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2017年03月06日

第412回:“Life at sea is better.”―「海で暮らす方がいい」(フランシス・ドレーク)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。



第412回の今日はこの言葉です。
“Life at sea is better.”

「海で暮らす方がいい」
という意味です。
“It isn't that life ashore is distasteful to me. But life at sea is better.”
「浜辺で暮らすのは悪くない。でも海で暮らす方がいい」
という言葉の一部です。
これはイングランド出身の冒険家にして海賊、そして海軍提督にもなったフランシス・ドレーク(Sir Francis Drake, 1543頃-1596)の言葉です。ナイトに叙せられ、サー・フランシス・ドレーク(フランシス・ドレーク卿)とも呼ばれます。
海賊にして海軍提督って、いったいどんな人なんでしょうか。

0412-marcus_gheeraerts_sir_francis_drake.jpg
フランシス・ドレーク
Marcus Gheeraerts the Younger [Public domain], via Wikimedia Commons

1543年頃、フランシス・ドレークはイングランド西部のタヴィストック(Tavistock)という町に生まれます。父親はプロテスタントの農民でしたが後に牧師となり、一家はイングランド南東部のメドウェイ(Medway)という町に移ります。 ドレークは近所に住む船長が持つ帆船で航海と商売を学び、老船長から船を遺贈されるほどの信任を得ます。
ドレークは20代前半に親戚のジョン・ホーキンス(John Hawkins)が率いる航海に参加します。ホーキンスらは4隻の船でアフリカ西岸に立ち寄って奴隷を調達し、カリブ海で海賊行為を働きながら南米にあるスペイン支配下の今のコロンビアで奴隷を売却し、巨額の利益を得て翌年イングランドに帰国します。ホーキンスは投資家に60%という大きな利益を配当します。

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ジョン・ホーキンス
Hieronimo Custodis (fl. 1589–1598), cropped by Jim Saeki on 4th February 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

さらに2年後、ドレークは自ら調達した帆船の船長となり、再びホーキンスの航海に参加します。ホーキンスとドレークはアフリカで奴隷を調達した後、ポルトガルの奴隷船を捕えて積荷と奴隷を奪取します。彼らはスペイン支配下のメキシコへ向かいますが、スペイン艦隊16隻に遭遇して戦闘になります。サン・フアン・デ・ウルアの戦い(Battle of San Juan de Ulúa, 1568)です。ドレークたちの艦隊は7隻中1隻が沈没して3隻が拿捕され、1隻が破損して2隻のみがイングランドへ命からがら逃げ帰ります。ドレークはこの屈辱を忘れず、スペインへの復讐を誓います。

0412-battle_of_san_juan_de_ulua.jpg
サン・フアン・デ・ウルアの戦い
(1887年のイラスト)
By Frederick Whymper, provided by the British Library from its digital collections [Public domain], via Wikimedia Commons

「おいおい、ちょっと待ってよ」と、僕は調べていて思いました。
20代のドレークは完全に海賊です。そして奴隷を取引したり、資本家に利益を配当したりと、商人としても働いています。でも海賊に投資する資本家なんているのでしょうか。さらにポルトガルの船を拿捕したり、スペインの艦隊と戦ったりと、もうめちゃくちゃです。
ポルトガルはバスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)が1498年に切り開いたインド航路を基盤に、アフリカ沿岸からインド、東南アジアの海域を支配して香料貿易を独占し、「ポルトガル海上帝国」と呼ばれています。
またスペインは1492年にクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)が発見した新大陸の植民地化を着々と進め、1520年から3年かけてフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)の艦隊が達成した世界一周航海の途中で立ち寄ったフィリピンも植民地とする大帝国を築き上げています。
こんなに強大でイケイケなスペインやポルトガルに喧嘩を売って大丈夫なのでしょうか。

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最盛期のスペイン(赤)とポルトガル(青)の領土
By en:User:Câmara [Public domain], via Wikimedia Commons

いえいえ、大丈夫じゃないんです。やはり当時のスペインやポルトガルは最強です。
コロンブスによる新大陸発見の2年後に、西経46度37分の子午線の西をスペイン領、東をポルトガル領にするというとんでもないトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)(1494年)を結んだぐらい最強です。マゼラン艦隊が世界一周に成功した6年後に、あわててもう1本の境界線を東経144度30分に決めるというこれまたとんでもないサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)(1529年)を結んだぐらい最強です。

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1529年のサラゴサ条約で新たに定めた境界線(右)
左の点線は1493年にひかれた教皇子午線
左の実線は1494年のトルデシリャス条約で定めた境界線
By Lencer (Own work) [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

イギリスはフランスとの百年戦争(Hundred Years' War, 1337-1453)や内戦である薔薇戦争(Wars of the Roses, 1455-1487)などの戦乱が続き、大航海時代に乗り遅れます。そしてその後のテューダー朝(Tudor dynasty)の時代に絶対王政がようやく安定して、イギリスは国外への進出を目指します。
しかし時すでに遅し。七つの海はポルトガルとスペインに二分され、ローマ教皇もそれを承認しています。イギリスが公式に貿易拠点や植民地を獲得することは建前上できませんし、実力的にも強力な艦隊はありません。
そこでどうしたか。
海賊(Pirates)の登場です。イギリスは海賊たちにポルトガルやスペインの船や植民地を襲って金品を奪ってもよいという私掠しりゃく免許(Letter of Marque)を与えたのです。私掠船しりゃくせん」(Privateer)と呼ばれる海賊船は国が公式に略奪を認めたもので、その利益は国王と海軍、船長と出資者と乗組員に分配されます。
ホーキンスとドレークも、女王エリザベス1世(Elizabeth I)から私掠免許を与えられています。
国が海賊を雇って他国から金品を奪うとは穏やかではありませんが、フランスやオランダ(ネーデルランド)など貿易国家を目指す後発国はだいたい同じ手を使います。
まあ、そもそもスペインも新大陸で虐殺と略奪を繰り返す国家がかりの海賊のようなものだったんですけどね。

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エリザベス1世
(1575年頃の肖像画)
Painted by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

このように女王陛下から海賊行為のお墨付きを得たドレークは、その後もカリブ海の島々や新大陸の沿岸を荒らし回り、大量の財宝を手に入れます。
そして1577年、ドレークは帆船ゴールデン・ハインド号(Golden Hind)に乗り、イングランド西部の港町プリマスから5隻の艦隊で世界一周の旅に出ます。ドレーク34歳の頃です。今回も当然エリザベス1世の免状を持っていますから、略奪する気満々です。

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ゴールデン・ハインド号
ブリクハム港の復元船
by Barry Lewis (Brixham Battleship) [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons

ドレークはマゼラン海峡のさらに南を回って南アメリカ最南端のオルノス島の南端にあるホーン岬を発見し、その南を通って太平洋に抜ける航路を発見したを言われています。南米大陸と南極大陸との間にあるこの海峡は現在「ドレーク海峡(Drake Passage)」と呼ばれています。
その後ドレークはチリやペルーの沿岸のスペインの植民地を荒らし回ったり、スペインへ向かう船を襲撃して財宝を根こそぎ奪い取ったりしながら航海を続けます。
その後ドレークの艦隊はメキシコやカリフォルニアを経て太平洋を横断し、フィリピン南部や香料諸島を荒らした後に喜望峰をまわってプリマスに帰港します。1580年のことです。
1522年にマゼラン艦隊が世界一周航海を達成した後、スペインは多くの艦隊を世界一周に送り出しますが、ことごとく失敗します。ドレイクの艦隊は実に58年ぶりに世界で2番目の世界周航に成功したのです。マゼラン艦隊の5隻中わずか1隻のサンタ・マリア号が生還したのと同様に、ドレーク艦隊も5隻中わずか1隻のゴールデン・ハインド号が生還します。しかし持ち帰った財宝の価値は30万ポンドを越え、当時のイングランドの国家予算を上回ります。
この偉業によりドレークはナイトに叙せられてサーの称号を得て、王立海軍の中将に任命されます。

0412-drake_1577-1580.png
ドレークの航路
By Continentalis (This file was derived from  World Topography.jpg:), Japanese text added by Jim Saeki on 4th February 2017 [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

ドレークは間もなくプリマスの市長に選ばれ、さらに国会議員にもなります。しかしスペインとの関係が悪化したため再び海軍に戻ります。
時のスペイン王はフェリペ2世(Felipe II)。1580年にポルトガル王にもなってポルトガルを併合し、世界中に広大な植民地を持つ「太陽の沈まない帝国」の盟主となっています。しかしドレークらイギリスの私掠船がスペインの植民地や船を襲って財宝を収奪する海賊行為を繰り返していることにキレかけています。海賊行為を取り締まるようにエリザベス1世に要請しても、エリザベス1世は取り締まるどころか海賊の親玉的な存在ですから聞く耳を持ちません。さらに1581年にネーデルランド(今のオランダ)がフェリペ2世の統治権を否定し、エリザベス1世はオランダ独立を支援してスペインと戦争状態になります。ついにキレたフェリペ2世は大艦隊によるイギリス侵攻を計画します。

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フェリペ2世
By Antonis Mor [Public domain], via Wikimedia Commons

1587年、ドレークの艦隊は逆侵攻してスペインを先制攻撃します。ドレークはスペイン西部のコルーニャやカディスの港を攻撃し、軍艦や商船あわせて37隻を撃破します。これによりスペインのイギリス侵攻は1年以上遅れたと言われます。
しかし1588年、「無敵艦隊(Invincible Armada)」と呼ばれたスペイン艦隊がリスボンの港からイギリスを目指して出撃します。軍艦28隻と武装商船102隻からなる130隻の大艦隊で、出港だけで2日を要し、海を圧してイギリスへ向かいます。

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スペイン北西部フェロン港を出港する無敵艦隊
By Creator:Oswald W. Brierly [Public domain], via Wikimedia Commons

ドレークはイギリス艦隊の副総司令官として実質的な指揮をとり、スペイン艦隊を迎え撃ちます。
ドレークは果敢にも先制攻撃をかけようと艦隊を南下させますが、向かい風が強かったため断念していったん引き返します。イギリス艦隊は軍艦34隻と武装商船163隻からなる約200隻。数には勝りますが小型船が多く、火力ではスペインが圧倒的に有利だったと言われます。
両艦隊はプリマス沖で初めて接触し、戦端を開きます。しかし帆船時代の海戦は敵味方とも自由な艦隊行動ができず、遠距離での砲戦ではどちらも決定的な打撃を敵に与えることができません。スペイン艦隊は英仏海峡を東進し、イギリス艦隊がそれを追います。ポートランド沖とワイト島沖での海戦の後、スペイン艦隊は英仏海峡の東端で最も狭くなっているドーバー海峡のフランス側にあるカレーの港に停泊します。40キロほど東のダンケルクに集結してイギリス・オランダ連合軍に海上封鎖されているスペイン陸軍と合流しようとしたのです。しかしドレークは深夜ひそかにカレー港に接近し、硫黄や火薬を満載して火をつけた火船8隻を風上側から停泊地に突入させます。スペイン海軍は大混乱となり、防御陣形を崩して散り散りとなってしまいます。カレー沖海戦(Battle of Calais)です。

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『無敵艦隊の敗北』(Defeat of the Spanish Armada)
(フィリップ・ジェイムズによる1797年の絵画)
Philip James de Loutherbourg [Public domain], via Wikimedia Commons

スペイン艦隊はカレーとダンケルクのほぼ中間地点のグラヴリンヌの沖で再集結をはかり、イギリス艦隊と激突します。グラヴリンヌ沖海戦(Battle of Gravelines)です。イギリス艦隊は優勢な速度と機動性を生かし、スペイン艦隊に射程距離外から発砲させて砲弾を消費させた後に風上の方角から近距離に近づきます。そして敵艦が風で傾いて露出した喫水線下に砲弾を撃ち込んで大きな損害を与えます。スペイン軍は陸兵による接舷斬り込み戦法で勝負をつける作戦でしたが、イギリス軍はこれを察知し、距離をとって白兵戦を徹底的に避けます。その後は嵐となり双方とも戦闘は継続できなくなりますが、スペイン艦隊は5〜10隻を喪失します。
この海戦で、スペイン艦隊はダンケルクの陸軍と合流する計画を断念します。

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グラヴリンヌ沖海戦
Nicholas Hilliard [Public domain], via Wikimedia Commons

その後風向きが変わり、スペイン艦隊はフランス沿岸を離れてブリテン島東岸を北上します。
イギリス艦隊は弾薬がほとんど尽きていましたが、スペイン艦隊を追撃します。イギリスは敵がテムズ川の河口をさかのぼってロンドンに攻め込む場合もあると考え、防備を固めます。
しかしスペイン艦隊はさらに北上します。ブリテン島の北を回って大西洋に出て、スペインに帰還しようとしたのです。やがてイギリス艦隊も追撃を中止します。
スペイン艦隊から脱落した船やアイルランドに向かった船は嵐にあって沈没したり座礁したりします。上陸したスペイン兵たちも住民やイギリス兵に虐殺されます。

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アイルランド海岸で難破したスペイン船のジローナ号
By Notafly (Own work) [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons

残った艦隊は出撃の4ヶ月半後にスペインへ帰還しますが、艦隊はほぼ半数の67隻に減っています。さらにそのまた半数は再使用不能な状態となっており、帰還直後に沈み始めた船まであったそうです。
乗組員の大多数は飢餓と病気で瀕死の状態で、帰還兵の多くが帰還した港の病院船で死亡します。スペイン軍の死者は全将兵3万人のうち2万人にも上りましたが、餓死や病死、溺死、そして虐殺されて死亡した兵がほとんどで、その数は海戦での戦死者数600をはるかに上回ったそうです。
無敵艦隊は完敗したのです。

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無敵艦隊の進路
History Department of the United States Military Academy [Public domain], via Wikimedia Commons

これに対してイングランドの艦隊は1隻も沈まず、戦死者も100名程度に留まりま、戦病死6千人もスペイン軍より少なく済みます。またそれまでの海戦の戦法は、艦首水面下の衝角で敵艦に体当たりして喫水下に穴を開けて沈める衝角突撃と、敵艦に接舷して陸兵が乗り移って白兵戦を行う接舷斬り込み戦闘が主流です。古代ローマの時代とあまり変わっていません。これに対してイギリス海軍は、それまで補助的な役割だった砲撃で敵艦に打撃を与えて勝利を得たのです。
しかしイギリスはこれで海上の覇権を握ったわけではありません。スペインは無敵艦隊を再建し、その後4度に渡ってイギリスへ侵攻します。そのうち2回は悪天候で、さらに2回は別の理由で失敗に終わりますが、イギリスが海上の覇権を握るまでにはさらに長い年月が必要とします。

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スペイン無敵艦隊
国立海事博物館(ロンドン)蔵
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

翌1589年、ドレークはイギリス艦隊を率いてスペインに逆侵攻します。「イギリス無敵艦隊(English Armada)」と呼ばれ、4隻の軍艦と60隻の武装商船からなる艦隊でリスボンやコルーニャのスペイン残存艦隊を攻撃したのです。しかしこの戦いでイギリス艦隊は約40隻の船を沈没や拿捕で失う大損害を出して撤退し、攻撃は失敗に終わります。
そして1595年、ドレークはスペイン領カナリア諸島のラス・パルマスに侵攻しますがこれまた失敗に終わります。さらに翌1596年、スペインの植民地だったカリブ海のプエルトリコでサンファンの戦い(Battle of San Juan)にも敗れます。ドレークは赤痢か黄熱病にかかり、パナマの港町ポルトベロ沖に停泊中の船内で亡くなります。

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ドレークの水葬
Lobsterthermidor at en.wikipedia [CC0], via Wikimedia Commons

イギリスではその後も黒髭くろひげ(Blackbeard)」と言われたエドワード・ティーチ(Edward Teach)や、財宝を隠したとして宝探しの夢を広げた「キャプテン・キッド(Captain Kidd)」ことウィリアム・キッド(William Kidd)など、個性豊かな海賊たちがカリブ海を荒らし回ります。これらの海賊たちは後の様々な海賊物語の原型となります。
また、イギリスは次第に海軍力を強化して、7つの海を支配する大英帝国につながっていくのです。

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黒髭ことエドワード・ティーチ
By Joseph Nicholls (fl. 1726–55).[1] Although James Basire (1730–1802) is attributed as the engraver based on the signature "J. Basire", unless he engraved the item at the age of 6, it is likely his father Isaac Basire (misreading of initial?) or another J. Basire, cropped by Jim Saeki on 4th February 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

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キャプテン・キッドことウィリアム・キッド
宝を埋めている想像図
Howard Pyle [Public domain], via Wikimedia Commons


【動画】“Pirates of the Caribbean: The Curse of the Black Pearl Official Trailer 1 (2003) HD (『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』公式予告編1 (2003年))”, by Movieclips Trailer Vault, YouTube, 2013/09/19

“Life at sea is better.”
海で暮らす方がいい。

カリブ海を荒らし回った海賊だったのが英国でサーの称号を得たフランシス・ドレーク。
実に海賊らしい言葉ではありませんか。
王立海軍の提督としてスペイン無敵艦隊を打ち破り、イングランドの救世主となりました。
火をつけた船を敵艦隊に突っ込ませる戦法は、海賊ならではのアイディアです。
海を愛し、海に生きたドレーク。
亡くなったのも船の上でした。52歳でした。


【動画】“Sir Francis Drake Video (フランシス・ドレーク卿 動画)”, by HistoryForEDU, YouTube, 2013/02/11

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。


【動画】“Sir Francis Drake (Intro) S1 (1961) (「フランシス・ドレーク卿」(1961年))”, by RetroAlexander, YouTube, 2013/06/22

【関連記事】第409回:“The church says the earth is flat, but I know that it is round.”―「教会は地球は平らだと言うが、私は丸いことを知っている」(マゼラン), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年02月22日
【関連記事】第408回:“Who among you, gentlemen, can make this egg stand on end?”―「皆さんの中でこの卵を立てられる人はいますか」(コロンブス), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年02月18日
【関連記事】第259回:“England expects that every man will do his duty.”―「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」(ネルソン提督), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2015年11月23日
【関連記事】第103回:“You, happy Austria, marry.”―「幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」(ハプスブルク家), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年10月05日
【関連記事】第396回:“Fog in Channel, Continent Isolated”―「英仏海峡に霧、大陸孤立す」(イギリスのジョーク), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年01月06日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版

【動画】“Pirates of the Caribbean: The Curse of the Black Pearl Official Trailer 1 (2003) HD (『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』公式予告編1 (2003年))”, by Movieclips Trailer Vault, YouTube, 2013/09/19
【動画】“Sir Francis Drake Video (フランシス・ドレーク卿 動画)”, by HistoryForEDU, YouTube, 2013/02/11
【動画】“Sir Francis Drake (Intro) S1 (1961) (「フランシス・ドレーク卿」(1961年))”, by RetroAlexander, YouTube, 2013/06/22

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posted by ジム佐伯 at 07:00 | ロンドン ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 戦争と平和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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