英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。
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第196回の今日はこの言葉です。
“The train came out of the long tunnel into the snow country.”「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
という意味です。
これは日本の小説家、川端康成(Yasunari Kawabata, 1899-1972)の言葉です。
彼の代表作の一つである小説『雪国』(1948年)の冒頭の一文の英訳です。
川端康成(Yasunari Kawabata, 1899-1972)
Photo by Unknown, between 1929 and 1934, cropped by Jim Saeki on 9 March 2014 [Public domain], via Wikimedia Commons
『雪国』の冒頭は次の2文で始まります。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」
この冒頭の2文はとてもシンプルですが、場所や季節や時刻や状況がはっきりと読者に伝わり、風景を適切に描写し、旅情をかきたて、さらに果てしない想像の世界が広がる素晴らしい名文です。この冒頭の2文だけでも『雪国』が不朽の名作であることがわかります。
島国日本に「国境」はありませんが、これは上越国境のことを現しています。今の群馬県と新潟県の県境にあたり、「国境の長いトンネル」とは旧国鉄上越線の清水トンネルのことです。このトンネルは1931年(昭和6年)に開通したもので、僕は当然蒸気機関車だと思っていたのですが、上越線は清水トンネル開通後まもなく電化されています。『雪国』冒頭に登場した夜汽車は、実は開通したばかりの最新路線だったのでしょうか。
しかし上の冒頭2文に続く文には、
「信号所に汽車が止まった。」とあります。このころは電化の有無にかかわらず列車全般を「汽車」を呼ぶのが一般的でしたが、川端康成の若き日の体験に基づく小説と考えると、やはり蒸気機関車の時代の話だったのかもしれません。
ちなみに英語で続きの文は、
“The train pulled up at a signal stop.”と訳されています。
Image Copyright by Hugelland, Used under license from Links Co., Ltd., color modified by Jim Saeki on 9 March 2014
『雪国』は1956年(昭和31年)にアメリカの日本学者エドワード・サイデンステッカー(Edward George Seidensticker, 1921-2007)が英語に翻訳して“Snow Country”として出版します。
1956年の翻訳では次のように訳されています。
“The train came out of the long border tunnel − and there was the snow country. The night had turned white.”
“Snow Country”, Yasunari Kawabata, Translated by Edward Seidensticker (1956)
これも素晴らしい翻訳ですが、サイデンステッカーは40年後の1996年に再翻訳をしています。1996年の翻訳では冒頭の2文は次のように訳されます。
“The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky.”
“Snow Country”, Yasunari Kawabata, Translated by Edward Seidensticker (1996)
サイデンステッカーの長年の研究の成果が反映された翻訳であるだけあって、後者の方が直訳体から離れ、よりシンプルで趣きのある文体になっています。「夜の底が白くなった。」も上手に訳されています。
僕も後者の訳が好きなので、今日の記事タイトルにもそちらを使っています。
1938年頃、鎌倉二階堂の自宅窓辺にて
Photo by Unknown, 1938 [Public domain], via Wikimedia Commons
川端康成は1899年(明治32年)に大阪で生まれます。2歳の頃に医師だった父が死去して母の実家に移りますが、さらに翌年に母も亡くし、祖父母のもとで育てられます。大阪府立茨木中学校(今の大阪府立茨木高等学校)へは首席で入学。この頃までに祖父母とも他界して康成は他家にひきとられますが、中学の寄宿舎に入って生活をします。少ない金をはたいて近所の本屋で本を買っていたそうです。
康成は中学2年の時に作家をこころざし、17歳の頃から『京阪新報』に短編を、『文章世界』に短歌を投稿するようになります。翌年上京して蔵前にある従兄の家に居候し、明治大学予備校を経て第一高校(今の東京大学教養学部)に入学します。入学の翌年に伊豆へ旅行した時の体験が、後の『伊豆の踊子』に描かれます。
下の写真はこの頃の康成です。なかなかイケメンですね。ダルビッシュにそっくりです。
上京した頃の川端康成(1917年)
By Unknown, 1917 [Public domain], via Wikimedia Commons
20歳の頃に第一高校を卒業し、東京帝国大学の文学部英文学科に入学します。すぐに国文学科に移り、翌年仲間と同人誌『新思潮』を創刊します。そこに発表した作品が菊池寛(Kan Kikuchi, 1888-1948)らに評価され、1923年(大正12年)に創刊された『文藝春秋』の同人となります。
大学を卒業した後、康成は25歳の頃に同人雑誌『文藝時代』を創刊。『伊豆の踊子』などを発表します。
1926年(大正15年)、27歳の頃に結婚して引越し、さらに翌年に同人雑誌『手帖』を創刊。さらに『近代生活』『文学』『文学界』などの同人となります。
妻の秀子(左)、妹の君子(右)と(1930年、康成30歳の頃)
Photo by Unknown, 1930 [Public domain], via Wikimedia Commons
康成は1935年(昭和10年)から複数の雑誌で断続的に書き次いだ断章をまとめ、1937年(昭和12年)に小説『雪国』の単行本を発表します。この年に『雪国』は文芸懇話会賞を受賞しますが、その後も約13年かかって改訂され、最終的な完成に至ります。
康成は1934年(昭和9年)から1937年まで越後湯沢の温泉旅館に逗留しており、『雪国』の物語はそこでの体験が元になっています。
作中で康成はあえて地名を隠していますが、康成が滞在したのは新潟県湯沢町の
ヒロイン駒子のモデル、温泉芸者の
Photo by Unknown, from Japan Times, 1934 [Public domain], via Wikimedia Commons
この作品は海外でも高く評価されます。1956年(昭和31年)に出版されたサイデンステッカーの英訳に続いて、『雪国』は世界各国語にも翻訳されます。
1961年(昭和36年)に康成は文化勲章を受章。そして1968年(昭和43年)にノーベル文学賞(Nobel Prize in Literature)を受賞します。
ノーベル文学賞受賞の理由は次のように述べられています。
“For his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind.”同年12月にストックホルムで行われた授賞式に、康成は燕尾服(Evening Tailcoat)ではなく紋付羽織袴で日本の文化勲章をつけて出席します。
「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による彼の叙述の卓越さに対して。」
羽織袴姿の川端康成(ノーベル賞授賞式の写真ではない)(1951年)
Photo by Unknown, July 1951 [Public domain], via Wikimedia Commons
受賞記念講演で康成はスーツ姿で『美しい日本の私―その序説』という評論を日本語で発表し、彼の芸術観・文化論を述べます。同時通訳は『雪国』を翻訳したエドワード・サイデンステッカーが行い、後に翻訳版を出版しています。
26年後の1994年(平成6年)、日本人で2人目のノーベル文学賞を受賞した大江健三郎(Kenzaburō Ōe, 1935-)は康成の講演を意識して、皮肉を込めた『あいまいな日本の私』という英語による講演を行い、のちに日本語訳を発表します。
大江健三郎(Kenzaburō Ōe, 1935-)
By Thesupermat (Own work), 18 March 2012 [CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons
“The train came out of the long tunnel into the snow country.”
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
僕はこの『雪国』は本当に世界に誇る文学作品の傑作だと思います。
未読の方は、冒頭の列車のシーンだけでもご一読下さい。
車窓から見た屋外の風景や車内の雰囲気などがまったく無駄のない筆致で語られており、素晴らしいの一言に尽きます。僕が中学生の時に初めて読んだ時にはあまりの素晴らしさに鳥肌がたつ思いがしたのを覚えています。このシーンが素晴らしすぎて僕はすっかり葉子のファンになってしまい、ヒロインの駒子になかなか感情移入できずに困ったものでした。
康成はノーベル文学賞受賞後、長編小説を一度も執筆することなく4年後に亡くなります。遺書はありませんでしたが自殺であるとされています。72歳でした。ノーベル賞の受賞が重圧になったのではと言われました。
その作品のすばらしさが正しく評価されてノーベル文学賞を受賞したのは、康成にとっては不幸なことだったのかもしれません。
鎌倉の自宅にて
Photo by Unknown, c. 1946 [Public domain], via Wikimedia Commons
それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。
【動画】“川端康成 1968年度ノーベル文学賞受賞の快挙 日本人3人目のノーベル賞受賞”, by 社会学, YouTube, 2017/07/11
【関連記事】第112回:“I will always stand on the side of the egg.”―「僕はいつだって卵の側に立つ」(村上春樹), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年10月20日
【関連記事】第113回:“Writing a novel is like having a dream.”―「小説を書くことは夢を見るようなものだ」(村上春樹), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年10月22日
【関連記事】第114回:“Just great.”―「やれやれ」(村上春樹), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年10月24日
【参考】Wikipedia(日本語版,英語版)
【参考】“「閑さや岩にしみ入蝉の声」これを英語で言えますか? 英語になった日本の”あの”名文”, by 森 弘之, All About, ビジネス・学習, 日常英会話/日常英会話アーカイブ, 2004年04月12日
【参考】“Snow Country 雪国”, TravelJapanBlog.com, October 5th, 2008
【参考】“三島由紀夫、ノーベル文学賞最終候補だった 63年”, 日本経済新聞, ストックホルム=共同, 2014/1/3
【参考】“Nobel Lecture (ノーベル賞記念講演) 『美しい日本の私』 川端康成”, Nobelprize.org (ノーベル賞公式サイト), December 12, 1968
【参考】“Nobel Lecture (ノーベル賞記念講演) ‘Japan, The Ambiguous, and Myself(あいまいな日本の私)’, Kenzaburo Oe (大江健三郎)”, Nobelprize.org (ノーベル賞公式サイト), December 7, 1994
【参考】“雪國の宿 高半”, 湯沢温泉 雪国の宿 高半 公式ホームページ
【動画】“川端康成 1968年度ノーベル文学賞受賞の快挙 日本人3人目のノーベル賞受賞”, by 社会学, YouTube, 2017/07/11
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