英語の名言・格言やちょっといい言葉をご紹介しています。

By Fer1997 (Own work), 2010_09_18, cropped by Jim Saeki on 12 October 2013 [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html) or CC-BY-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by/3.0)], via Wikimedia Commons
第108回の今日はこの言葉です。
“Heaven does not create one man above or below another man.”「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。」
という意味です。
これは日本の教育者で慶應義塾(今の慶應義塾大学, Keio University)の創設者でもある福沢諭吉(Yukichi Fukuzawa, 1835-1901)の有名な言葉です。
諭吉が英語で語った言葉ではなく、著書である『学問のすゝめ』(1872)の冒頭に出てくる言葉の英訳です。
原典に忠実に訳すと、
“It is said that heaven does not create one man above or below another man.”と伝聞調になります。
「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ。」

福沢諭吉(Yukichi Fukuzawa, 1835-1901)
Photo by Unknown, from Kinsei Meishi Shashin vol.2 (近世名士写真 其2), National Diet Library (国立国会図書館) [Public domain], via Wikimedia Commons
そもそもこれは諭吉の独創ではなく、アメリカ独立宣言を要約して引用したものとされています。
アメリカ独立宣言の正式名称は、
“The unanimous declaration of the thirteen United States of America.”といいます。当時イギリスに統治されていた13の植民地が独立することを宣言したものです。
『アメリカ合衆国13州による満場一致の宣言』
1776年7月4日に大陸会議(the Continental Congress)で採択されました。

アメリカ独立宣言(1776)(1823年の複写)
By original: w:Second Continental Congress; reproduction: William Stone (numerous), 1776-07-04 (ratification); 1776-07-02 (approval and signing) [Public domain], via Wikimedia Commons
この独立宣言の中に、次のような一節があります。
“All Men are created equal, (中略), by their CREATOR,”福沢諭吉は、著書『西洋事情』(1866年)でこう訳しています。
「天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ」漢文調で言葉が難しいですが、“equal”を「一轍(いってつ)」と訳しています。
頑固一徹や星一徹の「一徹」とは違います。「轍」とは「わだち」のことで、車のわだちを一つにすることから転じて、同じであることを言います。
諭吉はこれを意識して、
「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズ」と書いたのです。
人は生まれついてはみな同じなのだから、しっかりと学問して自らを立派な人間に育てなければいけない。学問をしたら誰でも立派な人物になれる。だから学問は大事なのだ、と学問と教育の重要性を説いたのが『学問のすゝめ』です。
学問のすゝめ (岩波文庫), 福沢 諭吉
福沢諭吉は天保5年(1835年)、大坂(今の大阪)にあった備前中津藩(今の大分県中津市)の蔵屋敷で藩士の子として生まれます。
安政元年(1854年)、19歳の時に長崎に出て蘭学を学びます。翌安政2年(1855年)に大坂の適塾で緒方洪庵に師事して蘭学を続け、2年後には適塾の塾頭になります。適塾で最年少の塾頭だったそうです。
安政5年(1858年)に諭吉は中津藩から江戸出府を命じられ、江戸に出て築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内に家塾を構え、蘭学を教えます。江戸にあった佐久間象山の砲術塾では中津藩士も多く学んでいましたが、諭吉は象山が所蔵していた洋書を片っぱしから翻訳して講義に活かしました。
この蘭学塾が慶應義塾の前身となります。

中津藩中屋敷内に諭吉が開いた蘭学塾(画面中央左側、築山の下の平地のあたり)
Drawn by Unknown, from Fukuzawa Memorial Center for Modern Japanese Studies, Keio University (慶應義塾大学福澤研究センター) [Public domain], via Wikimedia Commons
同年、日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce)が締結され、翌安政6年(1859年)に横浜と長崎が新たに開港されます。
諭吉は外国人居留地となった横浜の見物に出かけ、そこで大きなショックを受けます。道行く偉人たちにはオランダ語が全く通じず、看板の文字すら読めなかったからです。世界の覇権は既に大英帝国が握っており、英語が世界共通語となりつつあったのです。
諭吉は英語の必要性を痛感し、英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始めます。

ポーハタン号(USS Powhatan)
Published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association), in 1933-1934 [Public domain], via Wikimedia Commons
翌万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が渡米することとなり、米軍艦ポーハタン号(USS Powhatan)と日本の咸臨丸(Kanrin Maru)がアメリカへ向かいます。
奇しくもポーハタン号は嘉永7年(1854年)のペリーの日本再訪の時の黒船の一隻で、吉田松陰が密航をくわだてて失敗した艦でもあります。
アメリカではちょうど南北戦争(The Civil War, 1861-1865)が始まる直前の頃でした。

『咸臨丸難航の図』(鈴藤勇次郎画)
By Yujiro Suzufuji(鈴藤勇次郎) (http://www.usajapan.org/events-forums.html) [Public domain], via Wikimedia Commons
諭吉は咸臨丸の艦長となった軍艦奉行の木村摂津守の従者として渡米します。満25歳の時のことです。科学技術などは書物で知識を得ていたのであまり驚くことはなかったそうですが、文化の違いにはいろいろ驚いたといいます。
特にアメリカ独立の英雄で建国の父でもある初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington, 1732-1799年)の子孫が今どこで何をしているかをアメリカ国民の誰も知らないこと、気にしていないことに衝撃を受け、逆に感心したそうです。

渡米中の福沢諭吉「写真館の少女とともに」
(サンフランシスコの写真館で撮影、一緒にいるのは15歳のセオドラ・アリス, Theodora Alice)
By ウィリアム・シュー, 1860, from Fukuzawa Memorial Center for Modern Japanese Studies, Keio University (慶應義塾大学福澤研究センター) [Public domain], via Wikimedia Commons
さらに翌年の文久元年(1862年)、外交交渉のために江戸幕府の第1回遣欧使節がイギリス軍艦オーディン号(HMS Odin)でヨーロッパへ出発し、諭吉も
使節団は香港やシンガポールに立ち寄りながらヨーロッパへ行き、フランス帝国、大英帝国、オランダ王国、プロイセン王国(今のドイツ)、ロシア帝国、ポルトガル王国などを歴訪します。イギリスではロンドン万国博覧会(London International Exhibition on Industry and Art 1862)を視察します。

渡欧中の福沢諭吉
(パリの国立自然史博物館にて撮影、東京大学史料編纂所蔵)
By en:User:PHG (en:Image:FukuzawaYukichi.jpg), in 1862 [Public domain], via Wikimedia Commons
2年後の元治元年(1864年)、幕府の臨時雇いだった諭吉は正式に旗本として直参の幕臣に登用されます。しかしこのころ幕府の屋台骨は既に大きく傾いていました。
元治元年といえば京都で池田屋事件がおこり、禁門の変が起こった年です。
翌年の慶応元年(1865年)には水戸藩で天狗党の乱がおこり、慶応2年(1866年)には薩長同盟の密約が結ばれ、慶応3年(1867年)に15代将軍徳川慶喜(Tokugawa Yoshinobu, 1837-1913)はついに大政奉還を行います。そして慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで幕軍は完敗。薩長軍が官軍として東へ進軍します。
同年4月に諭吉は蘭学塾の移転を機に、新たに「慶應義塾」と名付けます。「義塾」の「義」は社会公共のため協力して事を行う、という意味があります。西洋の“Public school”をイメージした命名だったようです。
江戸城が無血開城し、彰義隊が上野の山にこもって官軍と戦っている間も、諭吉は砲声とどろく中で講義を続けたそうです。
同年6月、諭吉は幕府に退身届を提出して退官します。
そして元号は慶応から明治へ変わります。

経済書の講義をする福沢諭吉 (弟子たちは上野戦争を気にしている)
By Yukihiko Yasuda(安田靫彦), cropped by Jim Saeki on 12 October 2013 [Public domain], via Wikimedia Commons
明治の新しい時代では、諭吉は教育と啓蒙活動に専念します。
『学問のすゝめ』の初編を出版したのは明治5年(1872年)です。続けて明治9年(1876年)までに全17編の『学問のすゝめ』を出版します。
しかし諭吉は旧幕臣ということもあり、新政府の中心になることはついにありませんでした。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」のラテン語表記
上は慶応義塾大学の紋章「ペンマーク」(「ペンは剣よりも強し」という言葉から)
By 塾生 (Own work), May 2009. Clipped by Jim Saeki on 18 August 2013 [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html) or CC-BY-SA-3.0-2.5-2.0-1.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons
“Heaven does not create one man above or below another man.”
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。
今でも慶應義塾大学の建物には、ラテン語訳の
“Homo nec vllvs cviqvam praepostivs nec svbditvs creatvr”という言葉が刻まれています。
(ホモ・ネク・ウルス・クイクアム・プラエポスティウス・ネク・スブディートゥス・クレアトゥール)
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
新政府の中心になることはついになかった福沢諭吉。
しかし彼が育てた多くの人材は官民を問わず日本の中心で国を支え、その発展に尽くしてきました。
そして今も慶應義塾は様々な分野で活躍する人材を輩出し続けています。

慶應義塾大学・三田キャンパス
By Ichtrinken (Own work), 2006 [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html), CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/) or FAL], via Wikimedia Commons
それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。
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【関連記事】第6回:“Anything one man can imagine, other men can make real.”―「人が想像できることは、必ず人が実現できる。」(ジュール・ヴェルヌ), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年04月28日
【参考】Wikipedia(日本語版,英語版)
【参考】“慶應義塾を知る・楽しむ”, 慶応義塾公式サイト
【参考】“In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America.(1776年7月4日大陸会議 アメリカ合衆国13州の満場一致の宣言)”, The Library of Congress(アメリカ連邦議会図書館)
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