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2017年11月09日

第474回:“As far as I know - immediately.” ―「私の知る限りでは、今すぐにです」(ギュンター・シャボウスキー)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。



第474回の今日はこの言葉です。
“As far as I know - immediately.”

「私の知る限りでは、今すぐにです」
という意味です。これはかつての東ドイツの政治家、ギュンター・シャボウスキー(Günter Schabowski, 1929-2015)の言葉です。
あまり有名ではありませんが、世界の歴史にものすごく大きな影響を与えた人物です。
「今すぐに」というのはいったい何のことなのでしょうか。

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ギュンター・シャボウスキー(1982年撮影)
Bundesarchiv, Bild 183-1982-0504-421 / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons

ギュンター・シャボウスキーは1929年にヴァイマル共和制下のドイツ北西部のポンメルン地方に生まれます。英語でポメラニア(Pomerania)とも呼ばれ、犬種のポメラニアンの原産地でもあります。
第一次世界大戦(World War I, 1914-18)で英仏を中心とする連合軍に敗北したドイツ帝国(German Empire)は、戦後まもなくドイツ革命(German Revolution, 1918-19)で崩壊します。革命で成立したヴァイマル共和国(Weimar Republic)は1919年に憲法を定めます。民主的な中央集権国家を目指したヴァイマル憲法(Weimar Constitution)は基本的人権を世界で初めて明確に記載した先進的なものです。しかし敗戦の結果としてヴァイマル共和国は領土を削られ、戦勝国に巨額の賠償金の支払義務を押しつけられます。経済は混乱してハイパーインフレが進行し、物価は戦前の2万5000倍にも急騰します。必死の経済政策によってハイパーインフレは何とか終息しますが、1929年から進行した世界恐慌(world economic crisis)によってドイツ経済はとどめを刺され、崩壊します。1933年のドイツの失業率は44%に達します。
シャボウスキーは、そんな大変な時代のドイツに生まれたのです。

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1923年のハイパーインフレ時に建設された「世界一高額な橋」
(「建設費1520兆マルク」と書かれている)
By ReinerausH (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

そんな混乱の中で勢力を伸ばしたのがアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が率いるナチ党(Nazi Party)と呼ばれる国家社会主義ドイツ労働者党(National Socialist German Workers' Party)です。1932年、ナチ党はドイツ国会の選挙で第一党となり、翌1933年にヒトラーは首相に任命されて政治の実権を握ります。首相就任直後にヒトラーは全権委任法(Enabling Act of 1933)を議会に通し、政府が無制限の立法権を手にします。ヴァイマル共和制は崩壊し、ナチスが支配する第三帝国(The Third Reich)の時代が始まります。
ユダヤ人の排斥運動がエスカレートしてホロコースト(The Holocaust)と呼ばれる大量虐殺(genocide)の悲劇があったのもこの時代です。

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アドルフ・ヒトラー(1933年撮影)
Bundesarchiv, Bild 146-1990-048-29A / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons

1939年、ドイツ国防軍は突如ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦(World War II, 1939-1945)が始まります。ドイツ軍はたちまちヨーロッパを席捲し、1940年にデンマークとノルウェーを占領、オランダやベルギー、フランスも降伏します。ダンケルクから軍を撤退させたイギリスは激しい空襲を受けながらも抵抗し、反抗の機会を探ります。1941年6月、ドイツ軍は突如ソ連へも侵攻します。400万の兵力を動員した空前の大作戦です。当初は順調に進撃したドイツ軍ですが、モスクワに迫った頃からソ連軍の焦土戦術と冬将軍の到来に悩まされ、ソ連軍の反抗作戦により甚大な被害を受けます。

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モスクワへ向けて侵攻するドイツ軍の戦車(1941年12月撮影)
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

1944年6月、アメリカ軍とイギリス軍を中心とする連合軍はフランスのノルマンディー海岸に大軍を上陸させて西部戦線の構築に成功します。ドイツ軍は東のソ連軍と西の米英軍との二正面作戦を余儀なくされ、敗色が濃厚になります。1945年の春にドイツの首都ベルリンは連合軍に包囲され、ヒトラーはピストルで自殺、ドイツ軍は連合軍に無条件降伏します。枢軸国側で戦っているのは日本軍だけとなります。その日本も8月にポツダム宣言(Potsdam Declaration)を受諾して降伏し、第二次世界大戦は終結します。

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ノルマンディーのオマハ・ビーチに上陸するアメリカ海兵隊
By Chief Photographer's Mate (CPHOM) Robert F. Sargent, U.S. Coast Guard [Public domain], via Wikimedia Commons

戦後ドイツは連合国の米・英・仏・ソの4ヶ国によって分割占領されます。しかし米ソは次第に戦後処理や占領政策などで対立するようになります。その影響で1949年にドイツは東西に分割され、米英仏の占領地からなるドイツ連邦共和国(西ドイツ, Federal Republic of Germany / West Germany)とソ連の占領地からなるドイツ民主共和国(東ドイツ, German Democratic Republic / East Germany)が建国されます。
ベルリンは東ドイツの領域内にありましたが、首都として4ヶ国に分割占領されていたため東西ベルリンに分割されます。西ベルリンは東ドイツ領内の西ドイツの飛び地のような状態になります。
朝鮮半島は38度線の南北で米・ソに分割占領された結果、朝鮮戦争を経て今も韓国と北朝鮮に分断されています。日本もアメリカの単独占領ではなく米・英・中・ソの4ヶ国による分割占領(東京は4ヶ国共同占領)が検討されていました。もしそうなっていたら日本も分断国家となっていたかもしれません。

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4ヶ国に分割占領されたドイツ(1947年6月-49年4月)
緑:イギリス占領地
青:フランス占領地
黄:アメリカ占領地
赤:ソ連占領地(ベルリンはさらに4ヶ国で分割統治)
1949年に米英仏の占領地が西ドイツ、ソ連の占領地が東ドイツとなった。
By WikiNight2 [GFDL], via Wikimedia Commons

これ以降、世界は西側諸国(主に資本主義諸国)と東側諸国(主に社会主義諸国)に別れ、米ソ2つの超大国は両陣営の盟主として激しく対立します。ヨーロッパだけでなくアジアやアフリカ、中東や中南米でも両陣営の対立が生まれ、非同盟諸国を除いて世界は二分されます。米ソは直接戦火は交えないものの、東西陣営間での人やモノの交流は限定され、お互いを激しく非難したり牽制したりします。冷戦(cold war)の始まりです。

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冷戦時代の世界の様子(1959年当時, Wikipediaより)
青:北大西洋条約機構(NATO)、空色:NATO以外のアメリカ寄りの西側諸国、
ワインレッド:ワルシャワ条約機構(WTO)、ピンク:WTO以外のソ連寄りの東側諸国、
灰色:非同盟諸国、薄緑:植民地

By Sémhur [GFDL or CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

念のため言っておきますが、ギュンター・シャボウスキーはナチス・ドイツにもホロコーストにも冷戦にも何の責任もありません。そんな時代に生まれ育ったという時代背景として書いてきました。
そして東西ドイツが分裂した時、ギュンター・シャボウスキーはライプツィヒ大学(Leipzig University)でジャーナリズムを学んでいます。そして彼自身の意向にかかわらず東ドイツの住民となります。このように、ドイツの人は終戦時にたまたま住んでいた場所によって東西ドイツの国籍が決まり、運命が大きく分かれていくことになるのです。
大学を卒業したシャボウスキーは労働組合の機関紙「トリビューン(Tribüne)」の編集の仕事につきます。そして1952年、シャボウスキーはドイツ社会主義統一党(Socialist Unity Party of Germany)の党員となります。東ドイツを実質的に一党独裁で支配する政党です。

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若き日のシャボウスキーと見られる人物(1951年撮影)
Deutsche Fotothek‎ [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons

1961年、東ドイツから西ベルリンを通って西ドイツへ亡命する人々の数が増え、東ドイツとソ連は住民流出を防ぐために西ベルリンを囲むように「ベルリンの壁(Berlin Wall)」を建設します。西ベルリンは、空路と直通の高速道路(アウトバーン)、そして途中停車しない鉄道でのみ西ドイツと行き来できるようになります。
そしてベルリンの壁は東西冷戦の象徴となります。壁の外側には無人地帯が設けられ、人が通行できないよう厳重に監視されます。東ベルリンの住民が壁を乗り越えて西側へ逃亡しようとして無残に射殺される悲劇も何度も発生します。

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建設中のベルリンの壁(1961年撮影)
By National Archives [Public domain], via Wikimedia Commons

1967年から1968年にわたって、シャボウスキーはソ連共産党の教育機関に派遣されます。東側諸国の盟主であるソ連に駐在するのはエリートの証です。そして1978年には党の機関紙「新しいドイツノイエス・ドイチュラント(Neues Deutschland)」の編集長となります。
1981年にシャボウスキーは党の中央委員会の委員と人民議会議員となります。そして1984年には党の中央委員会の政治局員に昇格し、さらに1985年に党のベルリン地区委員会の書記長となります。
当時の東ドイツの最高指導者は党書記長のエーリッヒ・ホーネッカー(Erich Honecker)です。シャボウスキーはホーネッカーの有力な後継者候補の一人と言われるようになります。

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エーリッヒ・ホーネッカー(1986年撮影)
Bundesarchiv, Bild 183-1986-0421-044 / Mittelstädt, Rainer / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons

この頃から、東側陣営の盟主であるソ連が経済危機に伴う国力の低下によって東ヨーロッパでの影響力を弱めます。東側諸国の市民は自由を求めて民主化運動をするようになります。
1989年5月、東側陣営の一員だったハンガリーがオーストリアとの国境を開放し、その後民主化します。また6月にはポーランドが戦後初の自由選挙を行い、民主化を達成します。
そんな中、1989年8月にハンガリーのショプロン(Sopron)というオーストリア国境に面した町に集まった1000人ほどの東ドイツ国民が、ピクニックと称して中立国のオーストリアに越境して西側諸国へ亡命します。「汎ヨーロッパ・ピクニック(Pan-European Picnic)」と呼ばれた事件です。
病気療養中だったホーネッカー書記長はハンガリーに強く抗議して亡命者たちの強制送還を求めますが、ハンガリー政府は応じません。

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ハンガリーとオーストリアの国境を超える東ドイツ市民(1989年)
By Wik1966total (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

ハンガリーは9月に、東ドイツ市民のオーストリアへの出国を正式に認めるようになります。これによってベルリンの壁の意味はほとんどなくなります。ホーネッカーはあわててハンガリーへ向かう経路となるチェコスロバキア(当時)との国境を閉鎖します。
ホーネッカーは東欧最強と言われた秘密警察を使うなどして国内の締め付けをはかります。しかし市民たちの民主化を求めるデモが激化します。また、ソ連の最高指導者であるミハイル・ゴルバチョフ書記長(Mikhail Gorbachev)「ペレストロイカ(Perestroika)」という改革路線を進めるのに対して、ホーネッカーは強硬路線を変えようとせず、ゴルバチョフから愛想を尽かされます。

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ミハイル・ゴルバチョフ(1987年撮影)
RIA Novosti archive, image # / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

そして1989年10月、政治局会議で更迭動議が可決され、ホーネッカーは失脚します。後任には国家評議会副議長のエゴン・クレンツ(Egon Krenz)が党書記長と国家評議会議長に就任します。
シャボウスキーはクレンツと共にホーネッカー解任に向けて動いたと言われています。ソ連のゴルバチョフ書記長から「行動したまえ」と示唆があったとか、更迭動議の前後にも頻繁にソ連幹部と連絡をとって指示を仰いだとかという話が伝えられています。シャボウスキーはクレンツに次ぐ東独ナンバー2の座につきます。

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エゴン・クレンツ(1984年撮影)
Bundesarchiv, Bild 183-1984-0704-400 / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons

東ドイツの新たなリーダーとなったクレンツは、一党独裁体制を維持したまま穏やかな民主化をはかろうとします。しかし国民は納得せず、支持が得られません。クレンツはもともとホーネッカー子飼いの腹心の部下。恩人を見限った裏切り者というイメージもついてしまい、国民はおろか党員の信頼さえ得られない状態です。
党書記長就任の翌日にはドレスデンで1万人のデモが発生し、さらに3日後にライプツィヒで30万人のデモが発生します。
さらに10日ほど後の11月4日には首都東ベルリンの中心街にあるアレクサンダー広場プラッツ(Alexanderplatz)で100万人規模の反政府デモが発生し、クレンツは窮地に立ちます。この時シャボウスキーは政府の報道官として群集の前に立ち、国民への説明と説得にあたります。

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アレクサンダー広場のデモで群集に説明するシャボウスキー
(1989年11月4日撮影)
Bundesarchiv, Bild 183-1989-1104-041 / Link, Hubert / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons

東ベルリンのデモの5日後の11月9日、早急な民主化を求める国民の声に応じて、外国旅行を自由化する政令が決議されます。そしてその日の夕方、シャボウスキーらは記者会見を開いて同政令の内容を発表します。記者会見は生中継で東ドイツ全国に放送されます。
この政令は旅行ビザの発給を大幅に緩和すること、その上で東西ベルリンを含むすべての国境の通過を認めるというものです。それでもビザが必要ですので真の旅行自由化ではありません。しかも、政府はデモを主導する一部の不満分子を国外追放して再入国させないという裏の狙いも持っています。
しかし、シャボウスキーは会議を途中退席していたため議事の詳細を把握しておらず、クレンツから渡されたメモについても十分な説明を受けていませんでした。

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シャボウスキーらが旅行自由化を発表する記者会見
(壇上向かって右から2番目がシャボウスキー)
(1989年11月9日撮影)
Bundesarchiv, Bild 183-1989-1109-030 / Lehmann, Thomas / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons

シャボウスキーはメモを目で追いながら、「ベルリンの壁を含むすべての国境通過点から出国が認められる」と発表します。さらにシャボウスキーは、いつから認められるのかという質問に対して、次のように答えます。
“Das tritt nach meiner Kenntnis … ist das sofort … unverzüglich.”
(ダス・トリット・ナッハ・マイナー・ケントニス、イスト・ダス・ゾフォルト、ウンフェアツュクリッヒ)
英語と日本語にすると次のようになります。
“As far as I know − effective immediately, without delay.”
「私の認識では『直ちに、遅滞なく』です」
この回答には3つの誤りがあります。第一に、新しい制度でも出国にはビザが必要であることを伝えていないこと。第二に、規制緩和を開始するのは翌日の10日の早朝4時からなのに、「直ちに」と発表したこと。これは、「直ちにビザを発行する」という文言を見て答えてしまったのだと思われます。そして第三に、この政令はまだ閣議決定されていなかったにもかかわらず、シャボウスキーは閣議決定済みの正式な政令だと勘違いしていたことです。


【動画】“Announcement that DDR border will open (東ドイツ国境開放の発表)”, by alanheath3, YouTube, 2011/09/21

これを聞いた東ベルリンの市民は、今すぐ西側に出国できると信じて東西ベルリンを隔てるベルリンの壁にいくつか設置されている検問所に殺到します。
政府は夜の間に国境警備隊を増員して混乱が起こらないようにするつもりでした。この時点では検問所は手薄な状況でしたが、場所によっては数万の群集が押し寄せます。ある所では群集が殺気立って警備隊員に詰め寄り、またある所では警備隊員の制止を振り切って群集が壁によじ登ります。警備隊員はこれ以上制止したら死亡事故も起きかねないと判断して、検問所を解放します。
壁の建設以来28年ぶりに自由に行き来ができるようになった東西ベルリンの市民は検問所に殺到し、再会を喜び合います。歓喜に湧く群集はいつしか壁によじ登り、ハンマーなどで壁を壊し始めます。その様子は生中継で世界中に放送されます。
東西冷戦の象徴、そして「越えられないもの」の象徴だったベルリンの壁は、こうしてあっけなく崩壊します。
1989年11月9日の夜の出来事です。


【動画】“The Fall of the Berlin Wall (PART 1) - East Germany opens the gates (BBC News 9th November 1989 ) (ベルリンの壁崩壊 - 東ドイツが国境を開放 (1989年11月9日のBBCニュース))”, by RobLittleuk, YouTube, 2011/01/22

翌11月10日、壁の崩壊を祝うために集まる人々はさらに増えます。
ベルリンの中心部を貫く菩提樹の美しい並木道「ウンター・デン・リンデン(Unter den Linden)」の起点であるブランデンブルク門(Brandenburg Gate)の背後で東西を分けていた壁の上には人々がよじ登り、歓呼の声を上げます。どこからか調達された建設機械によって、壁は本格的に取り壊されます。
各国から集まった報道メディアはこの様子を世界中に伝えます。

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ブランデンブルク門近くのベルリンの壁に登る東西ベルリン市民
(1989年11月10日撮影)
Lear 21 at English Wikipedia [GFDL or CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

壁崩壊の翌月、クレンツやシャボウスキーを含む政治局員は全員辞任し、クレンツ政権はわずか2ヶ月で幕を閉じます。社会主義統一党の一党独裁も崩壊し、東ドイツマルクの価値は10分の1に暴落して経済も崩壊します。ホーネッカーら党幹部の不正なども喧伝され、国民の怒りは社会主義そのものの否定につながっていきます。軍や警察の機能も停止しますが、政府は何の手をうつこともできません。こうして東ドイツは国家として存続できなくなり、なし崩し的に西ドイツとのドイツ再統一(German reunification)が実現します。1990年10月3日の出来事です。実質的には西ドイツによる吸収合併です。


【動画】“GERMAN REUNIFICATION *LIVE* CNN,CBS 1990 (ドイツ再統一(生中継) CNN, CBS, 1990年)”, by fairmount1935, YouTube, 2009/09/30

“As far as I know - immediately.”
私の知る限りでは、今すぐにです。

自らの勘違いによる発言が、結果的にベルリンの壁の崩壊とドイツ再統一の引き金となったシャボウスキー。
歴史が過熱して発火点に近づくと、このようにほんの小さな火花の影響が燎原の火のように燃え広がるものなのです。もしかしたら神様があえて歴史を動かすためにシャボウスキーに勘違いをさせたのかもしれません。「歴史上もっとも素晴らしい勘違い」とも言われています。本人もびっくりだったに違いありません。
シャボウスキーはその後も長命し、2015年にベルリンで亡くなります。86歳でした。
今日11月9日はベルリンの壁が崩壊したまさにその日です。28年前の今日の出来事です。


【動画】“A stroke of fate changed history - Germany: Berlin Wall anniversary | Focus on Europe (運命の一撃が歴史を変えた - ドイツ:ベルリンの壁記念日)”, by DW English, YouTube, 2014/11/21

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。


【動画】“「トリビアの泉」ベルリンの壁は勘違いで崩壊した”, by トレビアン, YouTube, 2016/03/13

【関連記事】第405回:“History repeats itself.”―「歴史は繰り返す」(ことわざ、クルティウスほか), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年02月06日
【関連記事】第282回:“It is 3 minutes to midnight.” ―「人類滅亡まであと3分」(世界終末時計), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2016年02月06日
【関連記事】第460回:“I want to go on living even after my death!” ―「死んだ後でも生き続けたい!」(アンネ・フランク), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年09月14日
【関連記事】第131回:“Ask what you can do for your country.”―「君たちが国のために何ができるのかを問うて欲しい」(ケネディ大統領), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年11月24日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“たった一人の勘違いがきっかけで崩壊したベルリンの壁”, by @manpuku_tさん, 雑学情報, 2016/05/26
【参考】“【ベルリンの壁崩壊25周年】ベルリンの壁崩壊は一人の勘違い男によって引き起こされた!?”, by ケイさん, え、まだ知らんの?, 2014年11月9日
【参考】“ベルリンの壁崩壊をめぐる3つの誤解”, by ジェーソン・オーバードーフ, Newsweek日本版, 2014年11月11日
【参考】“ベルリンと冷戦(5)”, by グローバル研究グループ 佐藤 仁 さん, 驚くほどわかりやすい世界史と現代時事!!, 2017/2/4
【参考】“Günter Schabowski, East German who announced Berlin Wall opening, dies (ギュンター・シャボウスキー、ベルリンの壁の解放を発表した東ドイツ人が死去)”, by Geir Moulson, The Washington Post, November 1, 2015

【動画】“Announcement that DDR border will open (東ドイツ国境開放の発表)”, by alanheath3, YouTube, 2011/09/21
【動画】“The Fall of the Berlin Wall (PART 1) - East Germany opens the gates (BBC News 9th November 1989 ) (ベルリンの壁崩壊 - 東ドイツが国境を開放 (1989年11月9日のBBCニュース))”, by RobLittleuk, YouTube, 2011/01/22
【動画】“GERMAN REUNIFICATION *LIVE* CNN,CBS 1990 (ドイツ再統一(生中継) CNN, CBS, 1990年)”, by fairmount1935, YouTube, 2009/09/30
【動画】“Nov. 10, 1989: Celebration at the Berlin Wall (1989年11月10日:ベルリンの壁崩壊を祝う人々)”, by ABC News, YouTube, 2009/11/04
【動画】“A stroke of fate changed history - Germany: Berlin Wall anniversary | Focus on Europe (運命の一撃が歴史を変えた - ドイツ:ベルリンの壁記念日)”, by DW English, YouTube, 2014/11/21
【動画】“「トリビアの泉」ベルリンの壁は勘違いで崩壊した”, by トレビアン, YouTube, 2016/03/13

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posted by ジム佐伯 at 07:00 | ロンドン | Comment(2) | 言葉の一人歩き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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この記事へのコメント
のざわさん、こんにちは。ジム佐伯です。 コメントありがとうございます。そしていつもブログをご覧になって頂きありがとうございます。ドイツの現代史は本当に壮絶ですね。また冷戦後に東西ドイツが再統一された後も相当苦労したようですね。しかし今やドイツはEUの経済を主導するリーダーのような存在となりました。僕はドイツのソーセージやビールが大好きですので、ドイツ出張は毎回楽しみです。デンマークにもいつか行く機会があったら嬉しいです。コメントとても励みになります。これからもよろしくお願いします!!
Posted by ジム佐伯 at 2017年11月13日 05:11
ジム佐伯様、こんばんは。面白い!ベルリンの壁の崩壊に至るまでのことを大変分かり易く読ませていただきました。シャボウスキーの間違いが統一ドイツ誕生の引き金になったとは!私はデンマーク語を学んでいることで、隣国ドイツのことも興味が増している今日この頃です。何歳になっても自分から学ぼうと、飛び込むことが肝心ですね。ネットは最近日本で起きた恐ろしい殺人事件のような一面もありますが、見ず知らずの人とも知的好奇心を満たすためにつながりを持てるのは素晴らしいです。語学がすごく好きな私です。いつも面白い記事を掲載してくださって、ありがとうございます。
Posted by のざわ at 2017年11月11日 23:39
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