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2017年03月26日

第417回:“What a prospect full of hope opens for the future of that interesting country!” ―「この興味深い国にはなんと希望にあふれた未来が開けることか!」(ペリー)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。



第417回の今日はこの言葉です。
“What a prospect full of hope opens for the future of that interesting country!”

「この興味深い国にはなんと希望にあふれた未来が開けることか!」
という意味です。
これはアメリカ海軍の代将(Commodore)だったマシュー・ペリー(Matthew Perry, 1794-1858)の言葉です。アメリカ海軍における当時の最高位の軍人で、江戸時代に艦隊を率いて日本に来航し、開国の交渉をしたことで有名です。
来航時の日本では「彼理」「伯理」と書いて「ペルリ」とも呼ばれました。舌を巻き気味な発音をよくあらわしていますよね。
ちなみに当時ロシアは「オロシア」とも呼ばれました。こちらは「巻き気味」どころかめっちゃ舌を巻きまくってますね。

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マシュー・ペリー(1854-58年頃撮影)
Photo from US Navy [Public domain], via Wikimedia Commons

1794年、マシュー・ペリーはアメリカ東海岸北部のロードアイランド州にあるニューポートに生まれます。
父親クリストファーはアメリカ独立戦争以来の海軍軍人で私掠船しりゃくせんの船長をしています。
ペリーは1809年にわずか14歳9ヶ月で士官候補生となり海軍に入ります。1812年に始まった米英戦争(War of 1812)や1815年にオスマン帝国と地中海で戦った第二次バーバリー戦争(Second Barbary War)に従軍したペリーは、その後カリブ海で海賊や奴隷貿易の取り締まりを行います。
ペリーはさらに2隻の軍艦の艦長を歴任した後に、1833年にニューヨーク海軍工廠(New York Navy Yard)の副司令官となり、1837年に大佐に昇進します。同じ1837年に完成したアメリカ第2の蒸気フリゲート艦「フルトン号(USS Fulton)」の建造を監督し、完成後は同艦の艦長となったペリーは、アメリカ海軍の近代化の先駆者として「蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)」と讃えられます。1840年にペリーはニューヨーク海軍工廠の司令官となり、代将に昇進して当時のアメリカ海軍で最高位の士官となります。ペリーが46歳の頃のことです。

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フルトン号(1851年の改装後)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

またペリーは士官教育にも力を注ぎ、1845年にアナポリスに設立された海軍兵学校(United States Naval Academy)の教育過程の作成を支援します。
1846年にアメリカとメキシコとの間で勃発したアメリカ・メキシコ戦争(米墨べいぼく戦争, Mexican-American War)では、ペリーは蒸気フリゲート艦「ミシシッピ(USS Mississippi)」の艦長兼艦隊副司令としてメキシコ湾にあるベラクルスの包囲戦と上陸作戦を指揮して成功させます。アメリカはこの戦争に勝利してカリフォルニア州を併合します。
そして1852年、ペリーは東インド艦隊(East India Squadron)の司令長官となり、日本を開国させる任務につくのです。

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ペリー(1856-1858年頃撮影)
Mathew Brady [Public domain], via Wikimedia Commons

そもそも、アメリカはなぜ日本を開国させようとしたのでしょうか。ここまでのアメリカの歴史を簡単に振り返ってみましょう。
アメリカ大陸を発見したのはスペイン王室の援助を受けたご存じクリストファー・コロンブスで、その後スペインはアメリカ大陸に次々に植民地を作って南米と中米のほとんどを支配します。大航海時代にやや乗り遅れたイギリスは、開発の遅れていた北米大陸の東岸に植民地を作ります。
北米大陸は当初イギリスとフランスとスペインの植民地が混在しますが、フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War, 1755-1763)でフランスに勝利したイギリスは北米大陸の東海岸と内陸を広く支配します。負けたフランスは広大な植民地を失った上に戦費の負担が大きく、絶対王政に対する国民の不満も高まり、後のフランス革命の遠因となります。勝ったイギリスも戦費負担をまかなうために植民地への課税を強化し、植民地側の不満が高まります。

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フレンチ・インディアン戦争後の北米東部
濃い赤が従来のイギリス支配地
薄い赤が新たなイギリス支配地
濃い橙が従来のスペイン支配地
薄い橙が新たなスペイン支配地
By Jon Platek [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons

1775年、アメリカ東部沿岸の13州がイギリスから独立すべく戦端を開きます。アメリカ独立戦争(American War of Independence, 1775-1783)です。アメリカでは「アメリカ革命(American Revolution)」とも呼ばれています。有名なアメリカ独立宣言(United States Declaration of Independence)は戦争が勃発した翌年の1776年7月4日に採択され、この日がアメリカの独立記念日(Independence Day)とされています。イギリスを牽制したいフランスの支援もあり、アメリカ合衆国はイギリスに勝利して独立を果たします。また1789年にはアメリカを支援したフランスでもフランス革命(French Revolution)が始まり、絶対王政が打倒されます。

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アメリカ独立戦争(1851年の絵画)
(中央左がジョージ・ワシントン)
Emanuel Leutze [Public domain], via Wikimedia Commons

また、同じ18世紀後半にイギリスで始まった産業革命(Industrial Revolution)は生産効率と移動効率の飛躍的な向上をもたらします。
そして19世紀前半にはアメリカにも産業革命が波及して国内生産が急増し、新たな市場が必要となります。また蒸気機関や工場の機械の潤滑油やランプの油となる鯨油をとるために数多くの捕鯨船が北太平洋で操業しており、その補給基地も必要です。しかし当時の七つの海はイギリスが支配しています。米墨戦争でカリフォルニア州を手に入れたアメリカは太平洋へ進出する気満々ですが、イギリスはオーストラリアやニュージーランドやマレー半島に広大な植民地を持ち、シンガポールや香港などの貿易拠点も押さえています。
アメリカは市場拡大のためにも貿易船や捕鯨船の寄港地の確保のためにも、日本をどうしても開国させたかったのです。

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ハーマン・メルヴィル著白鯨はくげい(Moby-Dick)』(1851年)
この時代のアメリカの捕鯨が描かれている
By A. Burnham Shute (Moby-Dick edition - C. H. Simonds Co) [Public domain], via Wikimedia Commons

一方の日本は、1543年の種子島への鉄砲伝来以降、ポルトガルとの南蛮貿易を始めます。ポルトガルは1498年にアフリカまわりのインド航路を開拓し、インド洋と東南アジアの制海権を押さえてポルトガル海上帝国を築いています。ライバルのスペインも1492年に新大陸を発見し、南米と中米を次々に植民地化していきます。日本の戦国期は大航海時代と重なっているのです。
1549年、ポルトガルが派遣したイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が日本でのカトリックの宣教を始めます。その後天下をとった織田信長は既存宗教への対抗上キリスト教を保護します。その結果信者も増え、キリシタン大名まで現れますが、織田信長の政権を引き継いだ豊臣秀吉は次第にキリスト教を弾圧するようになります。ポルトガルやスペインが世界各地でキリスト教の宣教をして信者を広めた上で国家を乗っ取り領土を広げてきたことを知り、警戒したからです。

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フランシスコ・ザビエル(17世紀初期の肖像画)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

徳川家康の時代になり、大航海時代にやや乗り遅れたオランダやイギリスが日本へやってきます。プロテスタント国家であるオランダやイギリスが宣教を重視していなかったことから、家康は次第に両国との交易を重視するようになります。その後オランダが東南アジアの制海権を握り、イギリスは日本貿易から撤退します。
2代将軍徳川秀忠の時代になって江戸幕府は1624年にスペイン船の来航を、1639年にポルトガル船の来航を禁止します。鎖国の完成です。
日本はこれ以降200年以上も鎖国を解かず、対外貿易はオランダや中国だけと細々と続けることになります。

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出島(1824-25年頃に描かれた図)
By Isaac Titsingh [Public domain], via Wikimedia Commons

しかし実はペリー以前にもオランダ船以外の欧米の異国船がたびたび日本を訪れています。
1673年、イギリス国王チャールズ2世の親書をたずさえた「リターン号(Return)」が日本との交易を再開しようと長崎へ来航します。実に50年ぶりの来航で、交易を再開したいという気持ちが船名にあらわれていますね。
しかし第4代将軍徳川家綱は長崎奉行の岡野貞明を通して、チャールズ2世がポルトガルのカタリーナ王女と結婚していることを理由に交易を拒絶します。
これはオランダが対日貿易の独占を守るため、イギリスに不利な情報を故意に流したのだと言われています。

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チャールズ2世(1660-65年頃の肖像画)
John Michael Wright [Public domain], via Wikimedia Commons

さらに100年以上たった11代将軍徳川家斉いえなりの時代、イギリスの動きが再び活発化します。
1791年と1803年、イギリス商船が貿易を求めて相次いで来航します。しかし、いずれも船が港に入ると何艘もの小舟に取り囲まれて入港を拒否され、水と食料と燃料のみを補給されて退去します。
1805年にはイギリス海軍のフリゲート艦「フェートン号(HMS Phaeton)」がオランダ国旗を掲げて長崎に入港し、イギリス軍艦と知らずに出迎えたオランダ商館員を人質にとります。
当時のオランダはナポレオン戦争(Napoleonic Wars, 1803-15)でフランスの属国となっており、イギリスと戦争状態にあります。フェートン号は長崎のオランダ船を拿捕しようと入港したのです。しかし拿捕すべきオランダ船がいなかったため、フェートン号は人質と引き換えに水と食料を要求します。長崎奉行は戦闘準備を始めますが十分な兵力がそろわず、やむなく最小限の水と食料を提供するとフェートン号は人質を解放して出港します。長崎奉行の松平康英はこの責任をとって切腹します。「フェートン号事件」です。
これ以降、日本はイギリスのことを侵略性のある英夷えいいとして警戒を強めます。

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フェートン号を描いた絵画
(『崎陽録』より。長崎歴史文化博物館蔵)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

同じ頃、極東での勢力拡大を虎視眈々と狙うロシアもさかんに日本周辺に出没します。
1792年、シベリアのオホーツクを出港したロシア船「エカチェリーナ号」が根室に来航します。シベリア総督の親書をたずさえた遣日使節アダム・ラクスマン(Adam Laxman)と、伊勢の白子しろこ(今の三重県鈴鹿市)出身の船頭だった大黒屋光太夫こうだゆうたちが乗っています。

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ラクスマン(1792年の日本の絵画)
By Anonymous Japanese work, 1792 ([1]) [Public domain], via Wikimedia Commons

光太夫は廻船の船頭でしたが10年前に嵐で遭難してアリューシャン列島に漂着し、その後ロシアの極東沿岸に移り住みます。そしてはるばるロシアの帝都サンクトペテルブルクを訪れて女帝エカチェリーナ2世(Yekaterina II)に謁見し、帰国を願い出て許可されたのです。
ラクスマン一行は箱館を経て松前に呼ばれますが、幕府から派遣された役人は親書を受け取らず、通商交渉を行うならば長崎へ向かうようにと指示をして光太夫たちを引き取ります。ラクスマンの船は長崎に向かわずに帰国します。

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大黒屋光太夫(左)(1792年の日本の絵画)
By Anonymous Japanese painting 1792 ([1]) [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons

さらに1804年、対日特使のニコライ・レザノフ(Nikolai Rezanov)が乗ったロシア船が長崎に入港します。ロシア皇帝アレクサンドル1世(Aleksandr I)の親書をたずさえ、サンクトペテルブルクから南米と太平洋を回ってやってきたのです。12年前に幕府役人から指示された通り長崎にやってきたレザノフでしたが、半年以上待たされたあげく交易はできないとの幕府の返事を受けます。レザノフはシベリアへ退去しますが、報復のために部下のフヴォストフに日本襲撃を命じます。フヴォストフらは1806年(文化3年)に樺太を、1807年(文化4年)に択捉島をで襲撃し、略奪や放火などを暴虐の限りを尽くします。日本では「文化露寇ろこう、ロシアでは「フヴォストフ事件」と呼ばれます。
この事件で日本の対露感情は極めて悪化し、1807年に露西亜ロシア船打払令」が出されます。1808年には長崎でフェートン号事件が起きたこともあり、異国船に対する日本の緊張が高まります。

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レザノフ(1800年頃の肖像画)
By Anonymous [Public domain], via Wikimedia Commons

そんな中、1811年に千島列島の測量を行っていたロシア海軍の軍艦「ディアナ号」が択捉島の北端に寄港します。艦長のヴァシーリー・ゴローニン(Vasilii Golovnin)は幕府の役人の指示に従わずに国後島南端のとまりに寄港したこともあり、だまし討ちにあって捕縛されます。ロシア船の副艦長リコルドは泊の砲台と砲撃戦をしてゴローニン奪還を試みますが成功せず、いったんオホーツクに退去します。

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ゴローニン(1851年以前の肖像画)
By ACB75 [Public domain], via Wikimedia Commons

リコルドは翌年夏にゴローニン解放交渉のため再び泊を訪れます。しかし幕府役人はゴローニンを既に処刑したと偽り交渉に応じません。そこでリコルドは退去する際に国後島周辺で日本船を拿捕し、廻船商人の高田屋嘉兵衛かへえら6名をカムチャツカ半島のペトロパブロフスクの港に連行します。嘉兵衛は事情を聴き、ゴローニンが捕らわれたのは文化露寇の時にフヴォストフらが暴虐の限りを尽くしたからだとリコルドに告げ、ロシアとして公式に謝罪の文書を提出したらどうかと提案します。嘉兵衛の人柄を信頼したリコルドはその案を採用し、二度の交渉の末にゴローニンの釈放に成功して、嘉兵衛も日本に戻されます。「ゴローニン事件」です。ゴローニンは結局2年3ヶ月の長期にわたり日本に抑留されますが、日本人の寛容さと慈悲のある性質は認めていたそうです。なお、リコルドは交渉の際に日露の国交樹立や通商も求めますが、幕府はそれを拒絶します。

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高田屋嘉兵衛
リコルド著『対日折衝記』(1816年)に描かれた肖像
By P. I. Ricord [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons

一方イギリスは、フェートン号事件以降も何度も日本へやってきます。
1813年、長崎にオランダ国旗を掲げた船が5年ぶりにやってきます。実はこれもイギリスが派遣した船で、長崎のオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff)に驚くべき事実を伝えます。実はオランダは3年前に皇帝ナポレオン政権下のフランスに併合されて、植民地はすべて他国に征服され、極東貿易の基地であるジャワもイギリスが支配しているというのです。オランダという国がなくなってしまったのです。イギリス側はオランダ商館がイギリスの支配下で貿易を続けるよう提案しますが、ドゥーフはこれを拒否します。そして1815年にナポレオンが完全に敗北してオランダが再独立を果たすまで、オランダ商館は船の来ない長崎で世界でただ一ヶ所だけオランダの国旗をあげ続けるのです。

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フランス第一帝政時代の最大勢力圏
濃い青:領土、薄い青:衛星国、薄い緑:同盟国(プロイセン、オーストリアなど)
By Blank_map_of_Europe.svg: maix¿? derivative work: Alphathon /'æɫfə.θɒn/, modified by Jim Saeki on 8 September 2013 [CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

12年にもわたるナポレオン戦争に勝利したイギリスに、もはや怖いものはありません。
今やイギリスは7つの海を支配して世界各地に植民地を持ち、産業革命のおかげで本国は世界の工業生産の約半分を占める工業力を誇る超大国なのです。
イギリスは日本との通商を始めて隙あらば支配しようという野心をこめて、日本の開国を試みます。

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19世紀のイギリスの支配領域
(1886年頃、ピンク色の部分)
Walter Crane, cropped by Jim Saeki on 12 March 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

1817年から1822年にかけて、イギリス船は何度も浦賀に来航して通商を求めます。しかしそのたびに多くの小舟が上陸を阻止し、幕府は通商を拒絶します。
浦賀だけではありません。1824年、今の北茨城市にある水戸藩大津の海岸にイギリス船数隻が来航して12人が上陸し、捕らえられた後に船に水と食料を与えられて釈放されます。「大津浜事件」です。また同年、薩摩藩の管轄だった吐噶喇とから列島の宝島にイギリス船が来航し、20〜30人が上陸して牛を略奪し、島民と争いになります。「宝島事件」です。
1825年、ついに幕府は「異国船打払令」を発令します。日本の沿岸に接近する中国朝鮮とオランダ以外の異国船は見つけ次第に砲撃して追い返し、上陸した異国人は捕縛するようにとの命令です。対象は限定していませんが、主にロシアとイギリスを対象としたものです。相次ぐ異国船の騒動に、将軍の家斉もついにキレたのです。

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徳川家斉
By 狩野養信か (Attributed to Kanō Osanobu) [Public domain], via Wikimedia Commons

さて、この頃からいよいよアメリカが日本へ積極的にはたらきかけるようになります。
1837年、アメリカの商船「モリソン号」が日本にやってきます。6年前に遭難してアメリカ西海岸に漂着し、マカオで保護されていた船員7名を日本へ届け、さらに通商を求めることを目的とした来日です。モリソン号は平和的な来訪であることを示すために大砲や武器をすべて取り除いています。しかし日本側には異国船打払令が出ています。浦賀に来訪したモリソン号は、非武装にもかかわらず砲撃を受けます。モリソン号は退去して薩摩へ向かい、鹿児島では上陸して島津家の城代家老と交渉しますが、幕府の方針により漂流民を長崎に連れていくようにと指示されます。モリソン号は水や燃料を提供されたものの空砲で威嚇射撃をされて退去し、漂流民を乗せたままマカオに帰港します。「モリソン号事件」です。

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モリソン号を描いた日本の絵画
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

翌1838年、長崎のオランダ商館を通してモリソン号が平和目的で来航していたことが明らかになります。老中の水野忠邦は、漂流民はオランダ船によって長崎に帰還させるという方針を決定して指示します。
一方、蘭学者の渡辺崋山高野長英は異国船の打払を批判する書籍を書いたため、幕政批判の罪で捕らえられます。蛮社ばんしゃの獄」です。

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水野忠邦(天保年間(1830-44年)の肖像画)
By 椿 椿山 [Public domain], via Wikimedia Commons

1840年、イギリスと清国との間で戦争が勃発します。阿片アヘン戦争(First Opium War)です。
当時のイギリスは中国から大量の茶葉を輸入しており、貿易赤字で銀が流出して不足したため、植民地のインドから阿片を密輸出する三角貿易(triangular trade)を行います。すると中国では貿易収支が逆転して銀が不足すると共に、阿片による人心の退廃も深刻化します。清国政府は以前から阿片輸入を禁止していましたが密輸が止まらず、強硬手段に出て広東のイギリス商人から阿片を大量に没収して破棄します。イギリス商人たちはマカオに退去しますが、清国当局はイギリス船員が九龍半島で現地民を殺害したとしてマカオを武力封鎖して食料を断ち、井戸に毒をまいてマカオの住民や他国の商人ごとイギリス商人を殺害しようと図ります。これにキレたのが対清強硬派のイギリス外相パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルです。

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第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル(1845年頃の肖像画)
By John Partridge (died 1872) [Public domain], via Wikimedia Commons

イギリスはパーマストン子爵の強硬な主張を受けて対清開戦を閣議決定し、軍艦と輸送船など50隻近くの東洋艦隊を編成して5000人の陸軍兵士とともに清国へ派遣します。戦闘の結果は言うまでもありません。イギリス軍は連戦連勝、2年間にわたって清国軍をフルボッコにします。清国は破れ、イギリスは香港を獲得します。
この報せに日本は驚愕し、震撼します。大国の清国がここまであっけなくフルボッコにされたなら、日本も同じ運命をたどる恐れがあるからです。幕府は直ちに異国船打払令をとりやめ、異国船に薪や水を供給せよという薪水しんすい給与令」を1842年に出して対外政策を軟化させます。

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阿片戦争(1843年の絵画)
イギリス軍艦(右奥)に砲撃される清軍のジャンク船
Edward Duncan [Public domain], via Wikimedia Commons

1846年、アメリカ海軍の東インド艦隊の司令官ジェームズ・ビドル代将(James Biddle)が乗った戦列艦「コロンバス号(USS Columbus)」とその僚艦が浦賀に来航します。2隻の船はたちまち多数の警備船に取り囲まれます。ビドルは前年にアメリカと清国の通商条約である「望厦ぼうか条約(Treaty of Wanghia)」を結んでおり、これと同様の条約を日本とも締結したいと求めます。しかし幕府は通商はオランダ以外と行わないと拒絶した上で、外交交渉はすべて長崎で行うので長崎へ回航するようにと要請します。ビドルはそれ以上の交渉を諦めて帰国します。

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ジェームズ・ビドル
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

また1849年には長崎にアメリカ海軍のジェームス・グリン中佐(James Glynn)が乗った軍艦「プレブル号(USS Preble)」が来航します。3年前に蝦夷地の沖で遭難して長崎で抑留されているアメリカ捕鯨船の船員を救出することが目的です。グリンは慎重に交渉を進めるように命じられていましたが、幕府の役人はのらりくらりと言い逃れをして埒があきません。そこでグリンは船員たちを釈放しないと強硬手段に出ると宣言します。すると日本側の態度は急変し、2日後に船員たちは解放されてプレブル号は帰還します。グレンは後に米国政府に対して「日本との交渉では場合によっては強さを見せることも必要だ」と上申します。これがペリーの開国交渉の方針となります。

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プレブル号(1839年の絵画)
By Per Honor et Gloria [Public domain], via Wikimedia Commons

だいぶ話が長くなってしまいました。いよいよペリーの登場です。
アメリカは日本を開国させるために、まさに国家をあげてとりくみます。過去のポルトガルやオランダや中国朝鮮との通商関係やキリスト教の禁令の歴史、近年のイギリスやロシアやアメリカとの交渉の経緯と日本の対応の特徴、日本そのものの地理や資源や気候、日本人の性質や知性や武力などを詳細に調査し、どのように対応するのが最善かを研究しつくします。その上で、アメリカ海軍最高位にして知性と気概をあわせ持つペリーを派遣するのです。ペリーが58歳の頃です。

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ペリー(1855-56年頃撮影)
By Alexander Beckers and Victor Piard [Public domain], via Wikimedia Commons

1852年、ペリーは日本への特使としてアメリカ大統領ミラード・フィルモア(Millard Fillmore)の親書をたずさえ、バージニア州のノーフォークを出港します。乗り組んだのは蒸気外輪フリゲート艦ミシシッピ号。6年前にペリーが艦長として指揮をとって米墨戦争で活躍した愛艦で、3隻の僚艦を従えた航海です。

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フィルモア大統領(1855-65年頃撮影)
United States Library of Congress [Public domain], via Wikimedia Commons

アメリカ政府が日本に使節団を派遣することは出発の1年も前から世界に公表され、世界から注目されます。そして多くの人はこれまでと同様に失敗に終わるだろうと予想します。
またこの知らせはオランダ商館を通して日本にも伝わります。大河ドラマなどではペリーが突然来航して日本が慌てふためいたように演出されることも多いですが、実は世界的に十分アナウンスされ、日本にも知らされた上での訪問だったのです。
ペリーの艦隊は大西洋のマデイラ諸島とアフリカ南端のケープタウン、インド洋のモーリシャスとセイロン、シンガポールとマカオ、香港を経て上海に到着します。
ペリーは大きな体と威厳のある風貌と大きな声に特徴があり、水兵からは「熊おやじ(Old Bruin)」とあだ名をつけられたそうです。
ペリーは上海で合流した蒸気外輪フリゲート艦「サスケハナ号(USS Susquehanna)」に旗艦を移し変え、日本に向かいます。

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サスケハナ号(1860年代撮影)
By Template:Crator:Frederick Gutekunst ([1]) [Public domain], via Wikimedia Commons

1853年(嘉永6年)5月、ペリーは琉球の那覇に立ち寄り、首里城を表敬訪問して役人たちと会見します。この時の会話は琉球人の通訳を介して中国語で行われますが、琉球人の通訳は多少の英語も話せたそうです。ペリーは首里を訪問した印象として、
“Never have I seen a city or town exhibiting a greater degree of cleanliness.”
「これほど清潔な都市を私は今まで見たことはない」
【参考】ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫), M・C・ペリー (著), F・L・ホークス (編集その他), 宮崎 壽子 (翻訳)
と感嘆しています。接待を受けた料理の味についても、「中国料理よりまさっていた」と語っています。
ペリーは小笠原諸島を調査していったん那覇へ戻った後、7月2日に那覇を出港します。

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首里城正殿(復元)(2011年撮影)
By 663highland (Own work) [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY 2.5], via Wikimedia Commons

そして1853年(嘉永6年)7月8日、ペリー艦隊は三浦半島の沖に到達します。沿岸からは幕府の大型船が漕ぎよせますが、風に逆らって帆船2隻を曳航する2隻の蒸気船に振り切られます。また沿岸の砲台が何発か発砲しますが、信号と威嚇射撃に留まります。そしてペリーの艦隊が浦賀沖に錨を下ろすと、いつものように多数の小型船が取り囲みます。それまでの軍艦の慣例では乗船を許していましたが、ペリーは勝手な乗船を許しません。

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異国船を取り囲む日本の小型船
こうやって上陸を阻止するのが日本の常套手段だった
(1846年にアメリカのジェームズ・ビドル代将が来航した時の絵画)
By John Eastley (1848) (1848 John Eastley painting. Reproduction in [1]) [Public domain], via Wikimedia Commons

やがて浦賀の副奉行を名乗る浦賀奉行所与力の中島三郎助さぶろうすけとオランダ語通訳が乗船を許されます。ペリー自身は故意に長官室に閉じこもり、副官を通して幕府側と交渉します。幕府側はいつも通り、異国との交渉は長崎に限られるので長崎へ行くようにと通告します。しかしペリーは副官を通して断固たる意志を伝えます。

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ペリー(中央)と副官たち
『合衆国水師提督口上書』(1853年)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

ペリーは副官を通して次のように主張します。
・自分は合衆国海軍の最高位の軍人にして大統領から将軍へあてた親書を持った一国の代表である。
・日本側の最高位の役人でなければ交渉しない。
・国家レベルの友好的な訪問に対して、過去にとられたような無礼な対応は断固として許さない。
・長崎ではなくこの地で速やかに親書を受け取られたい。
・本艦隊を小型船が取り巻いている状況は放置できず、すぐに撤退しなければ武力を行使する。
三郎助は、親書の受け取りは確約できないが、より高位の役人が来訪するよう手配する答えます。
また部下に命じて小型船を退去させ、その後は決して艦隊に近づかないように指示します。
ペリーの強硬な態度が功を奏したのです。

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日本人が描いたペリー(1854年の絵画)
(ホノルル美術館蔵)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

浦賀は見物人であふれます。これまでも黒く塗られた貿易船や軍艦は日本へ来航しており「黒船」という名称もありました。しかし蒸気船が来航したのは今回が初めてです。船体が黒い上にもうもうと黒煙を吐く蒸気船2隻を含む黒船4隻は一列に並び、艦載砲の照準を浦賀の町に合わせて威嚇します。
夜になると両岸一面にかがり火が焚かれ、非常事態を知らせて警戒をうながす半鐘はんしょうの音がカンカンと一晩中鳴りやまなかったそうです。
まさに、狂歌にうたわれた
「泰平の眠りを覚ます上喜撰じょうきせん
 たった四杯しはいで夜も眠れず」

の状態です。これ以降「黒船」といえばペリー艦隊の来航のことを指すようになります。
なおペリーの記録によると、その夜半から明け方の間に、青い炎を放つ珍しい流星(火球)が出現して空一面を明るく照らしたそうです。

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江戸湾を航行する黒船
(1862年の絵画)
By Osai (Beinecke Rare Book & Manuscript Library) [Public domain], via Wikimedia Commons

日本側では浦賀奉行所与力の香山栄左衛門えいざえもんが浦賀奉行と称して交渉にあたり、何度か艦上での交渉が持たれます。ペリーは相変わらず姿を見せず、アメリカ側は部下が交渉を行います。交渉の後で食事と酒による接待が行われますが、アメリカ人たちは栄左衛門と随行員たちの優雅で洗練された紳士らしい容姿とマナー、オランダ語や中国語の語学力、艦砲や蒸気機関や欧米の地理に関する知識と教養に感心します。
時の将軍は第12代の徳川家慶いえよしです。しかし家慶はこの時病床に伏せており、国の一大事を判断できる状態ではありません。そこで老中首座の阿部正弘は「親書を受け取るぐらいなら仕方ない」として親書の受領を決定します。

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阿部正弘
(「阿部正弘公肖像画」の白黒写真)
By published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) [Public domain], via Wikimedia Commons

そして7月14日、ペリーと将兵300人が久里浜に上陸します。日本側は上陸地点だけでなく目が届く限りの丘の上まで幕府や諸藩の将兵たちに埋め尽くされます。騎馬や徒歩の無数の将兵が槍や刀や火縄銃などで武装し、ペリーの上陸を固唾を飲んで見守ります。ペリーたち一行は急造された応接場に入り、浦賀奉行の戸田氏栄うじよしと井戸弘道に親書を手交します。アメリカと日本との友好関係の樹立、石炭と食料の供給、漂流民の保護、そして交易の開始などを求めた親書です。
ペリーは親書に対する回答を受け取るために、来年の4月か5月に戻ってくると話します。ペリーの艦隊は浦賀を離れ、江戸湾奥へ侵入して幕府を十分威嚇した後に退去し、琉球に寄ってから香港へ向かいます。
将軍家慶はペリーが去った10日後に亡くなります。

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応接場での大統領親書の手交の儀式
『ペリー提督日本遠征記』(1856年)の挿絵
T. Sinclair'S Lith. Delivery of the President's letter / T. Sinclair's Lith., Philada. Japan United States, 1856. [Philada.: T. Sinclair's Lith] Photograph. Retrieved from the Library of Congress, https://www.loc.gov/item/2003689057/. (Accessed March 09, 2017.)

1854年(嘉永7年)2月13日、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航します。旗艦は蒸気外輪フリゲート艦「ポーハタン号(USS Pawhatan)」。前回も来たサスケハナ号とミシシッピ号も含めた蒸気船3隻、帆船3隻の計6隻の来航です。浦賀にはまたも見物人が多数つめかけ、観光地のような賑わいとなります。
予告されていたよりも早い来航に幕府は慌てます。時の将軍は第13代の徳川家定いえさだですが彼もまた病弱のため、老中首座の阿部正弘が引き続き幕政を取り仕切っています。幕府は長い協議の末に開港やむなしと決定し、交渉の準備を始めます。

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日本人が描いたペリー(1854年頃の絵画)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

3月8日、ペリーと将兵500人近くが神奈川に上陸し、ここでも急造された応接場に入ります。日本側の代表は幕府から全権を委任された儒者の大学頭だいがくのかみ復斎ふくさい。復斎は江戸の湯島にあった幕府の教育機関「昌平坂しょうへいざか学問所」の塾頭です。今で言ったら東京大学の総長といったところでしょうか。交渉には江戸北町奉行の井戸覚弘さとひろや浦賀奉行の伊沢政義らも列席します。

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神奈川に上陸するペリーの使節団
随行画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ(1855-56年)
By Гейне Вильгельм (https://uk.wikipedia.org/wiki/Файл:Perry_03.jpg) [Public domain], via Wikimedia Commons

林は柔軟に交渉を進め、下田と箱館の開港は認めたものの交易は時期尚早であると断固として拒絶し、ペリーもそれに合意します。そして3月31日、日米和親条約(Japan–US Treaty of Peace and Amity)が結ばれます。日本語の正式名称は「日本國米利堅メリケン合衆國和親條約」です。


【動画】“日米和親条約で日本は開国していない”, by WARAU kami, YouTube, 2013/11/26

日米和親条約の第一条の英文は次の通りです。
“Article I.
There shall be a perfect, permanent, and universal peace, and a sincere and cordial amity between the United States of America on the one part, and the Empire of Japan on the other part, and between their people respectively, without exception of persons or places.”
ここで、日本のことは“the Empire of Japan”と書かれているのが興味深いです。将軍だけではなく天皇の存在も海外には知られていたので日本の国は「帝国(Empire)」であると認識されていたのですね。まだ江戸時代で、明治政府が「大日本帝国」を名乗る前の話です。
なお、「帝国」には二つの意味があります。一つは皇帝が支配する国という意味、もう一つは複数の地域や民族を支配する強大な覇権国家という意味です。この場合の「帝国」は前者にあたり、連合王国(イギリス)やデンマーク王国、モナコ公国やルクセンブルク大公国などと似た呼び方です。ちなみに後者の「帝国」はローマ帝国やモンゴル帝国、ポルトガル海上帝国、スペイン帝国などがあります。大英帝国は前者の意味では「王国」ですが、後者の意味で「帝国」と呼ばれます。また冷戦時や冷戦後のアメリカもその強権ぶりを「帝国」と呼ばれ、左翼勢力からは「米帝」などとも呼ばれます。

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日米和親条約の英語版原文
(アメリカ国立公文書館蔵)
Cropped by Jim Saeki on 12 March 2017 [Public domain], via National Archives and Records Administration

日本語原文は次のようになります。
「第一ヶ条
一 日本と合衆國とハ其人民永世不朽の和親を取結ひ場所人柄の差別無之候事」
おっと、何だか短かいですね。でも英文に描かれたすべての要素は盛り込まれています。漢文調なのであっさりして見えてしまうのですね。
宮崎壽子氏による現代語訳がわかりやすいのでご紹介します。
「アメリカ合衆国と日本帝国、および両国民の間には、人格または場所の例外なく、完全かつ永久なる普遍的平和と誠実かつ懇篤こんとくなる和親とが存するものとする。」
【参考】ペリー提督日本遠征記 (下) (角川ソフィア文庫), M・C・ペリー (著), F・L・ホークス (編集その他), 宮崎 壽子 (翻訳)
なるほど、こちらの方がわかりやすいですね。両国が目指した「和親」とは何かということがよくわかります。
また、条約の第二条には下田の即時開港と箱館の1年後の開港が記載されます。第三条と第四条には難破船と遭難者の扱いが、第五条には下田や箱館の居留民の行動が、それぞれ定められます。

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日米和親条約の日本語版批准書(2009年撮影)
(外務省外交史料館蔵)
By World Imaging [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons

ペリーたちは日本側へのみやげ物として、ミニ蒸気機関車や電信装置を持ってきており、神奈川の町で披露を行って評判となります。また幕府側は相撲の特別興行を行ってペリー一行を歓待します。
また幕府側は神奈川の応接場で莫大な費用をかけてペリーたちに料理と酒をふるまいます。しかし素材的にも(肉料理はなく魚料理ばかりだった)味覚的にも量的にもペリーたちは今ひとつ満足できなかったようで、「琉球人の方が日本人より食生活ではまさっていた」との感想が残っています。
一方でペリーは日本側の代表団を何度も船に招いて西洋料理と酒をふるまいます。こちらは大変好評だったようで、日本人たちの誰もが残った料理を懐紙に包んで持ち帰ることを驚きをもって書き記しています。

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ペリーたちを接待する相撲試合
『ペリー提督日本遠征記』(1856年)の挿絵
By Internet Archive Book Images [No restrictions], via Wikimedia Commons

日米和親条約を締結して目的をはたしたペリーは、開港地である伊豆の下田を訪れて滞在します。
ペリーが下田に滞在中、ある事件が起こります。二人の日本人の若者が、停泊する艦隊に夜間小舟で乗り付けたのです。ペリーは通訳を送って二人の目的をたずねさせると、二人はぜひアメリカに連れていって欲しいと懇願します。ペリーは、連れて行きたいのはやまやまだが残念ながら連れていくわけにはいかないと答えさせ、二人を退船させます。二人は下田奉行所に自首して捕縛され、投獄されます。

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アメリカに密航しようと黒船に向かう二人の若者
(錦絵なので情景がドラマチックに誇張されている)
By Csalt39507 (Own work) [CC0], via Wikimedia Commons

ペリーは二人の好奇心と勇気、いさぎよい態度に関心し、幕府側に寛大な処置を求めます。『ペリー提督日本遠征記』にはペリーの感想として次のように記されています。
“In this disposition of of the people of Japan, what a field of speculation, and, it may be added, what a prospect full of hope opens for the future of that interesting country!”
「この日本人の性向を見れば、この興味深い国の前途はなんと可能性を秘めていることか、そして付言すれば、なんと有望であることか!」
【参考】ペリー提督日本遠征記 (下) (角川ソフィア文庫), M・C・ペリー (著), F・L・ホークス (編集その他), 宮崎 壽子 (翻訳)
ペリーはもし開港交渉という重要任務さえなければ、二人の密航を黙認したかもしれません。
この二人は長州の吉田松陰しょういんと金子重之輔しげのすけ。江戸に収監された後に長州の萩に檻送され、重之輔は翌年獄死します。松陰は松下村塾しょうかそんじゅくを開きますが、密航未遂の5年後に安政の大獄で刑死します。29歳の時のことです。

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吉田松陰(19世紀後半の肖像画)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

それにしてもイギリスやロシアやフランスなどの列強が極東に領土的野心をむき出しにする中で、日本はなんとも絶妙な時期になんとも絶妙な国に対して開国したものです。日米和親条約はその後の列強との条約の基盤となります。
その後アメリカは南北戦争でしばらく国際社会に関わっていられなくなりますが、開国した日本は幕末の動乱を経て、列強に植民地化されることもなく見事に国際社会へ羽ばたきます。
ペリーは条約締結の翌年にアメリカに帰国し、さらに3年後の1858年に亡くなります。63歳。松陰が刑死する前年のことです。
今回は長い長い記事となってしまいました。日本の開国に至る道のりが面白すぎてつい筆が進んでしまいました。

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下田にあるペリー艦隊来航記念碑(2004年撮影)
By Fg2 (Own work) [Public domain], via Wikipedia

“What a prospect full of hope opens for the future of that interesting country!”
この興味深い国にはなんと希望にあふれた未来が開けることか!

綿密な調査と計画の上で日本の開国に成功したペリー。
松陰たちの意思と気概を知って大きく心を動かされ、日本の未来が明るいものであると予想しました。
「完全かつ永久なる普遍的平和と誠実かつ懇篤なる和親」を目指した日米和親条約。
後に日米は不幸にも戦争をすることになりますが、現在は緊密な友好と同盟の関係にあります。
ペリーの思いが実ったと言ってよいでしょう。


【動画】“「ペリー来航」 踊る授業シリーズ 【踊ってみたんすけれども】 エグスプロージョン feat. トレンディエンジェル斎藤”, by エグスプロージョン チャンネル, YouTube, 2015/05/22


【動画】“【KissBee】ペリー来航を踊ってみた〜踊る授業シリーズ第二弾〜”, by Kiss Bee チャンネル, YouTube, 2015/06/20

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。


【動画】“〈貴重〉ペリーの肉声!?”, by I'm a pen., YouTube, 2015/02/13
【動画】“ペリーの肉声”, by satoumizuHP, YouTube, 2011/08/25

【関連記事】第411回:“The Japanese are truly the delight of my heart.”―「日本人は本当にわが心の喜びである」(ザビエル), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年03月02日
【関連記事】第414回:“The people of Japan are good, curteous and valiant.” ―「日本の人々は善良で礼儀正しく、勇敢である」(ウィリアム・アダムス(三浦按針)), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年03月14日
【関連記事】第406回:“Chipangu is an Island towards the east in the high seas.”―「ジパングは東方の大洋中にある島である」(マルコ・ポーロ『東方見聞録』より), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年03月02日
【関連記事】第409回:“The church says the earth is flat, but I know that it is round.”―「教会は地球は平らだと言うが、私は丸いことを知っている」(マゼラン), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年02月22日
【関連記事】第408回:“Who among you, gentlemen, can make this egg stand on end?”―「皆さんの中でこの卵を立てられる人はいますか」(コロンブス), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年02月18日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“Narrative of the expedition of an American squadron to the China Seas and Japan, performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the command of Commodore M. C. Perry, United States Navy, by order of the government of the United States(ペリー提督日本遠征記)”, by Perry, Matthew Calbraith, 1794-1858; Hawks, Francis L. (Francis Lister), 1798-1866, Published 1856
【参考】ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫), M・C・ペリー (著), F・L・ホークス (編集その他), 宮崎 壽子 (翻訳)
【参考】ペリー提督日本遠征記 (下) (角川ソフィア文庫), M・C・ペリー (著), F・L・ホークス (編集その他), 宮崎 壽子 (翻訳)
【参考】“江戸期の日露交流”, by Moto Saitohさん, Moto Saitoh's Home Page
【参考】“第1章 阿部正弘と幕末の始まり”, by 甲斐素直さん, 甲斐素直の家
【参考】“吉田松陰の足跡をめぐる旅(下田編)”, by いしんたろうさん, 吉田松陰.com
【参考】“The Treaty of Kanagawa(日米和親条約)”, Online Exhibits, National Archives
【参考】“The Treaty of Kanagawa (English Version)(日米和親条約(英語版))”, Online Exhibits, National Archives

【動画】“日米和親条約で日本は開国していない”, by WARAU kami, YouTube, 2013/11/26
【動画】“「ペリー来航」 踊る授業シリーズ 【踊ってみたんすけれども】 エグスプロージョン feat. トレンディエンジェル斎藤”, by エグスプロージョン チャンネル, YouTube, 2015/05/22
【動画】“【KissBee】ペリー来航を踊ってみた〜踊る授業シリーズ第二弾〜”, by Kiss Bee チャンネル, YouTube, 2015/06/20
【動画】“〈貴重〉ペリーの肉声!?”, by I'm a pen., YouTube, 2015/02/13
【動画】“ペリーの肉声”, by satoumizuHP, YouTube, 2011/08/25

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posted by ジム佐伯 at 07:00 | ロンドン ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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