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2015年09月17日

第238回:“I have love.”―「私には愛があります」(青豆)(村上春樹『1Q84』より)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。

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【参考】“研ぎ澄まされて美しいヒロインに - カバーガール・杏が「文学」を「ビューティ」する!”, 25ans ヴァンサンカン, Special, 第5回 『1Q84』×「ミニマムなアイメイク」, Update: 2013/05/15

第238回の今日はこの言葉です。
“I have love.”
直訳すると、
「私は愛を持っている」
になります。
“love”は数えられない抽象名詞(abstract noun)ですので“a”は付きません。
実はこれ、村上春樹の小説『1Q84』(2009-2010年)の一節なのです。
原文の日本語では、
「『私には愛があります』と青豆はきっぱりと言った。」
のように、物語のヒロイン青豆(あおまめ、Aomame)のセリフとして登場します。
英語版では、
“‘I have love,’ Aomame declared.”
となります。
翻訳したのはジェイ・ルービン(Jay Rubin, 1941-)とフィリップ・ゲーブリエル(J. Philip Gabriel)です。ジェイ・ルービンはハーバード大学の元教授、フィリップ・ゲーブリエルはアリゾナ大学教授で、二人とも現代日本文学の研究者でもあり、村上春樹の作品を多数翻訳しています。


1Q84 (Vintage International)[Kindle Edition], Haruki Murakami (Author), Jay Rubin (Translator), Philip Gabriel (Translator)

物語の舞台は1984年。スポーツインストラクターの青豆は広尾の高級スポーツクラブで筋力トレーニングとマーシャルアーツ関係のクラスを担当しています。青豆はインストラクターとして働く一方で、謎めいた老婦人のもとで自分の特殊な能力と鍛えあげられた身体を活かした影の仕事をしています。彼女はある日ヤナーチェク(Leoš Janáček, 1854-1928)の名曲『シンフォニエッタ(Sinfonietta)』が流れるタクシーに乗っている時に渋滞にまきこまれ、影の仕事の時間に間に合わせようと避難はしごを伝って首都高速道路の高架から地上へ降ります。仕事を終えて周囲がそれまでの現実と微妙に異なる世界であることに気づいた青豆は、その世界を「1Q84年」と名づけます。1Q84年の世界の空には2つの月が浮かんでいます。


ヤナーチェク:シンフォニエッタ


【動画】Leos Janacek Sinfonietta WDR-Sinfonieorchester (2007)(レオシュ・ヤナーチェク『シンフォニエッタ』 WDR管弦楽団(2007年)), by MD051, YouTube, 2011/01/03

もう一人の主人公は天吾(Tengo)という男性です。天吾は予備校で数学を教えながら小説家を目指していて、新人賞のために小説を書きつづけています。小松という編集者のはからいで新人賞応募作の下読みを手伝っていた天吾は、「ふかえり(Fuka-Eri)」という少女が書いた小説『空気さなぎ(Air Chrysalis)』を目にとめ、小松に推薦します。小松は文章が稚拙な『空気さなぎ』のリライトを天吾にもちかけ、天吾は同意します。天吾が完成させた『空気さなぎ』は新人賞を受賞し、ベストセラーとなります。しかしいつしか天吾は2つの月が浮かぶ世界に自分がいることに気づくのです。

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村上春樹(Haruki Murakami, 1949-)
By wakarimasita of Flickr, 6 October 2005, cropped by Jim Saeki on 19 October 2013 [CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

こうして別々に1Q84の世界に入った青豆と天吾。『1Q84』では二人の物語が交互に描かれます。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)や『海辺のカフカ』(Kafka on the Shore)などでもとられた村上春樹おなじみの手法ですが、『1Q84』では完全に対称的に、『BOOK1〈4月‐6月〉』(第1巻)と『BOOK2〈7月‐9月〉』(第2巻)で24章ずつ交互に繰り返します。
村上春樹はバッハの『平均律クラヴィーア曲集』のフォーマットに沿って長調と短調、青豆と天吾の話を交互に書こうと決めていたと、インタビューで語っています。作中でも、
「『平均率クラヴィーア曲集』は数学者にとって、まさに天上の音楽である。十二音階すべてを均等に使って、長調と短調でそれぞれに前奏曲とフーガが作られている。全部で二十四曲。第一巻と第二巻をあわせて四十八曲。完全なサイクルがそこに形成される。」
と書かれています。
そして『BOOK3〈10月‐12月〉』(第3巻)では、青豆と天吾を調べる牛河の物語が加わって3つの物語が進行します。


バッハ:平均律クラヴィーア曲集


【動画】平均律クラヴィーア曲集 第1巻 1.プレリュード ハ長調 (J.Sバッハ) 横内愛弓, by recordsjp, YouTube, 2011/01/16

青豆と天吾は二人ともよく似た子供時代を送っており、今でも深い孤独をかかえています。
実は二人は10歳の少年少女の時に小学校で出会っています。
二人の家庭とも心が休まる環境ではなく、親と亀裂をかかえた孤独な状況です。
その特殊な家庭環境のため学校のクラスでもそれぞれ孤立しています。
それだけにお互いの気持ちがとてもよくわかるのです。
ある日だれもいない教室で、青豆と天吾は手を握りあい、心を通わせます。
その後二人は離ればなれになりますが、この経験が心に深く残ります。

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村上春樹
By Galoren.com (Own work) [GFDL or CC-BY-SA-3.0-2.5-2.0-1.0], 9-8-2009, via Wikimedia Commons

青豆にこういうセリフがあります。
「一人でもいいから、心から誰かを愛することができれば、人生には救いがある。たとえその人と一緒になることができなくても」
英語版では次にようになります。
“If you can love someone with your whole heart, even one person, then there's salvation in life. Even if you can't get together with that person.”
青豆もはっきりと天吾を愛していて、天吾を求めているのです。
そして、物語のクライマックスで青豆はある重要な人物と対峙します。
その時青豆が口にするのが今日の言葉です。
「『私には愛があります』と青豆はきっぱりと言った。」
“‘I have love,’ Aomame declared.”
“declare”とは「宣言する」ということです。
それだけ強く、深い愛なのです。

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【参考】“『ノルウェイの森』菊地凛子に直撃! 次は『1Q84』の青豆を演じたい!”, ELLE, エル・オンライン, インタビュー, 2010/12/03

この作品は大作です。新潮社出版部によると『BOOK1』と『BOOK2』で「400字詰め原稿用紙に換算すると1984枚」になるそうです。『BOOK3』も加えたらおそらく3000枚を超えるでしょう。
「リトルピープル」、「マザ」と「ドウタ」、「レシヴァ」と「パシヴァ」など解釈が難しい概念が登場します。作中で様々な音楽作品や文学作品、歴史的な事件などが印象的に紹介され、引用されます。
性描写はいつものように大胆で露骨です。
翻訳文学のような比喩が不自然なほど多く、気取ったような文体も相変わらずです。
それを嫌悪して受け入れられない読者も多いです。しかし村上春樹が好きな人にはたまりません。
僕も後者の方ですので、いつもの村上春樹節を存分に楽しむことができました。


1Q84 BOOK1-3 文庫 全6巻 完結セット (新潮文庫)

村上春樹は本作品の執筆の動機としてこう語っています。
“First, there was George Orwell's 1984, a novel about the near future. I wanted to write something that was the opposite of that, a novel on the recent past that shows how things could have been.”
「最初はジョージ・オーウェルが近未来小説として書いた『1984年』があった。僕はそれとは逆に、近過去小説として、過去こうあったかもしれない姿ということで書きたいと思った。」
作中でも、
「この現実の世界にはもうビッグ・ブラザー(ジョージ・オーウェルの小説『1984』における全体主義の独裁者)の出てくる幕はないんだよ。そのかわりに、このリトル・ピープルなるものが登場してきた。」
という表現があります。


1984年 (まんがで読破 MD100)

村上春樹がカルト宗教の暗部を長編小説として初めて描いたのもこの作品の特徴です。
物語には「ヤマギシ会」や「エホバの証人」、「オウム真理教」を彷彿とさせる宗教団体がいくつか登場し、作品の重要な要素となっています。
村上春樹はアメリカ滞在中の1995年に相次いで起こった阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件に大きな衝撃をうけたそうです。彼は日本へ帰国して、1997年に地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた『アンダーグラウンド』を、1999年に続編としてオウム真理教信者へのインタビューをまとめた『約束された場所で』を、それぞれ発表します。また翌2000年、阪神淡路大震災をテーマにした連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』を発表します。
それまでの作品は内向的な作風で、社会に無関心な青年ばかりが主人公でしたが、村上春樹が社会問題を真正面から題材にしたことは周囲を驚かせました。
村上春樹はこの変化を、以前は「デタッチメント(かかわりのなさ)」が大事だったが最近は「コミットメント(かかわり)」ということについてよく考える、と語っています。
『1Q84』でも物語中に宗教団体が深く描かれ、青豆も影の仕事を通して社会に深く「コミット」していくことになります。

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【参考】“The Fierce Imagination of Haruki Murakami(村上春樹のおそるべき想像力)”, by Sam Anderson, The New York Times, Oct. 21, 2011

『ニューヨーク・タイムズ』紙の2011年のインタビューで村上春樹は、この作品は自身の短編小説「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて(英題:“On Seeing the 100% Perfect Girl On Beautiful April Morning”)」(1981年)から派生した作品であると答えています。
“Basically, it's the same, a boy meets a girl. They leave separated and are looking for each other. It's a simple story. I just made it long.”
「基本的には同じ物語です。少年と少女が出会い、離ればなれになる。そしてお互いを探し始める。単純な物語です。その短編をただ長くしただけです。」
村上春樹は別のインタビューで、
「『1Q84』は愛の物語だ」
とも言っています。
『1Q84』はボーイ・ミーツ・ガールの物語、そして愛の物語なのです。


【動画】青豆。1Q84。Aomame 1Q84 (with Chinese & English subtitle), by aomame1q84moon, YouTube, 2013/01/08
(YouTubeで見つけた青豆の動画。部屋や小道具、日本語セリフがあやしいですが、なかなか雰囲気が出ています。)

“I have love.”
私には愛があります。

長いあいだ孤独に生きてきた青豆。
愛を信じ、愛を求めている青豆。
彼女ははたして天吾とふたたびめぐりあって、再びその手を結び合わせることができるのでしょうか。
それは作品をご覧になって下さい。

そして空の月を見上げてみて下さい。

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By Meinolf Wewel (Own work), 29 July 2013 [CC0], via Wikimedia Commons

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。


【動画】華原朋美 - 見上げてごらん夜の星を, by UNIVERSAL MUSIC JAPAN, YouTube, 2014/10/10

【関連記事】第114回:“Just great.”―「やれやれ」(村上春樹), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年10月24日
【関連記事】第112回:“I will always stand on the side of the egg.”―「僕はいつだって卵の側に立つ」(村上春樹), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年10月20日
【関連記事】第113回:“Writing a novel is like having a dream.”―「小説を書くことは夢を見るようなものだ」(村上春樹), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年10月22日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“The Fierce Imagination of Haruki Murakami(村上春樹のおそるべき想像力)”, by Sam Anderson, The New York Times, Oct. 21, 2011
【参考】“Surreal often more real for author Haruki Murakami(作家・村上春樹にとっては現実離れしたことがより現実的)”, by Yoko Kubota, REUTERS, Nov 25, 2009
【参考】再送:インタビュー:村上春樹、 「1Q84」で描くポスト冷戦の世界, by 久保田洋子記者, REUTERS ロイター, 2009年 11月 24日
【参考】村上春樹の長編小説「1Q84」の中に現れた「二つの月」は一体何なのか?, by Siqi Zhangさん, Lang-8, 2014年10月24日
【参考】村上春樹氏 公開インタビュー, 時事ドットコム, 2013年 5月 (6日)
【参考】“Haruki Murakami: 'I took a gamble and survived'(「賭けをして、そして、生き延びた 」村上春樹)”, by Emma Brockes, The Guardian, Friday 14 October 2011
【参考】「賭けをして、そして、生き延びた 」村上春樹インタビュー和訳:エマ・ブロックス、ザ・ガーディアン, by yagianさん, 山の手の日常 Everyday Life in Uptown Tokyo, 2011/10/24
【参考】「村上春樹 ロング・インタビュー」「考える人」2010年夏号 新潮社, by 鈴木 靖三さん, インフォーメーション・プラザへようこそ !!, Last Updated 10/31/2010
【参考】スペインの新聞、La Vanguardia紙に載った村上春樹氏のインタビュー全訳, by cruasanさん, 地中海ブログ, 2011.06.12 Sunday
【参考】“研ぎ澄まされて美しいヒロインに - カバーガール・杏が「文学」を「ビューティ」する!”, 25ans ヴァンサンカン, Special, 第5回 『1Q84』×「ミニマムなアイメイク」, Update: 2013/05/15
【参考】“『ノルウェイの森』菊地凛子に直撃! 次は『1Q84』の青豆を演じたい!”, ELLE, エル・オンライン, インタビュー, 2010/12/03
【参考】“How Haruki Murakami's '1Q84' Was Translated Into English(村上春樹の『1Q84』はいかにして英語に翻訳されたか)”, by ALEX HOYT, The Atlantic, OCT 24, 2011

【動画】Leos Janacek Sinfonietta WDR-Sinfonieorchester (2007)(レオシュ・ヤナーチェク『シンフォニエッタ』 WDR管弦楽団(2007年)), by MD051, YouTube, 2011/01/03
【動画】平均律クラヴィーア曲集 第1巻 1.プレリュード ハ長調 (J.Sバッハ) 横内愛弓, by recordsjp, YouTube, 2011/01/16
【動画】青豆1Q84, by aomame1q84moon, YouTube, 2012/06/08
【動画】華原朋美 - 見上げてごらん夜の星を, by UNIVERSAL MUSIC JAPAN, YouTube, 2014/10/10




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