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2018年01月28日

第494回:“All are brothers.” ―「人類みな兄弟」(アンリ・デュナン)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。



第494回の今日はこの言葉です。
“All are brothers.”

「皆は兄弟です」
「人類みな兄弟」
という意味です。これはスイスの実業家アンリ・デュナン(Henri Dunant, 1828-1910)の言葉です。
赤十字社(Red Cross)を設立し、第1回のノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)を受賞した人物です。

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アンリ・デュナン
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

1828年、アンリ・デュナンはスイスのジュネーヴに生まれます。父親は実業家で政治家でもあったジャン・ジャック・デュナン(Jean-Jacques Dunant)で、母親は名門コラドン家の出身のアントワネット・デュナン=コラドン(Antoinette Dunant-Colladon)です。父親は一時ジュネーヴ州の代議員まで務めた人物だそうです。アンリは5人兄弟の長男で、厳格なカルヴァン派(Calvinist)のキリスト教徒として育てられます。
アンリは10歳の時にジュネーヴの名門校であるカルヴァン学校に入学します。しかし学業不振のため3年で退学し、家庭教師の教えによって教養を身につけます。
19歳の時にデュナンは銀行で見習いとして働き始め、2年の見習いの後に銀行員となります。当時のジュネーヴで銀行員となるのはエリートの証です。デュナンは銀行員として熱心に働きながら、西欧諸国の若き福音活動家たちとも交流します。

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若き日のアンリ・デュナン(1855年撮影)
By ICRC, cropped by Jim Saeki in 2018 [CC BY-SA 2.0], via Wikimedia Commons

この頃のデュナンが最も大きな影響を受けたのがイギリス人のキリスト教徒ジョージ・ウィリアムズ(George Williams)です。ジョージ・ウィリアムズはロンドンの生地屋で過酷な条件下で働いている若者が多いことに衝撃を受け、若者たちが犯罪に手を染めないように生地屋仲間を中心に青年組織を作ります。それを発展させのが1844年に設立されたキリスト教青年会(Young Men's Christian Association)です。“YMCA”という略称でもおなじみの組織です。

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晩年のジョージ・ウィリアムズ
John Collier [Public domain], via Wikimedia Commons

デュナンは1852年にYMCAのジュネーヴ支部を設立します。デュナンが24歳の頃のことです。
さらに1855年、デュナンはパリでYMCA世界同盟(World Alliance of YMCAs)を設立し、欧米の99のYMCAが集う第1回YMCA世界会議(The First World Conference of YMCAs)を主催します。デュナンが27歳の時のことです。今ではYMCAは日本も含め世界中に広がった組織となっています。
僕にとってYMCAは、比較的便利な場所で気軽に泊まれる安価で安心な宿としてよくお世話になっている存在です。ユースホステルのような相部屋のドミトリータイプだけでなく、個室で高級ホテルと変わらない設備を持つ施設も多いです。男女を問わず、そしてキリスト教徒かどうかを問わずに利用できるのが素晴らしいと思います。

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ドイツ・ニュルンベルクのYMCA施設
By User:Mattes (Own work) [CC BY 2.0 de], via Wikimedia Commons

1853年、デュナンは銀行の業務の一環で北アフリカのフランス領アルジェリア(French Algeria)を訪問します。フランスの植民地だったアルジェリアでデュナンは差別と迫害と貧困に苦しむ現地のアラブ人やベルベル人たちを見て衝撃を受けます。
1856年、デュナンはアルジェリアでトウモロコシの栽培と貿易の事業を始めます。現地の人々の生活を助けたいという思いがあったようです。しかし土地と水の権利で揉め、フランスの植民地政府も協力的ではなく、事業はうまくいかずに借金がかさみます。
そこでデュナンは、時のフランス皇帝ナポレオン3世(Napoléon III)に直訴することを考えます。

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ナポレオン3世(1855年の肖像画)
after Franz Xaver Winterhalter, cropped by Jim Saeki in 2018 [Public domain], via Wikimedia Commons

北イタリアのミラノを中心とするロンバルディア地方とヴェネツィアを中心とするヴェネト地方は、当時ロンバルド=ヴェネト王国(Kingdom of Lombardy–Venetia)といって、オーストリアの皇帝が国王を兼ねて支配していました。
ナポレオン3世は、イタリア統一運動の中核となっていたサルデーニャ王国(Kingdom of Sardinia)を支援して、共同でオーストリアと戦うという秘密協定に合意します。そして1859年、フランス=サルデーニャ連合軍はロンバルド=ヴェネト王国に侵攻します。第2次イタリア独立戦争(Second Italian War of Independence, 1859)です。

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1848年当時のイタリア
By Gigillo83 (Image:Italy 1494 shepherd.jpg), 1 February 2011, noted by Jim Saeki on 23 January 2014 [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

戦争の序盤でフランス=サルデーニャ連合軍はロンバルディアの西端に近いミラノの西郊外にあるマジェンタ(Magenta)でオーストリア軍を破り、ミラノに入城します。マジェンタの戦い(Battle of Magenta)です。オーストリア軍はこの敗北でロンバルディアからの撤退を余儀なくされます。
そしてその20日後、ロンバルディアの東端に近いソルフェリーノ(Solferino)で両軍は再びぶつかります。この戦闘ではフランス皇帝ナポレオン3世率いるフランス帝国軍とサルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II)率いるサルデーニャ王国軍の連合軍が、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I.)率いるオーストリア帝国軍と戦います。ソルフェリーノの戦い(Battle of Solferino)です。

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ソルフェリーノの戦場に立つナポレオン3世(1863年の絵画)
Jean-Louis-Ernest Meissonier [Public domain], via Wikimedia Commons

アンリ・デュナンがナポレオン3世に事業の支援を要請するためにソルフェリーノを訪れていたちょうどその時、ソルフェリーノの戦いが始まります。両軍とも皇帝や国王が指揮をとり、合わせて25万の兵力が激突し、4万人近くの死傷者が出た19世紀最大級の大激戦です。
デュナンは目の前で繰り広げられる凄惨な光景に大きな衝撃を受けます。
そしてデュナンは負傷兵の粗雑な扱いにも驚きます。負傷兵は後方のカスティリオーネに運ばれていましたが、あまりにも数が多いために病院代わりの教会に入りきらず、道ばたに放置されていたのです。

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ソルフェリーノの戦いでのフランス兵
アルジェリア出身のズワーヴ兵(Zouaves)も多く見られる
By Levin01 (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

デュナンは地元の人々を組織して、敵も味方もなく負傷兵の手当てにあたります。
誰かがデュナンになぜ敵も味方も助けるのかと訊ねます。
そしてデュナンが答えたのが今日の言葉です。
“All are brothers.”
「だって皆は兄弟じゃないか」
なんと恰好よい答えでしょう。そもそもデュナンは第三国のスイス人でしたので、フランス人やアルジェリア人、サルデーニャ人やオーストリア人に敵も味方もありません。
イタリア語で「みな兄弟」を表す
“Tutti fratelli.”
(トゥッティ・フラテッリ)
という言葉は救護班の人たちの合い言葉のようになり、必死に救助活動が続けられます。
デュナンが31歳の時のことです。

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ソルフェリーノの戦い
Carlo Bossoli [Public domain], via Wikimedia Commons

デュナンが率いた救助活動では、婦人や少女たちが活躍したと言われます。
後にデュナンは次のように書いています。
“The influence of women is an essential factor in the welfare of humanity, and it will become more valuable as time proceeds.”
「女性の影響は人類の福祉に不可欠な要素だ。そして時がたつにつれてますます価値のあるものになって行くだろう」
日本でも最近は「女性が活躍する社会」の必要性が盛んに語られていますが、デュナンは150年以上前に同じことを言っていたのです。「将来ますます価値のあるものになって行く」という予測はまさに慧眼です。

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ソルフェリーノの街並み(2009年撮影)
絵画などにも描かれた、病院代わりに使われた教会が見える
By Murdockcrc (Own work) [CC BY 3.0], via Wikimedia Commons

ソルフェリーノの戦いは、フランスとサルデーニャの同盟軍の勝利に終わり、イタリアは統一に大きく前進します。
3年後の1862年、デュナンは自身の体験と兵士たちの証言をまとめた『ソルフェリーノの思い出(A Memory of Solferino, フランス語原題:Un souvenir de Solférino)』を自費出版します。そして、ヨーロッパ各国の主だった政治家や軍人たちに贈呈します。
作品中でデュナンは戦場の兵士たちの苦しみを描いて戦争を起こしてはならないと説いた上で、
・各国に傷病兵を救援する組織を作ること
・戦場で負傷者と救護者を保護する法を定めること
の2点を提唱します。


A Memory of Solferino (English Edition) Kindle版, Henry Dunant (著)

この本はたちまちのうちに評判となります。
フランスの作家ヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)はデュナンの本を読んで感動し、デュナンこそ人道を守って自由のために尽くす人だと讃えてデュナンの考えに全面的に賛同します。この頃ユーゴーはナポレオン3世に弾圧されて亡命生活を送っており、ちょうど同じ1862年に大河小説『レ・ミゼラブル(Les Misérables)』を亡命先のベルギーで出版して大評判となっていた時期のことです。
またイギリスの作家チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)もデュナンの考えに感動し、デュナンの本の要点を新聞に紹介します。

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ヴィクトル・ユーゴー(1953年撮影)
By Hugo, Charles (attributed) (1826-1871) or Vacquerie, Auguste (attributed) (1819-1895) (Here) [Public domain], via Wikimedia Commons

『ソルフェリーノの思い出』が発刊されたわずか1年後の1863年、デュナンと法律家や医師や軍人などの賛同者5人が集まって「5人委員会(Committee of the Five)」が開かれ、「負傷兵救済国際委員会(International Committee for Relief to the Wounded)」を組織します。デュナンは各国を回って講演をするなど国際会議の開催に奔走し、同年10月にヨーロッパ18ヶ国の代表と非政府組織(NGO: Non-Governmental Organizations)や国際委員会のメンバなど合わせて36人が出席する国際会議が開かれます。この会合でデュナンは、
・各国に負傷兵救護のための組織を設立すること
・負傷兵は中立であり保護されるべき存在であること
・負傷者と救護者はいずれの側からも保護されること
・戦場での救援活動のために義勇軍を活用すること
・法的に拘束力のある国際条約を制定し、それを運用する国際組織を設立すること
・現場の医療従事者は赤い十字のついた白い腕章を着用すること
などの提案をまとめます。
シンボルマークとなった赤十字(Red Cross)は、提唱者デュナンを含む5人委員会の祖国でもあり中立国でもあるスイスの国旗の赤白を反転させたものです。
翌1864年、スイス政府はヨーロッパのすべての国とアメリカ・メキシコ・ブラジルを招き、上記の提案を成文化した「赤十字条約」とも呼ばれるジュネーヴ条約(First Geneva Convention)を締結します。またの名を「傷病者の状態改善に関する第1回赤十字条約」とも呼ばれます。
ジュネーヴ条約締結の直後から、各国で次々と負傷兵救護の組織が設立されます。ジュネーヴ条約に加盟する国は増え続け、数年のうちにヨーロッパのほぼすべての国で救護組織が設立されます。

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第1次ジュネーヴ条約の原本(2005年撮影)
署名の横に赤い蝋で印章が押印されている
By Kevin Quinn, Ohio, US (Flickr) [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons

1876年、負傷兵救済国際委員会は名称を「赤十字国際委員会(ICRC: International Committee of the Red Cross)」と改めます。
1881年にはアメリカでもアメリカ赤十字社(American Red Cross)が設立されます。
その間もいくつか武力紛争がありましたが、戦場でも赤十字の活動は尊重され、ジュネーヴ条約が守られます。
日本でも西南戦争時の1877年(明治10年)に設立された博愛社(Philanthropic Society)が前身となり、日本がジュネーヴ条約に加盟した翌年の1887年(明治20年)に日本赤十字社(Japanese Red Cross Society)が設立されます。

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第一次大戦時の赤十字の広告(1917年のポスター)
Albert Herter [Public domain], via Wikimedia Commons

赤十字の印はスイス国旗の色を反転させたものです。初期のジュネーヴ条約の加盟国はほとんどキリスト教諸国でしたので特に問題ありませんでした。しかしイスラム教を信じる人々はこれに反発します。十字はキリスト教の象徴であり、十字軍(Crusade)を連想させるからです。イスラム世界の唯一の独立国にして強国だったオスマン帝国(Ottoman Empire)は、1876年に新しく白地に赤い三日月のマークを制定し、同国の救護部隊は今後これを使用することをスイス政府に通告します。このマークは赤新月せきしんげつ(Red Cresent)と呼ばれます。赤十字国際委員会は世界同一のマークを使用することを重視しますが、オスマン帝国は赤新月の使用を条件に加入します。
その後に独立したイスラム諸国のほとんどが赤新月のマークを使用して、赤新月社を設立します。

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赤十字の旗と赤新月の旗(2005年撮影)
By w:User:Julius.kusuma (Own work) [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

さらに、1922年に王政当時のイランがイラン赤獅子太陽社(Red Lion and Sun Society of Iran)を設立し、白地に赤獅子太陽を公式に採用します。また1930年にイスラエルの赤ダビデの星社(Red Star of David)が白地に赤いダビデの星(ダビデの赤盾)を使用します。赤新月の使用は公式に認めた赤十字国際委員会ですが、それ以上のマークの乱立を防ぐため赤獅子太陽やダビデの赤盾は正式に認めません。そして2005年に、赤十字国際委員会は赤十字・赤新月に代わる宗教的に中立な第三の標章である「レッドクリスタル(Red Crystal)」を正式採用します。 日本語では「赤水晶」「赤菱」などとも呼ばれます。
赤十字や赤新月、レッドクリスタルは負傷兵の救護だけでなく災害被災者の救助の象徴にもなり、さらには病院や医療の象徴としても世界中で使われています。日本でもそうですよね。


デュナンは赤十字の活動を立ち上げた後、やや不幸な人生を送ります。
ジュネーヴ条約が締結された翌年の1865年、デュナンが理事を務めていたジュネーヴ銀行が倒産します。さらに同じ頃、アルジェリアで始めていた事業が失敗し、デュナンは株主たちから訴訟を起こされて5人委員会を辞職せざるを得なくなります。
1867年、辞職したデュナンはジュネーヴを去り、裁判所から破産を宣告されて消息を絶ち、世間からすっかり忘れ去られてしまいます。かなり生活に困ったとも言われています。
しかし、一つの逸話が残っています。1870年、フランスとプロイセンとの間で戦争が勃発します。普仏戦争(Franco-Prussian War)です。デュナンはフランス赤十字の人たちと共に戦場に向かいます。戦場でデュナンは負傷兵を小舟に乗せて、川の下流の安全な場所へ移送しようとします。両軍は激しい戦闘の最中でしたが、デュナンが舟の舳先で赤十字の大きな旗を両手で支えて左右にゆっくりと降るとプロシア軍からの銃撃もやみ、負傷兵たちは安全に後方へ運ばれます。両軍が赤十字の理念を理解し、尊重したのです。

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普仏戦争で負傷者を救護する人たち(1871年頃の絵画)
「慈悲の姉妹(Sisters of Mercy)」という別団体だが赤十字をつけている
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

デュナンは59歳の頃に健康を損ない、スイス北東部のハイデン(Heiden)という小さな町に移り住みます。デュナンはハイデンの赤十字社の創設に関わった後に、病院の一室で療養生活に入ります。
1895年、東スイスの新聞オストシュヴァイツ紙(Die Ostschweiz)の編集者がデュナンのもとを訪れて、デュナンの功績と近況を記事にします。デュナンは再び脚光を浴びます。
そして1901年、デュナンは第1回ノーベル賞でノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)を受賞します。73歳の頃のことです。

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ノーベル賞受賞時のアンリ・デュナン(1901年撮影)
By Time Life Pictures [Public domain], via Wikimedia Commons

“All are brothers.”
人類みな兄弟。

ソルフェリーノの戦場で負傷者を敵味方なく救護した情熱の人アンリ・デュナン。
赤十字の父と呼ばれているデュナンは、その以前にはYMCAの国際組織設立にも深く関わっていました。
短期間にこれほど大きな功績を残したデュナンの行動力は目覚ましいものがあります。
1910年、デュナンはハイデンの病院で静かに息を引き取りました。82歳でした。高額なノーベル賞の賞金にはほとんど手がつけられていませんでした。デュナンの遺言によって賞金はハイデンの病院で貧しい人のための無料の病床を運営するために使われ、残りはスイスとノルウェーの赤十字社に寄贈されました。
デュナンが設立に貢献した赤十字国際委員会(ICRC)は、第一次大戦が始まった1914年と第二次世界大戦下の1944年、そして設立百周年の年にあたる1963年の3度、ノーベル平和賞を受賞しました。
デュナンの誕生日である5月8日は、世界赤十字・赤新月の日(World Red Cross and Red Crescent Day)とされています。


【動画】“Henry Dunant - The Red Cross_3min (アンリ・デュナン - 3分で見る赤十字)”, by Dominique othenin girard, YouTube, 2013/04/17

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。


【動画】“The red cross, red crescent and red crystal. What do they mean? In one word: protection. (赤十字と赤新月と赤水晶。どんな意味? 一言でいうと保護のため)”, by International Committee of the Red Cross (ICRC), YouTube, 2017/04/24

【関連記事】第246回:“For the greatest benefit to mankind.”―「人類への最大の利益のために」(アルフレッド・ノーベル), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2015年10月12日
【関連記事】第493回:“Nursing is an art.” ―「看護とは芸術です」(ナイチンゲール), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2018年01月24日
【関連記事】第167回:“Fly, thought, on golden wings.”―「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」(ヴェルディ), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2014年01月25日
【関連記事】第98回:“?”―「(本の売れ行きは?)」(ビクトル・ユーゴー), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年09月26日
【関連記事】第268回:“Bah, humbug!”―「ふん、くだらん!」(スクルージ)(ディケンズ『クリスマス・キャロル』より), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2015年12月23日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“A MEMORY OF SOLFERINO (『ソルフェリーノの思い出』)”[PDF], by Henry Dunant, International Committee of the Red Cross
【参考】“赤十字の父 アンリー・デュナン”[PDF], 青少年赤十字指導用教材, 日本赤十字社 (光村図書出版株式会社の小学校5年生用国語教科書『国語五上 銀河』より転載)
【参考】“Red Cross marks battle anniversary (『赤十字社が戦いの記念日に注目』)”[PDF], by Imogen Foulkes, BBC News, 27 June 2009
【参考】“赤十字のおこり”, 日本赤十字社
【参考】“赤十字社を創設したアンリ、その名言 「なぜ、敵も味方も助けるのか?」「人類は皆兄弟だからだ」”, by 長月七紀さん, その日、歴史が動いた 欧州, 日本初の歴史・戦国ポータルサイト BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン), 2016/06/24
【参考】“SAVIORS IN HISTORY: JEAN HENRY DUNANT (歴史上の救済者:ジャン・アンリ・デュナン”, by Aghavni Yeghiazaryan, THE AURORA PRIZE
【参考】“「赤十字の父」アンリ・デュナン”, by 里信邦子, SWI swissinfo.ch, 2009-05-08
【参考】“赤十字の父 アンリ・デュナンの栄光と転落”, by 黒澤里吏, ONLINEジャーニー, 2013年8月1日
【参考】“The red cross, red crescent and red crystal. What do they mean? In one word: protection (赤十字と赤新月と赤水晶。どんな意味? 一言でいうと保護のため)”, International Committee of the Red Cross, 25 APRIL 2017

【動画】“Henry Dunant - The Red Cross_3min (アンリ・デュナン - 3分で見る赤十字)”, by Dominique othenin girard, YouTube, 2013/04/17
【動画】“The red cross, red crescent and red crystal. What do they mean? In one word: protection. (赤十字と赤新月と赤水晶。どんな意味? 一言でいうと保護のため)”, by International Committee of the Red Cross (ICRC), YouTube, 2017/04/24

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posted by ジム佐伯 at 07:00 | ロンドン ☁ | Comment(2) | 戦争と平和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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この記事へのコメント
のざわさん、こんにちは。ジム佐伯です。コメントありがとうございます。そしていつもブログをご覧になって頂きありがとうございます。デュナンはクリミア戦争でのナイチンゲールの活躍も称賛し、大きな影響を受けたそうですね。一方のナイチンゲールは敵味方なく負傷者を保護するデュナンの理念には賛同しつつも、奉仕に頼る活動は長続きしないとして赤十字とは一定の距離をとったそうです。コメントとても励みになります。これからもよろしくお願い致します。
Posted by ジム佐伯 at 2018年02月04日 05:23
ジム佐伯様、大変興味深く拝読させていただきました。中学の頃JRCという活動があったと思います。中学に勤めた頃にはありました。これがアンリ・デュナンの提唱したものなのですね。YMCAという組織もデュナンなのですね。デュナンも子ども向けの伝記で必ずある本ですね。人類は皆兄弟という言葉通り、みんな仲良くできたらいいです。教会では兄、姉を敬称に使っています。一つの家族のようになれたらいいなという願いがあります。デュナンは女、子どもが大切な働きをするということに早くも気付いたとのことですね。教会でも女性の活躍が近年目覚ましくなりました。女性の自覚と男性のバックアップあってこそです。女性は戦いを嫌い、和を尊ぶところがとても重要な人間性だと思います。
Posted by のざわ at 2018年02月02日 20:06
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