英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
第240回の今日はこの言葉です。
“You can hide memories, but you can't erase the history.”「記憶を隠すことはできても、歴史を消すことはできない」
という意味です。
これは、村上春樹の小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)に出てくる言葉です。
英語版はアリゾナ大学教授のフィリップ・ゲーブリエル(J. Philip Gabriel)が翻訳し、2014年に発売されました。英語のタイトルは、
“Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage”
です。僕は主人公の苗字を「たさき」だと思っていたのですが、英文タイトルを見ると「たざき」であることがわかります。
Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage (イギリス版)
物語の主人公である多崎つくる(Tsukuru Tazaki)は名古屋の公立高校を出て東京の工科大学で土木工学を学び、鉄道会社に就職してエンジニアとして駅を設計したり維持管理したりする仕事をしています。
彼がつきあい始めた2歳年上の木元沙羅(Sara Kimoto)は同じ東京の大手旅行代理店に勤めています。
つくるは沙羅に特別なものを感じ、それまで誰も話していなかった高校時代の友達の話を語ります。
Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage (Vintage International) (インターナショナル版)
つくるが名古屋の高校時代に親しかったのは、同じクラスだった赤松慶(Kei Akamatsu)、青海悦夫(Yoshio Oumi)、白根柚木(Yuzuki Shirane)、黒埜恵理(Eri Kurono)。みな色の名前が苗字に含まれているので、それぞれアカ、アオ、シロ、クロとあだ名で呼ばれています。
つくるだけ名前に色が入っていません。
5人は何をするにも一緒に過ごします。高校を卒業してつくるだけが名古屋を離れてからもその関係は続きます。
L'incolore, Tsukuru Tazaki et ses années de pèlerinage: Roman (フランス語版)
しかし大学2年生の夏のある日、つくるは何の前触れもなく、誰からも理由を告げられず、4人から絶縁されてしまいます。
つくるは大きな衝撃をうけて深く傷つきます。一時は死ぬ事ばかり考えて虚ろな日々を過ごします。
長い時間をかけてつくるは立ち直りますが、その後4人とは連絡をとらず、彼らがどこで何をしているかもわかりません。
Die Pilgerjahre des farblosen Herrn Tazaki (ドイツ語版)
その話を聞いた沙羅は、4人に絶縁された理由を追及せずになぜ15年もそのままにしているのかをつくるに訊ねます。
「忘れてしまったほうがいい」とつくるは答えます。
“I think it's better just to forget about it.”
「それは危険よ」沙羅はつくるに言います。そして沙羅が口にするのが今日の言葉です。
“I think that's dangerous.”
「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史は消すことはできない」英語版では、
“You can hide memories, but you can't erase the history that produced them.”と少しシンプルに書かれています。
この言葉はこの後に何度も形を変えて登場します。この作品のテーマの核心に深く関わる言葉なのだと思います。
Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage (沒有色彩的多崎作和他的巡禮之年)(中国語版)
数日後、つくるが再び沙羅とデートをした時、沙羅は言います。
「あなたが四人のお友だちに、なぜそこまできっぱりと拒絶されたのか、されなくてはならなかったのか、その理由をあなた自身の手でそろそろ明らかにしてもいいんじゃないかという気がするのよ」こうしてつくるの「巡礼の年」(Years of Pilgrimage)が始まります。
“I get the feeling that the time has come for you to find out why you were cut off, or had to be cut off, so abruptly, by those friends of yours.”
【動画】“Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage - Haruki Murakami(『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』- 村上春樹)”, by Vintage Books, YouTube, 2014/06/09
この作品に登場する音楽では、フランツ・リスト(Franz Liszt, 1811-1886)のピアノ曲『ル・マル・デュ・ペイ(Le mal du pays)』(1855年)が重要なモチーフとして登場します。日本語で『郷愁』と名付けられたこの曲は、リストの組曲『巡礼の年(Années de pèlerinage, 英題:Years of Pilgrimage)』の『第1年:スイス(Première année: Suisse, S.160)』の第8曲です。『第1年:スイス』は、リストが年上の未亡人であるマリー・ダグー伯爵夫人(Marie, Comtesse d'Agoult, 1805-1876)と過ごしたスイスでの印象を音楽で表したものです。
リスト:巡礼の年(全曲)
【動画】“Liszt - Le mal du pays(『フランツ・リスト - ル・マル・デュ・ペイ』)”, by Jorge Edgar Cardoso Cunha, YouTube, 2012/09/22
この作品は村上春樹の長編の中では短かめで、複数の物語が交互に語られたりもしないので、比較的わかりやすく、読みやすい作品です。
しかし村上春樹ワールドは健在です。
孤独、喪失、損なわれた大切なもの、過去の痛み、謎の女性、料理、音楽、暴力、セックス。
まわりくどい比喩やスカした会話も相変わらずです。(ほめてます。)
De kleurloze Tsukuru Tazaki en zijn pelgrimsjaren / druk 1 (オランダ語版)
そんな村上春樹ワールドを嫌いな方、苦手な方も当然いらっしゃいます。
(チェコ好き)さんはブログ『(チェコ好き)の日記』で、『村上春樹の「好き」「嫌い」はどこで分かれるのか? に関する一考察』をされています。僕もなるほどなあと思いました。
ドリーさんはAmazonのレビューでこの作品を実に痛快に批評されていて、「最も参考になったカスタマーレビュー」に選ばれています。僕も大笑いしながらとても楽しく拝見しました。ドリーさんは後に『村上春樹いじり』という本まで執筆されています。
また、逆にドリーさんに反論する声が上がったりもしています。
さらに、この作品をミステリーととらえて、深い考察のもとで犯人を推理している方もいらっしゃいます。
このようにファンの方もアンチの方もいろんな形で楽しめるのが村上作品の特徴なのではと思います。
村上春樹いじり
ちなみにドリーさんがAmazonのレビューで
「け、け、け、け、け、ケミストリー・・・・!」と驚愕されているつくるの言葉、
「僕らのあいだに生じた特別なケミストリーを大事に護っていくこと。」これは、英語版では
“We had to protect the special chemistry that had developed among us.”と訳されています。
また、ドリーさんが
「福山雅治なら許されます。ガリレオのときの雅治なら許されます。しかし、それ意外は、断じて許されません」(原文ママ)とバッサリ切ったアカの言葉、
「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ」これは英語版では、
“Great serve. Advantage Tsukuru Tazaki.”と訳されています。
強烈に浮いていたカタカナ言葉が、英語にすると周囲の文に溶け込むので、スカした印象が若干薄れる気がします。
Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage (英語、Kindle版)
ちょうど今から一年前の2014年の秋、この作品の英語版が発売されたイギリスでも大々的にプロモーションが行われたのを覚えています。ご存じのように村上春樹の作品はイギリスはじめヨーロッパでも大人気です。ロンドンでは大手高級チェーン書店のウォーターストーンズ(Waterstones)で、村上春樹のサイン会があったそうです。日本ではまず実現しないであろう贅沢な企画です。僕はイギリスで暮らし始めた直後でしたのでそのことを知らず、残念な思いをしました。知っていたら徹夜してでも並んだのですが。
【動画】“村上春樹さんロンドンでサイン会 徹夜組も”, by samtavatha, dailymotion, 2014/08/30
ちなみに前にも書きましたが、村上春樹の全作品の中で僕が最も好きなのはこの作品です。
→『村上朝日堂』
村上春樹のとぼけた文章と、昨年亡くなった安西水丸(1942-2014)さんのほのぼのとしたイラストが絶妙にマッチした、とても楽しいエッセイです。
『村上朝日堂はいほー!』
“You can hide memories, but you can't erase the history.”
記憶を隠すことはできても、歴史を消すことはできない。
まさにそのとおりですね。
Amazon傘下の書籍情報サイトであるgoodreadsでも、このセリフ(英語)がこの作品の名言の人気1位になっています。(2015年9月現在)
僕はこのセリフにはさらに深い意味が込められているのではないかと思います。また沙羅は読者の第一印象よりもはるかに重要な人物なのではないかと思います。
つくるは果たして巡礼の旅を無事終えることができるのでしょうか。
過去の謎を解き明かして、つらい思い出を乗り越えることができるのでしょうか。
そして沙羅との仲はどうなるのでしょうか。
それは作品をご覧になって下さい。

イギリスの書店に並ぶ村上春樹の作品
(表紙が見えているペーパーバックが『ノルウェイの森』、その左のハードカバーが『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)
Photo by Jim Saeki, September 2014
それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。
【関連記事】第238回:“I have love.”―「私には愛があります」(青豆)(村上春樹『1Q84』より), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2015年09月17日
【関連記事】第114回:“Just great.”―「やれやれ」(村上春樹), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年10月24日
【関連記事】第112回:“I will always stand on the side of the egg.”―「僕はいつだって卵の側に立つ」(村上春樹), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年10月20日
【関連記事】第113回:“Writing a novel is like having a dream.”―「小説を書くことは夢を見るようなものだ」(村上春樹), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年10月22日
【参考】Wikipedia(日本語版,英語版)
【参考】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の名言や心に響く言葉, 村上春樹新聞, 2015年2月13日
【参考】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 村上春樹 (文藝春秋), by RayChさん, 週刊「歴史とロック」, 2013年04月18日
【参考】村上春樹の「好き」「嫌い」はどこで分かれるのか? に関する一考察, by (チェコ好き)さん, (チェコ好き)の日記, 2013-11-02
【参考】孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説, by ドリーさん, Amazon.co.jp, カスタマーレビュー, 2013/5/3
【参考】「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」はなぜイラつくのか。完全バージョン, by ドリーさん, 埋没地蔵の館, April 29 [Mon], 2013
【参考】ドリーさんのamazonのレビューなんか全然すごくない, はてな匿名ダイアリー, 2013-05-07
【参考】「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。 目次・更新履歴, by 古上織 蛍(こうえおり ほたる)さん, 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(感想・考察・謎解き) (ネタバレあり), 2013-04-27
【参考】“Results for "Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage"(『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の検索結果)”, goodreads
【動画】“Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage - Haruki Murakami(『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』- 村上春樹)”, by Vintage Books, YouTube, 2014/06/09
【動画】“Liszt - Le mal du pays(『フランツ・リスト - ル・マル・デュ・ペイ』)”, by Jorge Edgar Cardoso Cunha, YouTube, 2012/09/22
【動画】“村上春樹さんロンドンでサイン会 徹夜組も”, by samtavatha, dailymotion, 2014/08/30
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