スポンサーリンク / Sponsored Link


2017年12月07日

第481回:“In the first six to twelve months I will run wild and win victory upon victory.” ―「初め半年や一年の間はずいぶん暴れてご覧に入れます」(山本五十六)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。



第481回の今日はこの言葉です。
“In the first six to twelve months I will run wild and win victory upon victory.”

「初め半年や一年の間は必ずや大暴れして勝利に勝利を重ねます」
というのが文字通りの意味です。これは、
「初め半年や一年の間はずいぶん暴れてご覧に入れます」
という言葉の英訳です。
これは旧日本海軍の連合艦隊司令長官だった山本五十六(Isoroku Yamamoto, 1884-1943)の言葉です。太平洋戦争(Pacific War, 1941-1945)の戦端を開いた真珠湾攻撃(Perl Harbor Attack)を立案し、司令長官として指揮実行した人物として知られています。

0481-yamamoto-isoroku.jpg
山本五十六(1942年頃撮影)
By 「画報躍進之日本」 [Public domain], via Wikimedia Commons

1884年(明治17年)、五十六は新潟の長岡で旧越後長岡藩士の六男として生まれます。父である高野貞吉さだよしが56歳の時の子供でしたので、貞吉は息子に「五十六いそろく」と名付けます。このユーモアセンスは尋常ではないと思います。
高野五十六は旧制長岡中学を卒業して海軍兵学校(Imperial Japanese Naval Academy)を希望し、1901年(明治34年)に海軍兵学校32期として200名中2番で入校し、3年後の1904年(明治37年)に192名中22番で卒業します。日露戦争(Russo-Japanese War、1904-1905)が開戦して間もない頃です。
1905年(明治38年)には少尉候補生として装甲巡洋艦「日進(Nisshin)」に配属され、同年5月の日本海海戦(Battle of Tsushima)に参加します。この海戦で五十六は砲弾の炸裂により左手の中指と人差し指を失い、左の腿にも重症を負います。五十六が21歳の時のことです。

0481-isorokuyamamoto1905.jpg
高野五十六(1905年撮影)
By Marcus Cyron [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons

戦後も五十六は数々の軍艦に配属されて艦隊勤務を続けながら、並行して海軍砲術学校で16ヶ月、海軍水雷学校で4ヶ月の教育を受けます。
1914年(大正3年)、欧州で第一次世界大戦(World War I, 1914-1918)が勃発します。日本は日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)にもとづいてドイツ帝国に宣戦を布告して連合国の一員として参戦します。
この年に五十六は海軍大学校(Naval War College)へ進学します。
そして1916年(大正5年)、五十六は故郷長岡藩の上席家老だった山本帯刀たてわきの山本家の家督を相続し、山本姓となります。
同じ年の暮れに山本は海軍大学校を卒業します。
そして翌1917年(大正6年)、山本は知人の紹介で旧会津藩士の娘の三橋みはし禮子れいこと結婚します。山本が33歳の時のことです。

0481-yamamoto_wedding_photo.jpg
山本五十六と禮子(1917年撮影)
By photograper is unknown (父 山本五十六(山本義正 , 朝日文庫)) [Public domain], via Wikimedia Commons

1919年(大正8年)、山本はアメリカ駐在を命じられ、ハーバード大学(Harvard University)に2年間留学します。アメリカの地で山本はその巨大な国力を目の当たりにします。山本は特にアメリカの石油産業や自動車産業、航空産業に強い印象を受けたようです。また海軍航空開発の第一人者だった上田良武大佐がちょうど同じ時期に海軍武官として駐在しており、彼の影響もあって山本は航空に着目するようになります。
1921年(大正10年)にアメリカの首都ワシントンDCでワシントン海軍軍縮条約(Washington Naval Treaty)が締結されます。山本が直接関わらなかったこの条約で、英国・米国・日本の主力艦の比率は5:5:3と決められます。日本の主力艦は対英米で6割に制限されますが、当時の比率はそれより低かったためこの条約で最も得をしたのは日本、最も犠牲を払ったのは英国だと言われます。またこの会議で米英仏日で締結された四カ国しかこく条約(Four-Power Treaty)が成立したため、日英同盟は満期を迎えても更新されず、2年後に失効します。

0481-washington_navan_treaty_cropped.jpg
ワシントン軍縮会議(1921年)
Photo by Unknown, cropped by Jim Saeki in 2017 [Public domain], via Wikipedia

1924年(大正13年)、山本は希望して砲術から航空へ転科し、霞ケ浦航空隊へ配属されます。自ら飛行機の操縦を学び、部下たちからの厚い信頼も獲得します。
1925年(大正14年)、山本は日本大使館付の駐在武官となり、再びアメリカに赴任します。山本は留学時代も含めて合計5年近く米国に駐在します。駐在武官はアメリカの軍や政府の高官とも交流が多いですから、山本はアメリカの国力や指導者たちの考え方を日本で最も知り尽くしている第一人者となります。

0481-h78628_isoroku_yamamoto.jpg
駐在武官時代の山本五十六
右はアメリカ政府の海軍長官カーティス・ウィルバー(Curtis Wilbur)
By Photographed at the Navy Department, Washington, DC [Public domain], via Wikimedia Commons

1928年(昭和3年)、帰国した山本は就役したばかりの多段式航空母艦「赤城(Akagi)」の艦長となります。ワシントン軍縮条約の結果、未完成の巡洋戦艦から空母に改装された赤城です。山本は着艦に失敗しそうになった飛行機に自ら飛びついて飛行甲板から落ちるのを防いだり、航空搭乗員が禁煙を命じられた際に「君たちばかりに止めてはおかぬ」と自らも禁煙してそれ以来喫煙をきっぱりやめたりという逸話が残っています。

0481-japaneseaircraftcarrierakagi3deck_cropped.jpg
三段空母として完成し公試中の赤城(1927年撮影)
後に一段全通式空母に改装される。
By JapaneseAircraftCarrierAkagi3Deck.jpg: English: Sabishio(?) Yagi 日本語: 八木 淋男 derivative work: 0607crp (JapaneseAircraftCarrierAkagi3Deck.jpg) [Public domain], via Wikimedia Commons

1929年(昭和4年)、海軍少将に昇進した山本はロンドン海軍軍縮会議(London Naval Treaty)の全権委員の次席随員として渡英します。1929年といえばアメリカの株価暴落に端を発した世界恐慌(world economic crisis)が始まった年です。
ロンドン軍縮会議はワシントン海軍軍縮条約の内容修正を話し合うもので、対米英6割に抑えられた日本の主力艦保有量を引き上げるチャンスです。山本は自らに交渉権はありませんでしたが強硬に対米7割を主張し、予備交渉は紛糾します。年を越して1月と4月に本交渉が行われ、アメリカから妥協案として対米6.975割の線を引き出します。重巡洋艦保有量は対米6割のままであり、潜水艦保有量も十分ではないとして、山本は調印に反対しますが、結局日本政府は条約に調印します。

0481-london_naval_conference_1930.jpg
ロンドン軍縮会議へ向かうアメリカ代表団(1930年撮影)
By Admiral William V. Pratt (Naval Historical Foundation) [Public domain], via Wikimedia Commons

第一次世界大戦の戦闘記録をもとにイギリスの技術者フレデリック・ランチェスター(Frederick Lanchester)が1914年に発表した「ランチェスターの法則(Lanchester's laws)」という戦闘の数理モデルがあります。その第2法則によると、海戦などの広い戦場での戦いでは部隊の戦闘力は「武器性能」×「兵員数の2乗」に比例するとされています。「兵力二乗の法則」です。従って対米7割の海軍では武器性能が互角なら0.7×0.7=0.49で約半分の戦闘力となり、武器性能や練度や士気でなんとか挽回できるギリギリのラインです。しかし対米6割の海軍では0.6×0.6=0.36。ここまで差がついてしまったらいくら訓練を積んで士気を高めてもどうしようもありません。
山本は不利な条約のもとでどう戦うか研究し、まず航空兵力で敵戦力を叩いて数を減らしてから艦隊決戦をしようと考えるようになります。そして航空主兵論をさらに熱心に推進するようになるのです。

0481-thinktank_birmingham_lanchester_f(1).jpg
フレデリック・ランチェスター
By Birmingham Museums Trust (Birmingham Museums Trust) [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons

当時の海軍では、条約妥結をやむを得ないとする主に海軍省を中心とする「条約派(Treaty Faction)」と、それに反対する主に軍令部を中心とする「艦隊派(Fleet Faction)」という二大派閥がありました。
山本は不利な条約の締結に徹底して反対したため「艦隊派」と見られており、その後の出世の一因となります。しかし山本はバリバリの航空主兵論者となっています。強いて言えば「航空派(Aviation Faction)」といったところでしょうか。

0481-nakajima_a1n.jpg
中島飛行機製の三式艦上戦闘機
1929年(昭和4年)に制式採用された。
1932年(昭和7年)の第一次上海事変で日本航空隊で初めて敵機を撃墜した。
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

日本がロンドン軍縮条約に批准したちょうど半年後、1930年(昭和5年)に山本は海軍航空本部(Imperial Japanese Navy Aviation Bureau)の技術部長となり、未熟だった日本海軍の航空機の発展に尽力します。山本は海軍の航空機の条件として「国産」「全金属」「単葉機」の3つを挙げ、技術者たちはそれを実現しようと血のにじむような努力をします。またその条件を満たすことによって着艦距離が伸びた場合でも、空母の飛行甲板を長くせよと山本は指示します。これによって日本海軍の航空戦力は一気に近代化して世界のトップレベルに近づきます。

0481-kyushi_tanza_sentoki.jpg
三菱航空機製の九試きゅうし単座戦闘機(九試単戦)
1935年(昭和10年)に試作。宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』(2013年)にも登場する。
海軍初の全金属単葉戦闘機である九六きゅうろく式艦上戦闘機のベースとなった。
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

大陸では1931年(昭和6年)に関東軍(Kwantung Army)南満洲鉄道(The South Manchuria Railway Co., Ltd.)の施設を爆破する柳条湖事件(Liutiaohu Incident)をきっかけにわずか5か月の間に満州全土を占領します。満州事変(Mukden Incident)です。
翌1932年(昭和7年)、満州は関東軍の指導のもとに満州国(Manchukuo)として独立を宣言します。実質は日本の傀儡国家です。各国はこれを認めなかったため、1933年(昭和8年)に日本は国際連盟(League of Nations)を脱退して孤立を深めます。

0481-mukden_1931_japan_shenyang.jpg
満州事変の際に瀋陽に入城する関東軍(1931年撮影)
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

1934年(昭和9年)、山本は第二次ロンドン海軍軍縮会議(Second London Naval Treaty)の予備交渉の海軍側首席代表として渡英します。海軍中将となったのもこの頃です。米英の狙いは過去の既存条約の維持ですが、日本政府の提案はなんと「戦艦、空母、重巡洋艦などの攻撃的艦種の全廃」です。これは軍縮提案としては画期的です。山本は列強の交渉団と互角に渡り合いますが、各国が飲むわけがありません。しかしそもそもこの提案は実は会議の決裂を日本政府が意図したもので、ワシントン軍縮条約の破棄も政府決定済みだったのです。結局予備交渉は中断し、山本は帰国します。山本は日本の対外強硬論への不満と苛立ちを抱き、自分が政治的に利用されたことも「実に不愉快」と語り、軍縮会議の本交渉への参加を辞退します。結局日本はワシントン軍縮条約の破棄を通告した上でロンドン軍縮会議からも脱退します。これがきっかけでロンドン条約の制限は緩められて両条約は実質的に失効し、世界は制限なき建艦競争の時代に突入します。
翌年山本は海軍航空本部長に就任します。陸海軍の航空隊を一本化する空軍独立化の案に対しては、陸軍が主導権を握ると懸念した山本は強硬に反対します。また、ポスト条約時代の建艦競争の中で海軍が超巨大戦艦「第一号艦」(後の戦艦「大和(Yamato)」)の建造を計画した時にも、山本は強硬に反対を唱えます。

0481-yamato_battleship_under_cunstruction.jpg
呉海軍工廠で建造中の超巨大戦艦「第一号艦」(1941年撮影)
(後の戦艦「大和」)
By Kure Naval Base [Public domain], via Wikimedia Commons

1936年(昭和15年)、山本は海軍次官に就任します。海軍官僚のトップで海軍大臣に仕える軍政のナンバー・ツーです。ちょうど日独防共協定(Anti-Comintern Pact)が成立した頃のことです。ドイツではアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)率いるナチ党(Nazi Party)が政権を握り、独裁体制を固めながら再軍備を宣言します。
翌1937年(昭和16年)、当時「北支」と呼ばれていた華北に駐屯していた日本軍と中国国民党軍との軍事衝突が発生します。盧溝橋ろこうきょう事件です。これが日中両軍による全面戦争に発展し、当時「支那事変」と呼ばれた日中戦争 (Second Sino-Japanese War, 1937-1945)が始まります。日本は各都市を攻略しますが中国軍は奥地に拠点を移して抗戦し、ソ連や米英が中国を支援したこともあって戦争は長期戦となり泥沼化します。

0481-one_unit_of_the_japanese_army_in_china.jpg
日中戦争における大陸前線での日本陸軍の一部隊
(1938-1945年頃撮影)
By Unknown (https://freeweibo.com/weibo/re:3576623808697775) [Public domain], via Wikimedia Commons

1939年(昭和14年)8月、ナチス・ドイツが突然ポーランドに侵攻します。これがきっかけで第二次世界大戦 (World War II, 1939-1945)が始まります。ドイツはまたたく間にデンマーク、ノルウェー、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを攻略し、電撃的にフランスへも侵攻します。翌年6月にフランスはドイツに降伏し、ヨーロッパの大部分はドイツの支配下となります。
同じ頃、山本は連合艦隊の司令長官に就任します。司令長官の任務は当時の第一の仮想敵国だったアメリカに勝つ戦略と戦術を練ることです。山本は長い駐在経験からアメリカとの国力の違いを認識しており、アメリカとの戦争は無謀と知りつつ、なんとか勝機はないものかと知恵を絞ります。

0481-polen_an_der_brahe_deutsche_panzer.jpg
ポーランドに侵攻するドイツ軍(1939年撮影)
Bundesarchiv, Bild 146-1976-071-36 [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons

1940年(昭和15年)、日独伊三国同盟(Tripartite Pact)が締結されます。山本は最後までこれに反対します。世界の海を制したイギリスとは違って陸軍国である独伊との同盟は直接的な利益が少なく、逆に米英との関係が悪化することによる悪影響が遥かに大きいからです。
しかしドイツの快進撃を前に山本らの主張は理解されず、山本は三国同盟推進派に悪評をふりまかれ、暗殺の風評まで流されます。山本が連合艦隊の司令長官になったのは、暗殺の可能性が懸念されたため一時的に海軍中央部から遠ざけられたのだとも言われています。

0481-bundesarchiv_bild_183-l09218_berlin_japanische_botschaft.jpg
同盟締結を記念してベルリンの日本大使館に掲げられた三国の国旗
(1940年撮影)
Bundesarchiv, Bild 183-L09218 / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons

この時期に海軍大将に昇進した山本は友人に三国同盟締結を「全く狂気の沙汰」と語り、「東京は何度も破壊され最悪の状態が来る」と述べたと言われます。
山本はアメリカと戦うためには航空機増産しかないと考え、当時最新鋭のれい式艦上戦闘機零戦ゼロせん)と一式陸上攻撃機(一式陸攻)の大増産を求めます。また大和型戦艦3・4番艦の建造を中止させて航空機優先の生産体制を作ります。
三国同盟の締結により、日本と米英の関係は急速に悪化します。山本が危惧した通りです。時の総理大臣・近衛このえ文麿ふみまろに日米もし戦わばと見込みを聞かれた山本は、次のように答えます。
「初め半年や一年の間はずいぶん暴れてご覧に入れます。しかしながら、二年三年となれば全く確信は持てません」
言葉を補って英語にすると、次のようになります。
“In the first six to twelve months of a war with the United States and Great Britain I will run wild and win victory upon victory. But then, if the war continues after that, I have no expectation of success.”



零式艦上戦闘機

日米関係はますます悪化します。近衛首相は事態を収拾できずに内閣総辞職を決め、後任として陸軍大臣だった東條英機(Hideki Tojo)が首相となります。東條は最終交渉案として甲乙2案を用意して対米交渉にあたりますが、アメリカは「ハル・ノート(Hull note)」と呼ばれる最後通牒のような強硬な交渉案を突き付け、東條は開戦を決意します。

0481-yamamoto_with_staff_on_nagato.jpg
作戦を検討中の山本五十六(1940年頃撮影)
連合艦隊旗艦「長門(Nagato)」艦上にて。
向かって左端は「鉄仮面」と呼ばれた連合艦隊参謀長の宇垣まとめ中将。
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

北太平洋には既に山本の意を受けた空母6隻と多数の艦艇が厳重な無線封止のもとでハワイへ向かっています。交渉が妥結したら引き返すという前提で出撃していたものです。山本が研究しつくした上で発案した、空母の集中運用という史上初の用兵思想で編成された空母機動部隊です。
大本営は空母機動部隊に「ニイタカヤマノボレ一二○八ヒトフタマルハチという暗号電文を送ります。交渉決裂と日本時間12月8日の攻撃決行を知らせる暗号です。

0481-kaga_and_zuikaku_pearl_harbor.jpg
ハワイへ向かう空母「加賀(Kaga)」と「瑞鶴(Zuikaku)」(1941年撮影)
「赤城」艦尾から撮影
By Imperial Japanese Navy [Public domain], via Wikimedia Commons

ハワイ時間の12月7日の夜明け、空母から戦闘機・爆撃機・雷撃機合計183機からなる第一次攻撃隊が発艦します。目指すはハワイ・オアフ島の真珠湾(Pearl Harbor)。真珠湾を目前にした攻撃隊の指揮官は大本営に対して「トラ・トラ・トラ」を打電します。敵が迎撃態勢をとっていないことを伝える、「我奇襲ニ成功セリ」という意味の符牒です。
7時55分、攻撃隊は爆撃、雷撃、機銃掃射による艦艇や航空機への攻撃を開始します。うららかな日曜の朝、強固に要塞化された海軍基地も攻撃を受けることを全く予想していません。真珠湾はたちまち爆発と猛煙に包まれ、大混乱となります。アメリカ軍は戦艦8隻中4隻沈没、2隻が大破、2隻が小破とすべて撃滅されます。さらに軽巡洋艦3隻が大小破、駆逐艦3隻が大中破します。航空機は399機のうち188機が破壊され、155機が損傷を受けます。無傷だったのはわずか56機です。
一方の日本側の損害は航空機350機のうち未帰還29機に留まります。予想を上回る大勝利です。

0481-uss_arizona_(bb39)_10_dec_1941_view_from_ahead_looking_aft.jpg
真珠湾で撃沈した戦艦アリゾナ(USS Arizona)(1941年撮影)
By Unknown or not provided (U.S. National Archives and Records Administration) [Public domain], via Wikimedia Commons

真珠湾攻撃の翌日、アメリカのルーズベルト大統領は日本への宣戦を布告します。12月8日のことです。
開戦からわずか4ヶ月後の1942年(昭和17年)3月までに、日本はイギリス領マレー半島(今のマレーシアとシンガポール)、オランダ領東インド(今のインドネシア)、アメリカ領フィリピンなどを占領し、イギリス植民地のビルマ(今のミャンマー)南部までを攻略します。連合艦隊は無敵を誇り、空母機動部隊はハワイ以西の太平洋とインド洋を制圧し、撃破すべき敵艦がいなくなったほどです。

0481-isoroku_yamamoto_41.jpg
山本五十六(1941年頃撮影)
By 撮影: 海軍省 Ministry of the Navy (『写真週報』 第199号 (昭和16年12月17日) 3頁より) [Public domain], via Wikimedia Commons

1942年4月、空母4隻と戦艦大和を含む連合艦隊の主力はハワイの北西にあるミッドウェー島の攻略に向かいます。真の目的はアメリカ海軍の空母機動部隊を誘い出して撃滅することです。しかし日本側は油断や慢心で機密保持も緩く、戦術ミスや不運が重なったこともあり、空母4隻すべてが沈められるまさかの大敗となります。ミッドウェー海戦(Battle of Midway)です。日本は虎の子の空母を失っただけではなく、なけなしの航空機やかけがえのない熟練搭乗員も多数失います。

0480-hiryuburning.jpg
ミッドウェー海戦で攻撃を受け炎上する空母「飛龍(Hiryu)」(1942年撮影)
By Photographed by a Yokosuka B4Y aircraft from the carrier Hosho. [Public domain or Public domain], via Wikimedia Commons

そして1942年8月、アメリカ軍は日本が占領していたソロモン諸島のガダルカナル島に侵攻し、完成間近の飛行場を奪います。日本軍も反撃しますが、戦場で最もやってはいけない戦力の逐次投入をしてしまい、国力に劣る日本が最もやってはいけない一大消耗戦となってしまいます。5ヶ月にわたって陸・海・空の激しい戦闘が続いたガダルカナル島の戦い(Battle of Guadalcanal)です。日本軍は劣勢ながらよく戦いますが、遠隔地のため補給が途絶え勝ちとなり、敵襲よりも飢えや病気に苦しむようになります。この島は略して「ガ島」と呼ばれていましたが、後に「餓島」と称されるほどの凄惨な戦いとなります。翌1943年(昭和18年)2月、日本軍はガ島から撤退します。

0481-guadlandingslunga.jpg
ガダルカナル島に上陸するアメリカ海兵隊(1942年撮影)
By U.S. Marine Corps [Public domain], via Wikimedia Commons

1943年の4月、山本は戦況の悪化を挽回すべく、「い号作戦(Operation I-Go)」と呼ばれた全面的な航空攻撃作戦を指揮します。山本は空母機動部隊の艦載機を陸上基地に集結させ、日本軍史上最大の300機を超える強力な航空部隊を編成します。有名な「ラバウル航空隊(Rabaul Naval Air Corps)」です。この作戦の間、山本はトラック島にある連合艦隊旗艦「武蔵(Musashi)」を離れてニューブリテン島のラバウル基地に直接出向き、自ら陣頭指揮をとります。航空隊はブーゲンビル島のブイン基地から出撃してガダルカナル島周辺の艦艇を攻撃したり、ラバウル基地から出撃してニューギニア島方面の船舶や地上設備を空襲したりします。この作戦は満足できる戦果を上げたとして成功裏に終了します。しかし実際は戦果と比較して日本軍の被害も大きく、航空機と熟練搭乗員がさらに失われたのはかなりの痛手です。

0481-kusaka_and_yamamoto_at_rabaul.jpg
ラバウルでの山本五十六(1943年撮影)
前列中央は南東方面艦隊司令長官の草鹿任一じんいち中将
Photo by Unknown, from Agawa, Hiroyuki, The Reluctant Admiral, Kodansha International, Tokyo, 1979, p. 203. [Public domain], via Wikimedia Commons

作戦終了後、山本は最前線の航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウル基地を後にしてブーゲンビル島へ向かいます。しかしその予定を伝える暗号電文がアメリカ軍に傍受されて解読されてしまいます。山本が乗った一式陸攻がブーゲンビル島上空に到達した時、ガダルカナル島のヘンダーソン基地から出撃していた陸軍航空隊のP-38戦闘機18機が待ち構えていて襲いかかります。護衛の零戦はわずかに6機。いくら精鋭の護衛隊でも守り切れる筈がありません。山本の乗機は撃墜され、山本は戦死します。59歳の時のことです。

0481-yamamoto_last_image_alive.jpg
ラバウル基地で搭乗員に訓示する山本五十六(1943年撮影)
山本の生前最後の写真
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

山本の死は一ヶ月以上秘密にされた後、大本営によって発表されます。死後山本は元帥に昇格し、平民としては異例の国葬が行われます。戦争はまだまだ一進一退の状況で本土の一般市民も空襲の被害などをほとんど受けていない時期でしたが、このニュースを受けて国民は大きな衝撃を受け、多くの人が戦争の先行きに不安を感じます。

0481-yamamoto_state_funeral.jpg
山本五十六の国葬(1943年撮影)
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

そしてその不安はまもなく的中します。アメリカ軍は圧倒的な物量で本格的な攻勢を開始し、占領地域の守備隊は各地で玉砕を重ね、連合艦隊はほぼ壊滅します。多くの若者が特攻に散り、沖縄戦では多くの民間人が巻き込まれます。超大型爆撃機B-29などによる無差別爆撃で主要な都市は焼け野原となり、広島と長崎には原子爆弾が投下され、女性や子供やお年寄りを含む多くの人が亡くなり、生き残った人も家を失ったり原爆症で苦しめられることになります。
1945年(昭和20年)8月15日、日本はポツダム宣言の受諾を宣言し、連合国軍に降伏します。

0481-nagasakibomb.jpg
長崎への原爆投下(1945年撮影)
By Charles Levy from one of the B-29 Superfortresses used in the attack. (U.S. National Archives and Records Administration) [Public domain], via Wikimedia Commons

“In the first six to twelve months of a war with the United States and Great Britain I will run wild and win victory upon victory. But then, if the war continues after that, I have no expectation of success.”
初め半年や一年の間はずいぶん暴れてご覧に入れます。しかしながら、二年三年となれば全く確信は持てません。

日独伊三国同盟や日米開戦に最も勇敢に反対しながら、連合艦隊司令長官として数で勝てないアメリカ海軍に勝利するという無理難題を突き付けられた山本五十六。
大鑑巨砲主義の時代に航空主兵にいち早く着目して軍備を改革し、アメリカの太平洋艦隊をあれほどまでに鮮やかに撃破した先見の明には驚くばかりです。
山本は真珠湾で米海軍を叩いて行動不能にすることで米軍の戦意を喪失させ、できるだけ早期に有利な条件で講和に持ち込むことを狙っていました。しかしそれが卑怯なだまし討ちと喧伝され、逆にアメリカ人たちの闘争心に火をつけることになってしまいました。
その後の日米の戦いはまさに山本が語った通りの経過をたどりました。開戦から1年4ヶ月後に山本は戦死し、開戦から3年8ヶ月後に日本は敗北しました。そして東京は破壊されて焼け野原となりました。連合艦隊の壊滅から日本の敗戦に至る悲惨な戦いを山本が知らずに済んだのは、ある意味幸せだったのかもしれません。


【動画】“Isoroku Yamamoto History Project (山本五十六 - 歴史プロジェクト)”, by Jacob Barhydt, YouTube, 2017/04/19

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。


【動画】“The Admiral - Cine Asia Official Trailer (『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』 - シネアジア公式予告編)”, by CineAsiaWorld, YouTube, 2012/08/28

【関連記事】第386回:“AIR RAID ON PEARL HARBOR THIS IS NO DRILL” ―「真珠湾空襲、演習にあらず」(真珠湾攻撃にて), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2016年12月07日
【関連記事】第63回:“I shall return.”―「私は必ず帰ってくる」(マッカーサー), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年07月27日
【関連記事】第350回:“By enduring the unendurable and suffering what is insufferable” ―「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」 (昭和天皇), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2016年08月15日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“山本五十六人物紹介”, 山本五十六記念館
【参考】“山本五十六の略年譜(1884〜1943年)”, 山本五十六.net
【参考】“山本五十六元帥の生涯と歴史の教訓 〜なぜ海軍良識派は敗れ去ったのか〜”, by 橘秀徳, 塾生レポート, 松下政経塾, 2005年2月
【参考】“山本五十六と真珠湾攻撃を調べてみた【連合指令長官】”, by 総一郎さん, 草の実堂
【参考】“山本五十六とは、決して戦場には出撃しない、史上最低の高級軍人だった。”, 株式日記と経済展望, 2008年12月13日
【参考】“ランチェスターさんは偉かった”, by 小田中慎さん, ミリオタでなくても軍事がわかる講座, 2012/10/28

【動画】“Isoroku Yamamoto History Project (山本五十六 - 歴史プロジェクト)”, by Jacob Barhydt, YouTube, 2017/04/19
【動画】“The Admiral - Cine Asia Official Trailer (『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』 - シネアジア公式予告編)”, by CineAsiaWorld, YouTube, 2012/08/28

このエントリーをはてなブックマークに追加
posted by ジム佐伯 at 07:00 | ロンドン | Comment(0) | 戦争と平和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

スポンサーリンク / Sponsored Link

ブログパーツ