。終末時計も1989年から環境問題による人類滅亡の可能性も考慮に入れるようになりました。
近年、温室効果ガスによる地球温暖化のリスクが警告されています。環境の優等生とされていた原子力発電も、2011年の日本の東日本大震災における原発事故により、コストや安全性に大きな疑問がもたれています。太陽光や風力などの再生可能エネルギーの開発も進みましたが、まだまだ根本的解決には至っていません。
シェールオイル革命でエネルギー大国として台頭したアメリカも、現在は温室効果ガスの排出削減の活動から一歩引いているように見えます。


巨大津波が襲った3・11大震災―発生から10日間の記録 緊急出版特別報道写真集

2002年には終末時計は「7分前」に進められます。テロリストによる大量破壊兵器使用への懸念などによるものです。
また2007年にはさらに「5分前」に進められます。北朝鮮の核実験やイランの核開発問題、地球温暖化の進行によるものです。
2010年にオバマ大統領の核廃絶宣言により一度「6分前」に戻りますが、2012年には再び「5分前」に進められます。気候変動への無策と地域紛争での核兵器使用への懸念などによるものです。
さらに2015年、時計は「3分前」に進められます。あいかわらずの気候変動への無為無策、核兵器の進歩、そして核廃棄物問題によるものです。

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世界終末時計の時刻の推移
By Fastfission 15:00, 14 April 2008 (UTC) (Own work) [Public domain], via Wikimedia Commons

Three minutes to midnight.
人類滅亡まであと3分。

長い長い記事を読んで下さりありがとうございました。
1986年に世界に6万4449発あった核弾頭は、2013年にはおよそ6分の1の1万215発まで削減されました。
冷戦が終結して一旦「17分前」にまで巻き戻った終末時計。
しかしなんということでしょう。それ以降は終末に近づいてゆくばかりです。
2016年1月、終末時計の時計の針は「3分前」から動かされませんでした。
まだまだ緊迫した、予断を許さない状況が続いています。
この時計を1分1秒でも巻き戻すことが、私たちの責務なんだと思います。


【動画】“'Doomsday Clock' Reflects Dangers to World (「終末時計」が世界の危険を反映)”, by Associated Press, YouTube, 2016/01/26

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。

【関連記事】第131回:“Ask what you can do for your country.”―「君たちが国のために何ができるのかを問うて欲しい」(ケネディ大統領), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年11月24日
【関連記事】第63回:“I shall return.”―「私は必ず帰ってくる」(マッカーサー), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年07月27日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“Doomsday Clock › Timeline (終末時計 タイムライン)”, The Bulletin of the Atomic Scientists
【参考】“Doomsday Dashboard (終末の日 ダッシュボード)”, The Bulletin of the Atomic Scientists
【参考】“Doomsday Clock hands remain unchanged, despite Iran deal and Paris talks (イラン情勢やパリ会合にもかかわらず終末時計に動きなし)”, The Bulletin of the Atomic Scientists, January 26, 2016
【参考】“「人類滅亡まであと3分」 終末時計の針動かさず”, CNN.co.jp, 2016.01.27
【参考】“人類滅亡までの残り時間を示す「世界終末時計」、滅亡まで「あと3分」のまま変わらず”, Gigazine, 2016年01月30日

【動画】“TSAR BOMBA (ツァーリ・ボンバ)”, by Michael Lennick , YouTube, 2013/02/09
【動画】“STAR WARS - Strategic Defense Initiative (スターウォーズ - 戦略防衛構想)”, by Inhalesulfur, YouTube, 2013/12/23
【動画】“'Doomsday Clock' Reflects Dangers to World (「終末時計」が世界の危険を反映)”, by Associated Press, YouTube, 2016/01/26




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posted by ジム佐伯 at 07:00 | ロンドン ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 戦争と平和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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