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2017年03月30日

第418回:“The President regards Japan with peculiar friendliness.” ―「大統領は日本に特別な好意を持っています」(タウンゼント・ハリス)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。



第418回の今日はこの言葉です。
“The President regards Japan with peculiar friendliness.”

「大統領は日本に特別な好意を持っています」
という意味です。
これはアメリカの外交官タウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804-1878)の言葉です。日本の江戸時代後期に来日し、初代の駐日領事を務めた人物です。日本とアメリカとの交易を開始する交渉をおこなって日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)を結んだことでも知られています。
ここで「大統領」とは、ハリスが日本へ赴任する際のアメリカ大統領フランクリン・ピアース(Franklin Pierce, 1804-1869)のことです。ハリスはピアース大統領から幕府の将軍にあてた親書をたずさえて来日したのです。

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タウンゼント・ハリス(1855年の肖像画)
By James Bogle ([1]) [Public domain], via Wikimedia Commons

1804年、タウンゼント・ハリスはニューヨーク州のサンデーヒル(Sunday Hill)と呼ばれた田舎町に生まれます。父や兄は陶磁器の輸入業をしていますが家計は貧しく、ハリスは小中学校を出たあとニューヨークシティに移り住んで父の仕事を手伝いながら図書館で文学や語学を独学します。ハリスは自力でフランス語とイタリア語とスペイン語を習得したそうです。
その後ハリスは中国からの陶磁器輸入とその販売で成功し、富と名声を築きます。
1846年、ハリスはニューヨーク市の教育局長に就任します。42歳の頃のことです。
そして1847年、ハリスは「ニューヨーク市フリーアカデミー (The Free Academy of the City of New York)」を創設します。これは幼稚園から高校・短大までの子供たちに無償で教育を与える学校です。当時のニューヨークは人口が膨れ上がる一方で高等教育機関は私立学校が2校しかなく、移民などの労働者階級の子供に教育の場が与えられていませんでした。ハリス自身も家庭が貧しくて高等教育を受けられなかった一人です。ハリスは社会に開かれた無償の高等教育の場を作ってニューヨークの未来を担う人材の育成を目指したのです。
“Open the doors to all, let the children of the rich and the poor take their seats together and know of no distinction save that of industry, good conduct, and intellect.”
「全ての人に扉を開こう。裕福な家の子も貧しい家の子も並んで座らせよう。貧富の差が勤勉さや善き行いや知性に差を作ることが無いことを教えよう。」
ハリスはこのように語っています。また、ハリス自ら教壇に立ってフランス語、イタリア語、スペイン語を教えます。このエピソードだけを見ても、ハリスが単なる成金ではなく、高い理想を持った人格者であったことがわかります。

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フリーアカデミー(19世紀撮影)
Original source image at CCNY [Public domain], via Wikimedia Commons

1848年、ハリスはサンフランシスコへ移り住んで貨物船の権利を購入し、貿易業に専念します。
ハリスは清国やインド、東南アジアやオセアニアなどを航海し、東洋を拠点に貿易を行います。ハリスは6年ほど東洋に暮らし、東洋の国々や人々の暮らしや考え方にとても詳しくなります。
1853年、アメリカ海軍のマシュー・ペリー(Matthew Perry)が率いる艦隊が日本を開国させるための遠征の途中で上海に立ち寄って滞在します。日本との貿易を望んでいたハリスは、ぜひ同乗させてほしいとペリーに依頼します。しかしハリスは軍人でなかったため、この時は同乗の許可は得られません。

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マシュー・ペリー(1854-58年頃撮影)
Photo from US Navy [Public domain], via Wikimedia Commons

ペリーの2度の日本遠征については前回詳しくご紹介しました。
1853年7月にペリーは浦賀を訪れます。蒸気外輪フリゲート艦の「サスケハナ号(USS Susquehanna)」「ミシシッピ号(USS Mississippi)」を含む4隻の艦隊です。もうもうと黒煙を吐く蒸気船が浦賀の町に大砲を向けたため、日本は「たった四杯で夜も眠れず」の大騒ぎとなります。幕府の役人は浦賀を退去して長崎へ向かうように要請しますがペリーはこれを拒否し、アメリカ大統領ミラード・フィルモア(Millard Fillmore)の親書をこの地で手交したいと主張します。時の将軍は第12代の徳川家慶いえよしですが重い病に伏せており、幕府の指揮は老中ろうじゅう首座の阿部正弘がとっています。幕府は折れて久里浜に応接場を急造し、浦賀奉行が親書を受け取ります。ペリーは翌年の再訪を予告して退去します。

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江戸湾を航行する黒船(1862年の絵画)
By Osai (Beinecke Rare Book & Manuscript Library) [Public domain], via Wikimedia Commons

そして翌1854年の2月、ペリーは浦賀を再訪します。旗艦は蒸気外輪フリゲート艦「ポーハタン号(USS Pawhatan)」で、前回も来航した蒸気船2隻も含む6隻の艦隊です。浦賀にはまたも見物人が多数つめかけ、観光地のような賑わいとなります。
3月にペリーは神奈川に上陸し、急造された応接場で開国の交渉に臨みます。幕府から派遣された交渉の全権は幕府の教育機関「昌平坂しょうへいざか学問所」の塾頭だった儒者の大学頭だいがくのかみ復斎ふくさい。今で言ったら東京大学の総長といったところです。

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神奈川に上陸するペリーの使節団
随行画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ(1855-56年)
By Гейне Вильгельм (https://uk.wikipedia.org/wiki/Файл:Perry_03.jpg) [Public domain], via Wikimedia Commons

復斎は柔軟に交渉を進め、下田と箱館の開港は認めたものの交易は時期尚早であると断固として拒絶し、ペリーもそれに合意します。そして3月31日、日米和親条約(Japan–US Treaty of Peace and Amity)が結ばれます。
日米和親条約は12条からなり、日米両国とその国民の永久なる和親、下田と箱館の開港と同地での薪水・食料の供給、難破船と遭難者の扱い、居留民の行動の扱いなどが定められます。

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日米和親条約の日本語版批准書(2009年撮影)
(外務省外交史料館蔵)
By World Imaging [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons

実はこの条約には交易については何も定められておらず、本格的な開国とはほど遠いものです。
幕府は1842年に異国船に水や燃料、食料などを供給する「薪水給与令」を出しており、「異国船打払令」を廃止しています。日米和親条約は基本的に薪水給与令の焼き直しに、下田と箱館の開港を加えて居留民の自由な行動を許しただけのものなのです。
しかし決定的に新しい点が一つあります。第11条に「米国政府は下田に領事を置くことができる」と定めてあるのです。「領事(Consul)」は外国に駐在して自国民の保護にあたる外交官で、今でもある役職です。そして当時の日米のように本格的な国交や通商関係がなくても置くことができます。「大使(Ambassador)」が持つ外交特権ほど大きくはありませんが、ある程度の大きな権限を持った存在です。
アメリカ側は日米和親条約にこの条項を盛り込むことによって、近い将来に本格的な通商を始めるための足がかりとしたのです。

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日米和親条約の英語版原文
(アメリカ国立公文書館蔵)
Cropped by Jim Saeki on 13 March 2017 [Public domain], via National Archives and Records Administration

1854年に寧波ニンポーの副領事に就任していたハリスはアメリカへ帰国し、日本の駐在領事への就任を望んでアメリカ政界に働きかけます。その結果、1855年にハリスは初代の駐日領事に任命されます。ハリスが51歳の頃のことです。
時のアメリカ大統領フランクリン・ピアースは、ハリスに日本とのさらなる交渉の全権委任を与えます。日本を平和的に開国させ、他国の介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益を確保することが目的です。またハリスは当時シャム(Siam)と呼ばれたタイとの通商条約の更新の交渉もするようにと命じられます。

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アメリカ大統領フランクリン・ピアース
(1898年頃に描かれた肖像画)
By Photoengraving after painting by M. Root, copyrighted by J.C. Tichenor. [Public domain], via Wikimedia Commons

ハリスは1856年にアメリカを出発してヨーロッパとインドを経由して4月にシャムに到着します。
ハリスはシャムの副王ピンクラオ(Pinklao)に謁見し、アメリカの立場を次のように説明します。
“The United States does not hold any possessions in the East, nor does it desire any.”
「合衆国は東洋に領土を持っておらず、それを望んでもおりません」
アメリカはイギリスとは違うのだと言っています。アメリカは後に米西戦争 (Spanish–American War, 1898年)やアメリカ・フィリピン戦争 (米比戦争, Philippine–American War, 1899-1913年)を経てフィリピンを植民地化するのですが、それはまた別の話です。
ハリスはシャムとの修好通商条約(Siamese-American Treaty of Amity and Commerce)を締結し、日本へ向かいます。

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シャムの副王ピンクラオ
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

1856年(安政3年)の8月、ハリスは英蘭語通訳のヘンリー・ヒュースケン(Henry Heusken)と共に下田へ入港します。ペリーが日米和親条約を結んで日本を去ってから1年半後のことです。ハリスたちが乗っていたのは蒸気フリゲート艦「サン・ジャシント号(USS San Jacinto)」。過去に来航した外輪船ではなく、スクリュー推進の最新鋭艦です。
ハリスは通訳の不備などから下田奉行の井上信濃守しなののかみ清直きよなおに入港を拒否されたりするトラブルにあいますが、話し合った末に井上はハリスが日米政府の交渉のあいだ下田に滞在することを認めます。ハリスたちは下田の柿崎にある玉泉寺ぎょくせんじを借り受け、総領事館を開きます。

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玉泉寺(2007年撮影)
By No machine-readable author provided. Geomr~commonswiki assumed (based on copyright claims). [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 2.5-2.0-1.0], via Wikimedia Commons

領事館を開いて領事として無事に着任したハリスは、大統領親書を将軍に手交するために江戸の訪問を許可してほしいと要請します。時の将軍は第13代の徳川家定いえさだですが、もともと病弱だったのがこの頃さらに病状が悪化しています。国内では開国反対論も強く、ハリスの江戸訪問は当分のあいだ保留されることになります。
一方で、通商のための交渉もハリスと下田奉行の井上清直と中村出羽守でわのかみ時万ときつむとの間で進められます。そして1857年6月、日米和親条約を補足する日米追加条約が結ばれます。これには長崎を新たに開港すること、下田と函館でのアメリカ人の居留を認めること、領事裁判権を認めることなどに加え、日米の貨幣の交換に関する細かい規定などが定められています。

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徳川家定(19世紀の肖像画)
By 日本語: 不明(狩野派の絵師) English: Unknown (A painter of the Kanō school) [Public domain], via Wikimedia Commons

この頃ハリスは、慣れない異国での生活や外交交渉の疲れから、体調を崩して寝込んでしまいます。そこで通訳官のヒュースケンはハリスの身の回りの世話をする日本人看護婦を斡旋あっせんしてほしいと地元の役人に要請します。しかし当時の日本人には看護婦の概念がよくわからず、めかけの斡旋だと勘違いされてしまいます。身分の高い男性の身の回りの世話は妾がすることが多かったからです。そして下田で一番の人気芸者だった16歳のおきちと呼ばれる斎藤きちが候補に挙がります。お吉は固辞しますが幕府役人の説得に折れ、ハリスのもとに住み込みます。

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お吉だとされる写真(1859年撮影)
By Anonymous [Public domain], via Wikimedia Commons

事の真相を知って聖公会の敬虔なクリスチャンで生涯独身と禁欲を貫いていたハリスは立腹し、3日後にお吉を解雇します。しかしその後お吉は外国人の妾という意味を込めて「唐人とうじんお吉」と呼ばれ、いわれなき偏見に苦しむことになります。
この出来事は幕府がハリスを篭絡しようと差し向けたハニートラップのようなものだと解釈する説もあります。しかし僕は風習の違いによる単なる誤解から生じた悲劇なのだと思います。
ジョン・ヒューストン(John Huston)が監督してジョン・ウェイン(John Wayne)と安藤永子(Eiko Ando)が出演した映画『黒船(The Barbarian and the Geisha)』(1958年)には、このエピソードがフィクションを交えて描かれています。


【動画】“The Barbarian And The Geisha (『黒船』)”, by FoxInternationalHECA, YouTube, 2013/11/30

ハリスは引き続き将軍拝謁の要請を続けます。
幕府側で実質の指揮をとっていたのは1年前に阿部正弘から老中首座を引き継いだ堀田備中守びっちゅうのかみ正睦まさよし外国掛がいこくがかり老中も兼ねていますので、総理大臣が外務大臣を兼任しているようなもので、それだけ幕府にとって非常時だったということです。開国派だった堀田は下田奉行の井上からハリスの強硬な姿勢の報告を受けており、大統領使節であるハリスの将軍拝謁を認める方向で幕府内を調整します。そして1857年(安政5年)12月、ハリスとヒュースケンはついに許可を得て江戸城に登城して将軍家定に拝謁し、ピアース大統領の親書を手渡します。ハリスの来航から1年半後のことです。
“As the treaty made with the United States was the first treaty entered into by your country with other countries, therefore the President regards Japan with peculiar friendliness.”
「合衆国との和親条約は貴国を国際社会へいざなった最初の条約であり、それゆえに大統領は日本に特別な好意を持っています」
ハリスは日本とアメリカの特別な関係について、このように述べています。
将軍拝謁を無事終えたハリスは、堀田の屋敷で幕府の役人たちに対して演説を行ってアメリカとの通商の必要性を主張します。
“The nations of the West hope that by means of steam communication all the world will become as one family. Any nation that refuses to hold intercourse with other nations must expect to be excluded from this family.”
「西洋の国々は蒸気船の交流により全世界が一つの家族になると望んでいます。他国との交流を拒む国はきっとこの家族に加われないことでしょう」
ハリスは蒸気船がもたらしたグローバル化に日本も参加すべきだと説くのです。

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堀田正睦
By 村山大蔵 [Public domain], via Wikimedia Commons

ちょうどこの頃、清国とイギリス・フランスの間で戦争が起きています。
かつて1840年から2年間にわたってイギリスと清国が戦った阿片戦争(First Opium War)に勝利したイギリスは、多額の賠償金と香港の割譲を勝ち取ります。また既に開港していた広州と厦門アモイと寧波に加え、福州と上海を開港させて自由貿易を拡大します。阿片戦争のきっかけとなったインドからのアヘンの密輸も黙認されて継続します。しかしイギリスの主要輸出品である綿製品の清への輸出は思ったほど増えず、清国内では民衆の排外暴動が頻発します。
また清国政府はイギリスの外交官が北京で政府と直接交渉することを認めず、外交窓口を広州に限定し続けます。これは条約違反でもあり、清国政府のいいかげんさと不誠実さにイギリスの外相や内相を歴任する第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston)らをはじめとするイギリス側の不満が高まり、再度の武力行使が検討されます。

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第3代パーマストン子爵(1855年の肖像画)
By Francis Cruikshank [Public domain], via Wikimedia Commons

1856年10月、イギリス船籍の貨物船「アロー号(Arrow)」を清国の官憲が臨検し、中国人乗組員12名を海賊容疑で逮捕します。これに対して香港総督はイギリス海軍に命じて広州で武力行使を行い、首相となっていたパーマストン子爵も追認して戦争が始まり、フランスも火事場泥棒的に参戦します。「アロー戦争(Second Opium War, 1856-60)」です。
英仏連合軍は広州を占領して北上し、1857年に天津を制圧、天津条約(Treaty of Tianjin)が結ばれます。しかし戦争はこれで終わらず、英仏軍は1860年に北京を占領、北京条約(Convention of Peking)が結ばれて戦争は終結します。インドからのアヘン輸入は合法化されます。
阿片戦争を再現するかのようなイギリスによる清国フルボッコ。まさにイギリス無双。大暴れです。イギリスは同時期のクリミア戦争(Crimean War, 1853-56)ではロシア帝国を相手に完全勝利はできませんでしたが、東洋では敵なしの状態です。

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アロー戦争で広州に侵入する英仏連合軍
Scan by Shizhao, from 《社会历史博物馆》 ISBN 7-5347-1397-8 第二次鸦片战争联军攻占广州 [Public domain], via Wikimedia Commons

ハリスは英仏との戦争のリスクやアヘンの危険性にも触れます。
“If Japan had been near to either England or France, war would have broken out long ago.”
「もし日本がイギリスやフランスの近くにあったら、とうの昔に戦争となっていたことでしょう」
“If war should break out between England and Japan, the latter would suffer mu
ch more than the former.”

「もしイギリスと日本が戦えば、イギリスよりも日本が苦しむことになりましょう」
“It appears that the English think the Japanese... are fond of opium, and they want to bring it here also.”
「イギリスは日本の人たちもアヘンを好むと考えているようで、アヘンを持ち込みたがっています」
“The President of the United States thinks that for the Japanese opium is more dangerous than war.”
「合衆国大統領は日本にとってアヘンは戦争よりも危険だと考えます」
“The expense of a war could be paid in time; but the expense of opium, when once the habit is formed, will only increase with time.”
「戦争の出費は一時的なものです。しかしアヘンの出費は一度習慣がついてしまうと膨れ上がる一方です」
“The President wishes the Japanese to be very prudent about the introduction of opium, and if a treaty is made, he wishes that opium may be strictly prohibited.”
「日本がアヘンの輸入に慎重になることを大統領は望みます。条約が結ばれたら大統領はアヘンを厳しく禁止します」
“If you make a treaty first with the United States and settle the matter of the opium trade, England cannot change this, though she should desire to do so.”
「日本がアメリカと最初に条約を結んでアヘン貿易を禁止したら、イギリスはアヘン貿易をしたくてもできなくなります」
ハリスは英仏の脅威を引き合いに出してアメリカとの通商がいかに必要かを説きます。しかしこれは脅しをかけているだけでなく、日本に対してかなり親身に助言しているようにも見えます。太平洋に進出したいアメリカは、イギリスにこれ以上好き放題されたくなかったのです。

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アヘンを吸う清国人
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

ハリスの登城からさらに1ヵ月半後、堀田は下田奉行の井上と今の外務大臣にあたる外国奉行の岩瀬肥後守ひごのかみ忠震ただなりを全権に命じて通商条約の交渉に当たらせます。そして15回にも及ぶ交渉の末、なんとか通商に関する双方の合意がまとまります。しかし異国を打つべしという攘夷派の反対も強く、堀田は幕府内の調整に苦慮します。また開国派の中でも、朝廷の勅許が必要だと主張する意見と、イギリスが日本に牙をむく前に比較的穏当なアメリカと即時に条約を結ぶべきだとする意見に分かれます。
堀田は反対論を抑えるためにも勅許が必要だと考え、孝明こうめい天皇から勅許を賜るために上洛します。しかし攘夷派の公家が抗議の座り込みを行ったり、天皇自身も強硬な攘夷論者であったりしたため、勅許のうかがいは却下されます。

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孝明天皇(1897年撮影)
Published by 博文館(Hakubunkan) (雑誌『太陽(The Sun)』第3巻第4号、口絵) [Public domain], via Wikimedia Commons

堀田の上洛中、彦根藩主の井伊直弼なおすけ大老たいろうに就任します。大老とは臨時に老中の上に置かれる最高職です。政策や将軍継嗣問題で堀田に反対する勢力が、堀田の不在中に主導権の奪回を図ったのです。
幕府では、福井藩主の松平春嶽しゅんがくをはじめとする即時開国派の意見が強まります。ただ井伊自身は条約交渉に関しては慎重で、最後まで勅許を得ることにこだわり、幕内で孤立します。調印交渉の前の閣議で井伊は全権の井上と岩瀬に対して、やむを得ない場合は調印してもよいが、可能な限り勅許を得られるまで調印を延期するように指示します。

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井伊直弼(1860年の肖像画)
By 京狩野家第9代 狩野永岳 Kanō Eigaku (1790〜1867) (彦根城博物館所蔵品。Hikone Castle Museum[1].), cropped by Jim Saeki on 15 March 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

1858年7月29日(安政5年6月19日)、神奈川沖に停泊する蒸気船ポーハタン号の艦上で日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)が調印されます。アメリカ側の全権はハリス。日本側の全権は井上と岩瀬です。第14代将軍徳川家茂いえもちの名による調印で、結局勅許は得られないままとなります。
ハリスは初代の駐日アメリカ公使(American Envoy in Japan)となり、下田の領事館を閉鎖して、江戸の元麻布にある善福ぜんぷく寺に公使館を開きます。

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徳川家茂(1866-67年の肖像画)
By 徳川茂栄 (1831-1884) (宇治主水) [Public domain], via Wikimedia Commons

条約の内容は日米の友好関係を維持すること、下田と箱館に加えて神奈川、長崎、兵庫、江戸、大阪を段階的に開港・開市して自由に交易することが定められます。アメリカ側に領事裁判権を認めていたり、日本側に関税自主権がなかったりすることから後に「不平等条約」と言われますが、当時の日本の状況を考えるとやむを得ないところです。例えば日本の極端に思い刑罰や切り捨て御免などが在留アメリカ人に適用されてはかないませんし、関税に関しても当時の日本では自主的に定める知識と経験がありません。
また、条約には日本とヨーロッパ諸国との間に問題が生じたときはアメリカが仲裁することが明記されています。このように日本側にも利益があり、半植民地のような不平等条約を一方的に押し付けられたわけではないようです。
また、この条約には日米和親条約の内容も引き継がれており、日米修好通用条約の発効と共に日米和親条約は失効します。
間もなく幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスと相次いで同様の条約を調印し、翌年以降にポルトガルやプロイセンとも条約を結びます。これによって200年以上の長い鎖国が終わり、本格的な開国となります。

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日米修好通商条約(2009年撮影)
日本側全権の井上と岩瀬の名前と花押がある
外務省外交史料館蔵
By World Imaging [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons

翌々年の1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するために日本の使節がポーハタン号に乗ってアメリカに向かいます。正使は外国奉行の新見しんみ豊前守ぶぜんのかみ正興まさおき、副使は同じ外国奉行の村垣淡路守あわじのかみ範正のりまさです。また実務を監督する目付として小栗上野介こうずけのすけ忠順ただまさが同行します。
思えばポーハタン号は日本と特別に関係が深い船です。ペリーの2度目の来航時の艦隊の旗艦となり、吉田松陰が密航をくわだて、艦上で日米修好通商条約が結ばれ、そして日本からの初めての遣米使節をアメリカに送り届けたのです。

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ポーハタン号
Published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) [Public domain], via Wikimedia Commons

また、ポーハタン号を護衛するという名目で幕府の蒸気コルベット艦咸臨丸かんりんまるが同行します。オランダで製造されて幕府が購入し、長崎海軍伝習所での航海練習に使われた船です。咸臨丸には副使として木村摂津守せっつのかみ喜毅よしたけや艦長格として勝海舟こと勝麟太郎が乗船し、通訳としてジョン万次郎こと中浜万次郎や、木村の従者として福澤諭吉も渡米します。

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咸臨丸の航海(1860年代の絵画)
By 鈴藤勇次郎 (1826 - 1868) (http://www.usajapan.org/events-forums.html) [Public domain], via Wikimedia Commons

使節団はアメリカのサンフランシスコを訪問した後にパナマ地峡を鉄道で横断し、船を乗り換えてワシントンDC、フィラデルフィア、ニューヨークを訪問して、各地で熱狂的な歓迎をうけます。使節団はホワイトハウスも訪れ、大統領のジェームズ・ブキャナン(James Buchanan)と面会します。
この訪問は万延元年(1860年)のことでしたので、使節団は「万延元年遣米使節」と呼ばれます。

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ブキャナン大統領と面会する日本の使節団
(Illustrated London Newsより)(1860年)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

同じころ国内では、勅許を得ずに開国したことが問題視されて将軍継嗣問題も絡んだ大きな政争となり、井伊は反対派の幕臣や志士や公家などを大量に処罰します。安政の大獄です。かつて下田でペリーが乗るポーハタン号に小舟で乗り付けてアメリカ渡航を依頼し、ペリーに断られて自首した後に捕縛された吉田松陰もこの時に刑死します。
しかし政局はますます混乱し、井伊は江戸城の目と鼻の先で過激派の水戸浪士に襲われ、暗殺されます。1860年(安政7年)3月、桜田門外の変です。これにより幕府の威信はますます低下し、各地で尊王攘夷運動が激化します。時代は幕末の動乱期を迎えるのです。


【動画】“映画『桜田門外ノ変』予告編”, by シネマトゥデイ, YouTube, 2010/08/05

1862年、ハリスは病気のため5年9ヶ月にわたる滞在を終えてアメリカに帰国します。ハリスの帰国を正式に日本に伝えた手紙に署名したのは当時の大統領エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)です。アメリカでは南北戦争(American Civil War, 1861-65)が戦われており、その後しばらくは外交どころではなくなります。
そしてハリスは帰国後は特に公職にはつかず、動物愛護団体の会員などになります。
日本では幕末の動乱を経て、第15代将軍の徳川慶喜よしのぶが大政奉還を行い、同年の江戸開城によって明治維新が成立します。ハリスが帰国した5年後の1867年(慶応3年)のことです。
1878年、ハリスは保養先のフロリダで亡くなります。74歳の時のことです。

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徳川慶喜(1867年撮影)
By published by 松戸市戸定歴史館 [Public domain], via Wikimedia Commons

“The President regards Japan with peculiar friendliness.”
大統領は日本に特別な好意を持っています。

最新の国際情勢を説いて日本の開国に尽力し、日米修好通商条約を結んだハリス。
日米修好通商条約は確かに不平等条約の側面もありました。しかし比較的穏当な条約だったため、その後のイギリスやロシアなど列強と条約を結ぶ際にも無理難題を押し付けられずに済み、日本は植民地化をまぬがれます。
1894年(明治27年)、不平等な内容を改正した日米通商航海条約(Treaty of Commerce and Navigation between Japan and the USA)が調印されます。この条約は太平洋戦争前後に失効したものの、現在も更新されて今に至ります。
教育者でもあったハリスが創設したニューヨーク市フリーアカデミーは、現在ニューヨーク市立大学シティカレッジ(CCNY, City College of New York)タウンゼント・ハリス高校(Townsend Harris High School)として存続しており、優秀な人材を輩出し続けています。

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ニューヨーク市立大学シティカレッジ
(2013年撮影)

By Beyond My Ken (Own work) [GFDL or CC BY-SA 4.0-3.0-2.5-2.0-1.0], via Wikimedia Commons


それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。


【動画】“The City College Mission (シティカレッジの使命)”, by The City College of New York, YouTube, 2016/02/18

【関連記事】第417回:“What a prospect full of hope opens for the future of that interesting country!” ―「この興味深い国にはなんと希望にあふれた未来が開けることか!」(ペリー), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年03月26日
【関連記事】第414回:“The people of Japan are good, curteous and valiant.” ―「日本の人々は善良で礼儀正しく、勇敢である」(ウィリアム・アダムス(三浦按針)), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年03月14日
【関連記事】第411回:“The Japanese are truly the delight of my heart.”―「日本人は本当にわが心の喜びである」(ザビエル), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年03月02日
【関連記事】第406回:“Chipangu is an Island towards the east in the high seas.”―「ジパングは東方の大洋中にある島である」(マルコ・ポーロ『東方見聞録』より), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年03月02日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“Townsend Harris and CCNY(タウンゼント・ハリスとニューヨーク市立大学)”, CCNY
【参考】“The Treaty of Kanagawa(日米和親条約)”, Featured Documents, National Archives & Records Administration
【参考】“The Treaty of Kanagawa (English Version)(日米和親条約(英語版))”, Online Exhibits, National Archives
【参考】“ハリスの来日と日本の開国 その1 ー下田条約締結とハリスの参府ー”, by 大船住人さん, 古文書コーナー, ようこそ大船庵へ, 2007/12/12
【参考】“ハリスの来日と日本の開国2 −日米修好通商条約締結と批准使節団ー”, by 大船住人さん, 古文書コーナー, ようこそ大船庵へ, 2008/02/26

【動画】“The Barbarian And The Geisha (『黒船』)”, by FoxInternationalHECA, YouTube, 2013/11/30
【動画】“映画『桜田門外ノ変』予告編”, by シネマトゥデイ, YouTube, 2010/08/05
【動画】“The City College Mission (シティカレッジの使命)”, by The City College of New York, YouTube, 2016/02/18

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