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2017年03月02日

第411回:“The Japanese are truly the delight of my heart.”―「日本人は本当にわが心の喜びである」(ザビエル)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。



第411回の今日はこの言葉です。
“The Japanese are truly the delight of my heart.”

「日本人は本当にわが心の喜びである」
という意味です。
これはかつてスペインとフランスの国境付近にあったナバラ王国の出身の宣教師、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier, 1506-1552)の言葉です。英語ではフランシス・ザビエル(Francis Xavier)と呼ばれます。カトリック教会の聖人にも列せられています。

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フランシスコ・ザビエル
(17世紀初期の肖像画)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

この言葉は、
“I know not when to cease in speaking of the Japanese. They are truly delight of my heart.”
「日本人のことはいくら語っても語りつくせない。彼らは本当にわが心の喜びであった」
― 訳:宮崎壽子「ペリー提督日本遠征記 上」(角川ソフィア文庫)より
という言葉の一部です。
江戸時代末期に日本へ来航したアメリカの艦隊を率いたマシュー・ペリー(Matthew Perry)の遠征を記録した「ペリー提督日本遠征記(Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan)」で、ペリーがザビエルの言葉を引用する形で記されています。
何とも日本人への愛にあふれた言葉で、日本人としてはうれしくなってしまいますね。
ペリーもこの言葉を知って日本を開国したいという思いが高まったのではないでしょうか。

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マシュー・ペリー
Photo from US Navy [Public domain], via Wikimedia Commons

1506年頃、フランシスコ・ザビエルはナバラ王国(Kingdom of Navarre)に生まれます。ナバラ王国とは今のフランスとスペインの国境付近、ビスケー湾沿岸からピレネー山脈西部に及ぶバスク地方(Basque Country)にあったバスク人の王国です。ザビエルは地方貴族の家の出身で、その居城に生まれ育ちます。居城は現在「ハビエル城」(スペイン語読み、バスク語読みでは「シャビエル城」)と呼ばれています。お城といっても華麗な宮殿ではなく、純粋な戦闘のための砦のようなお城です。

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ハビエル城
By Rayle026 (Own work) [CC BY-SA 3.0 es], via Wikimedia Commons

イベリア半島ではカスティーリャの女王イサベル1世とその夫であるアラゴンの王フェルナンド2世の共同統治によるスペイン王国(イスパニア王国)が1479年に誕生し、さらに1492年にイスラム勢力のグラナダを陥落させて国土回復運動レコンキスタ(Reconquista)が完成します。同年、スペインの援助により西回りで東洋を目指したクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)が新大陸を発見し、スペインはレコンキスタの勢いそのままに新大陸へ進出します。そしてスペインは当然のようにナバラ王国にも侵攻し、フランスも阻止しようと介入します。
ザビエルの父親はナバラ王フアン3世(Juan III)の腹心の臣下で宰相を務めています。ナバラ王国はスペインに立ち向かいますがひとたまりもなく征服されて1515年にスペインに併合され、フアン3世とザビエルの父は命を落とします。ザビエルが9歳の頃です。

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1400年頃のナバラ王国の版図(緑)
By Gabagool (Own work), text added by Jim Saeki on 25th January 2017 [CC BY 3.0], via Wikimedia Commons

ザビエルは19歳の頃にフランスへ留学し、名門パリ大学の聖バルブ学院で哲学を学びます。運動能力にも優れていたザビエルは、勉学のかたわらスポーツを楽しんだり、息抜きに大学を抜け出してカルチエ・ラタンの歓楽街に繰り出したりしたと言われます。卒業が近づいた頃、ザビエルの同郷のイグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio de Loyola)がパリ大学に入学し、後にザビエルと下宿の同室となります。この時ロヨラは37歳。かつては軍人でしたが負傷して療養生活の間にキリストや聖人たちの書物に触れ、生涯を神に捧げる決心をした人物です。法律の道へ進もうとしていたザビエルはロヨラに強い影響を受け、自らも聖職者の道に進むことを志します。
1534年、ロヨラとザビエルと5人の青年たちがモンマルトルの丘に建つサン・ドニ記念聖堂で生涯を神に捧げる誓いをたてます。イエズス会(Society of Jesus)の創設となる「モンマルトルの誓い」です。ザビエルが28歳の頃のことです。

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イグナチオ・デ・ロヨラ
(16世紀の肖像画)
by French School, anonymous [Public domain], via Wikimedia Commons

1537年にイエズス会の一行は教皇から修道会の許可を得ようとローマへ向かいます。時の教皇パウルス3世(Paulus III)に司祭叙階と聖地巡礼の許可を与えられた一同はヴェネチアで司祭の叙階を受けます。オスマン帝国の台頭などもあってエルサレムへの聖地巡礼は難しくなったため、イエズス会はイタリア国内で説教と奉仕活動に専念する方針をたてます。1540年、ローマ教皇はイエズス会をカトリックの修道会として正式に許可します。

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時のローマ教皇、パウルス3世
Titian [Public domain], via Wikimedia Commons

この当時、カトリック教会は一時期ほどの勢いを失っています。1453年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はオスマン帝国に滅ぼされます。教会の内部でも汚職や不正がはびこります。また1517年以降、ドイツ人のマルティン・ルター(Martin Luther)らによりカトリック教会の改革を求める宗教改革(Protestant Reformation)の運動が起こされます。宗教改革の過程でカトリック教会から分離したプロテスタント教会は急速に勢力を伸ばしていきます。腐敗したカトリック教会を見限ったのがプロテスタント教会、カトリック教会を何とか立て直そうとしたのがイエズス会なのです。イエズス会はカトリック教会の汚職や不正を批判しながら、教育と宣教活動に力を注ぎます。

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マルティン・ルター
Lucas Cranach the Elder [Public domain], via Wikimedia Commons

ちなみに宗教改革のもう一人の中心人物であるフランス人のジャン・カルヴァン(Jean Calvin)は1523年からパリ大学で哲学や神学、法学を学んだといいますから、1525年にパリ大学に入学したザビエルと在学期間が重なっている可能性があります。共にキリスト教の現状に危機感を抱いていたザビエルとカルヴァン。ザビエルは後にキリスト教を世界に広げることで危機を救おうとしたのに対して、カルヴァンは教義を改革することで危機を救おうとします。二人はカルチエ・ラタンですれ違っていたかもしれませんし、もしかしたらキリスト教をどう立て直すかを議論したかもしれません。そう考えると楽しいですね。

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ジャン・カルヴァン
Formerly attributed to Hans Holbein the Younger (1497/1498–1543) [Public domain], via Wikimedia Commons

1541年、ザビエルは当時ポルトガル領だったインドのゴアへイエズス会の3名と共に派遣されます。ポルトガル王ジョアン3世(João III)の依頼によるものです。ザビエルたちはゴアを拠点にインド各地で宣教活動を行います。
1545年、ザビエルはマレー半島南部のポルトガル領マラッカへ赴任し、香料を産するため「香料諸島(Spice Islands)」と呼ばれたモルッカ諸島に渡ります。ザビエルはモルッカ諸島で宣教活動を行った後にマラッカへ戻ります。
1547年、ザビエルは薩摩出身のアンジロー(弥次郎?)と2人の従者という日本人たちに出会います。船長で商人でもあったザビエルの友人ジョルジ・アルバレスが引き合わせたのです。アンジローは人を殺めてしまった過去を持ち、ポルトガル船にのがれてマラッカまで来た人物です。ザビエルはアンジローやアルバレスを通して日本の知識を得て、大いに興味を持ちます。アンジローの内省的な性格や知的レベルの高さにも感心したザビエルは、日本へ行きたいと強く考えるようになります。


マラッカ(ムラカ)の位置

西洋人が初めて日本に到達したのは、ザビエルがアンジローに出会った年のわずか4年前のことです。
アフリカ南端を回るインド航路を開発したポルトガルはインドからさらに東へ進出し、マレー半島のマラッカや今のインドネシアにある香料諸島、みん(中国)のマカオにまで貿易拠点を築いています。新大陸から西を目指したスペインはフィリピンに拠点を築きます。しかし何といってもポルトガルが抑えたマカオが最も日本に近い拠点です。
ポルトガルは1542年に琉球王国に到着します。しかし琉球人はポルトガルがマラッカを攻撃して占拠したことを知っていて、交易を拒否します。このあたり、琉球人の情報収集能力と危機管理能力は驚くべきレベルの高さです。

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マカオの位置
By TUBS [GFDL or CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

翌1543年(天文てんぶん12年)の秋のある日、大型の中国船が台風にあって種子島たねがしまに漂着します。船にはポルトガル人も数人乗っており、住民たちはその見たこともない姿かたちに仰天します。
漢文のわかる武士が明国人と筆談したところ、中国人はポルトガル人のことを、
「これ西南蛮種の賈胡かこなり」
(彼らは西南の蛮族の商売人だ)
と説明します。
これが「南蛮」という呼び名の由来となります。

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種子島の位置
By Uploadalt (Derived from Commons file), cropped by Jim Saeki [GFDL or CC BY-SA 4.0-3.0-2.5-2.0-1.0], via Wikimedia Commons

中国の人は今でもそうですが、自分たちの国が文化的に最も優れており、周辺諸国は野蛮な国だと考えています。いわゆる「中華思想」です。そして王朝に帰順しない周辺の国や民族は
東夷とうい
北狄ほくてき
西戎せいじゅう
南蛮なんばん

という蔑称で呼ばれます。
明国に朝貢ちょうこうせず、恭順の意を示していなかった日本はさしづめ「東夷」です。
「南蛮」は中国の南ですから東南アジアのことを指しています。東南アジアでさかんに貿易をしている連中だという意味で「南蛮」と言ったのだと思います。しかしこれを聞いた日本の人々は、ポルトガルやスペインそのものを「南蛮」、ポルトガルやスペインから日本に訪れる商人や宣教師を「南蛮人」と呼ぶようになります。

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中国が周辺民族を呼ぶ蔑称
By User:PhiLiP, base on ja:User:Kanbun's work. [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

また、種子島に流れ着いたポルトガル人にとっては、西洋人として初めて日本を「発見」したことになります。明に加えて新たに日本との貿易の拠点を築く絶好の機会です。ましては日本はマルコ・ポーロ(Marco Polo)『東方見聞録』で書いた「黄金の国ジパング」かもしれないのです。東洋で商売をする西洋人なら誰もが憧れるジパングです。
ポルトガル人たちは種子島を支配する種子島氏の当主、種子島時尭ときたかに謁見します。ポルトガル人らは時尭に珍しい西洋の物産を紹介します。16歳の若さだった時尭は、その中でも特に鉄砲に強い興味を示し、その威力に注目します。

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火縄銃の射撃
(17世紀のイラスト)
By Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

時尭は即座に鉄砲2丁を買いとることを決め、2千両を支払います。今の価値だと数億円〜数百億円(諸説あり)にあたる大金です。
そして時尭は刀鍛冶の八板やいた金兵衛に鉄砲の製作を命じます。金兵衛は2年もたたずに複製の製造に成功し、日本は鉄砲の国産化に成功します。このあたりの迅速さは見事というほかありません。国産化された火縄銃は本土に伝わり、製造地の名をとって「種子島」と呼ばれ、またたく間に日本中に広がります。
日本では鉄砲が法外な値段で売れると期待したポルトガルは、船に鉄砲を満載して日本にやってきますが、既に日本中では鉄砲が大量生産されており、とても驚いたそうです。この前後の日本国内の火縄銃保有数は当時の世界最大だったと推定されており、後の織田信長や豊臣秀吉による天下統一につながっていくのです。
ザビエルがインドのゴアに到着して東洋での宣教活動を開始したのはこの「日本発見」「鉄砲伝来」の翌年のことです。
また、その後もポルトガルは積極的に日本へ進出して交易を求めるようになります。

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種子島火縄銃
(2005年愛知万博ポルトガル館にて)
by Gnsin [GFDL or CC BY-SA 3.0] via Wikimedia Commons

話をザビエルに戻します。ザビエルはアンジローと出会った翌年の1548年にゴアで宣教監督となります。そして翌1549年、ザビエルは2人のイエズス会士と明国人、インド人、そしてアンジローら3人の日本人と共に中国のジャンク船に乗ってゴアを出航し、明の港を経由して日本へ向かいます。アンジローは洗礼を受けてカトリック教徒となり、パウロという洗礼名で呼ばれるようになります。
長く苦しい航海の後、ザビエルたちはアンジローの案内で薩摩の坊津ぼうのつという港に到着します。そして許しを得て鹿児島に上陸します。この時ザビエルは43歳。ポルトガルが日本を「発見」してからわずか6年後のことです。
ザビエルは薩摩の守護大名である島津貴久たかひさに謁見し、宣教の許可を得ます。ザビエルは宣教をしながら、友人である福昌寺の住職と好んで宗教論争を行ったそうです。しかし次第に仏僧たちが宣教に反対し、貴久もこれを聞き入れて布教を禁じたため、ザビエル一行は翌1950年に鹿児島を辞去して肥前ひぜんにある平戸ひらどへ向かいます。

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島津貴久
by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

当時の平戸には明国の商人や倭寇わこうを自称する明国の海賊(後期倭寇)が多く住んでいます。そして彼らが日本と交易を求めるポルトガルの商人たちを平戸に連れてきます。平戸を支配していた松浦まつら氏の松浦隆信たかのぶはポルトガルとの南蛮貿易を開始しています。鉄砲伝来以降の話ですので、ほんの数年間の出来事です。ザビエルはその情報を知っていたので、平戸でならば宣教活動ができると思ったのです。
ザビエルの期待どおり、松浦隆信は宣教を許可します。その後平戸にはポルトガル船が毎年来航し、南蛮貿易の中心として栄えます。隆信は鉄砲や大砲を率先して輸入します。
さすが戦国時代。種子島時尭も松浦隆信も最新の武器への関心の高さは異常とも言えましょう。同じ東洋の明国では、鉄砲への反応はとても鈍感なものだったそうです。

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松浦隆信
by Unknown, cropped by Jim Saeki on 30th January 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

ザビエルはイエズス会の仲間の神父に宣教を託して平戸を立ち、山口を経てを目指します。
そして1551年1月、ザビエルは念願の京に到着します。ザビエルはゴアの司教の親書を持っており、日本全国での宣教の許可を得るために後奈良ごなら天皇と室町幕府の13代将軍である足利義輝よしてるへの謁見を希望します。しかし献上の品がなかったため、謁見はかないません。比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みますが、僧侶たちに拒まれます。
当時は各地で戦国大名が争って室町幕府の権威は失墜しており、御所や京の街も荒廃していたと言われます。ザビエルは京での滞在をあきらめ、山口を経て平戸に戻ります。
時代的には、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が信濃をめぐって川中島の合戦を繰り広げる直前です。織田信長は20歳そこそこで織田家の家督を継いだばかり。豊臣秀吉は放浪の身でまだ信長に仕えておらず、徳川家康は10歳にもならずに今川家や織田家での人質生活を送っていた頃です。

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時の将軍、足利義輝
Attributed to Tosa Mitsuyoshi (Inscription by Sakugen Shūryō), cropped by Jim Saeki on 30th January 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

ザビエルは平戸に残していた献上品を運んで三たび山口を訪れ、周防すおうの守護大名、大内義隆よしたかに二度目の謁見をします。ザビエルは天皇へ献上するつもりだったゴア司教の親書と高価で珍しい品々を義隆に献上します。義隆は大いに喜び、一度は禁じた宣教を許可し、廃寺となっていた大道寺を住居兼教会堂としてザビエルに与えます。ザビエルはここで600人の信徒を獲得します。
さらにザビエルは豊後ぶんごを支配する戦国大名、大友義鎮よししげに招かれ、豊後の府内ふない(今の大分市)を訪問します。義鎮はザビエルの話を聞いて理解を示し、宣教を保護することを約束します。義鎮は後に出家して大友宗麟そうりんを名乗り、さらに自ら洗礼を受けてキリシタン大名となります。

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大友宗麟
by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

日本での活動が2年を過ぎたザビエルは、日本人の弟子4人を連れてインドのゴアに戻ります。
翌1552年、ザビエルは自分の代わりにバルタザル・ガーゴ神父を日本へ送り出し、自らは明国を目指します。日本での宣教を加速するには、日本に大きな文化的影響を与えている中国で宣教することが必要と考えたからです。ザビエルは日本へ行った時にも立ち寄った広東カントン南部の上川じょうせんとうで入境の手続きを待っている間に熱病にかかり、この世を去ります。46歳の時のことです。

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ザビエルの死
18世紀、ゴヤ作の油彩画
Francisco Goya [Public domain], via Wikimedia Commons

ザビエルの死後もイエズス会は日本での宣教を続け、優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展します。1563年(永禄6年)に日本へ来たポルトガル人のルイス・フロイス(Luís Fróis)は1569年(永禄12年)に京で織田信長と対面します。フロイスは信長の信任を得て畿内での宣教を許され、多くの信徒を得ます。
信長は本願寺や比叡山などの既存の仏教とその信者たちに辟易しており、既存仏教の勢力を削ぐ狙いもあったようです。信長はその後もイエズス会を優遇し、西洋の最新の国際情勢や科学の知識を得ます。イエズス会が地球儀を献上した時は、当時の日本では地球が球体であることは知られておらず、家臣の誰もがその説明を理解できませんでしたが、信長は「理にかなっている」と言ってよく理解したそうです。

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織田信長
By 狩野元秀 (Kano Motohide) (en:Image:Odanobunaga.jpg) [Public domain], via Wikimedia Commons

信長が1582年(天正10年)に本能寺の変に斃れた後、豊臣秀吉がその遺志を継いで天下統一を果たします。秀吉は信長の路線を継承してイエズス会に寛容な姿勢をとり、ポルトガルとの貿易も推奨します。またポルトガルに遅れてスペインもフィリピンのマニラを拠点に日本を訪れるようになります。しかし秀吉は天下統一の過程で九州を平定した際に、宣教師たちが住民たちに信仰を強制したり寺社を破壊したり、日本人を奴隷として国外へ売却したりしている現状を目の当たりにします。秀吉はこの体験からキリスト教徒に対する認識を改め、1587年(天正15年)に伴天連バテレン追放令を出します。
そして1596年(文禄5年)、土佐の海岸にスペイン船「サン=フェリペ号」が漂着します。秀吉はポルトガル人から「スペイン人は海賊であり、ペルーやメキシコやフィリピンを征服したように日本も狙っている」という情報を耳にして、難破船に冷たい対応をとります。ライバルのスペインを追い落とそうというポルトガル人の思惑もあったようです。怒ったスペイン人は、スペインがいかに広大な国で日本がどれほど小さな国であるかを語ります。さらに船員は、宣教師はスペインが外国の領土を征服するための尖兵であると述べたため、秀吉は激怒してキリシタンの弾圧を強化します。これが「サン=フェリペ号事件」です。さらに秀吉は京に住むイエズス会とフランシスコ会の会員と信徒全員を捕え、長崎に送って十字架にかけて処刑します。処刑されたのは日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人とポルトガル人がそれぞれ1名の合計26名で、この事件は「二十六聖人の殉教」と呼ばれます。

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豊臣秀吉
By 狩野光信 (http://www.samurai-archives.com/image/hideyo1.jpg) [Public domain], via Wikimedia Commons

秀吉の死後に天下を取って江戸幕府を開いた徳川家康は、南蛮貿易による利益を重視して秀吉の禁教令を徹底せず、宣教についても黙認します。しかしスペインやポルトガルの宣教師たちは次第に活動を活発化させ、しかも幕府の支配体制に組み込まれることは拒否します。幕府はスペインやポルトガルの領土的野心を感じ取って警戒し、次第に態度を硬化させていきます。

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徳川家康
Kanō Tan'yū, cropped by Jim Saeki on 30th January 2017 [Public domain], via Wikimedia Commons

1612年(慶長17年)、幕府は天領(徳川家の直轄地)での禁教令を発します。そして翌1613年(慶長18年)、それを全国に広げた禁教令「伴天連バテレン追放之文」を公布します。この禁教令で長崎や京都にあった教会は破壊され、宣教師や信徒たちはマカオやマニラに国外追放されます。しかし幕府は南蛮貿易を続けたいため、強い弾圧はまだ行いません。
1616年(元和げんな2年)、2代将軍の徳川秀忠は「二港制限令」を出し、外国との貿易を長崎と平戸の二港に制限します。禁教政策を強化し、国際紛争や侵略から日本を守るためです。

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徳川秀忠
By ブレイズマン (talk) 07:35, 18 November 2008 (UTC) [Public domain], via Wikimedia Commons

1619年に幕府は改めて禁教令を出し、さらに弾圧を強化します。そして1624年にスペイン船の来航が禁止されます。幕府は着々と鎖国政策を進め、1636年には貿易にかかわるポルトガル人を出島に移し、貿易に関係ないポルトガル人をマカオに追放します。
そんな中、1638年(寛永14年)にキリシタンの弾圧や重税や飢饉に苦しんだ島原と天草の領民が反乱を起こします。「島原の乱」です。反乱勢はキリスト教の教えをもとに結束し、原城に籠城して幕府の討伐軍を苦戦させます。結局反乱は鎮圧されますが、これで幕府のキリスト教と南蛮貿易に対する見方は決定的に悪化します。
そして1639年(寛永16年)、ポルトガル船の入港が禁止されます。鎖国の完成です。
幕府は長崎の出島のみを通して、新教国のオランダだけと交易を続ける方針を固めます。宣教活動を行わないことが条件です。その後もキリスト教は厳しく弾圧されていくことになります。

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出島
By Isaac Titsingh [Public domain], via Wikimedia Commons

“The Japanese are very curious by nature.”
「日本人は生来とても好奇心が強い」
この言葉はザビエルが1551年にゴアのイエズス会に宛てた手紙に書かれたものです。
“The Japanese are very curious by nature, and as desirous of learning as any people ever were.”
「日本人は生来とても好奇心が強い。そしてこれまでのどの民族よりも学ぶ意欲が高い。」
と手紙は続きます。当時から日本人は好奇心が強く学習意欲が高かったのです。ザビエルの教えによりキリスト教が急速に広まったのもこの日本人の特徴あってこそのことです。キリスト教が禁止されて鎖国が完成してからも、日本は小さな長崎の出島を通してオランダから西洋の情報を収集し続け、蘭学という分野が成り立ちます。幕末の開国と明治維新後に日本が急速に近代化に成功したのも、この好奇心と学習意欲の賜物だったのです。

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聖フランシスコ・ザビエルを描いたステンドグラス
By Isaac Wong, cropped by Jim Saeki on 30th January 2017 [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 2.5-2.0-1.0], via Wikimedia Commons

日本の人たちは様々な疑問や質問をザビエルにぶつけたそうです。

「神が全能ならば、なぜあなた(ザビエル)が来る前に神の教えは伝わらなかったのか」
「神を知らなかった我々の先祖は救って下さらないのか」
「先祖が地獄にいるならば、私は天国に行くよりも地獄を選びたい」
「神が絶対の善ならば、悪魔などおつくりになる筈はないではないか」


ザビエルもしばしば答えに窮したようです。ギリシア哲学も学んでいない日本人たちがこのような論理的な思考ができることにザビエルは驚いたそうです。

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聖フランシスコ・ザビエル像
By Billertl (Own work), cropped by Jim Saeki on 30th January 2017 [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons

“The Japanese are truly the delight of my heart.”
日本人は本当にわが心の喜びである。

イエズス会を設立して世界へ宣教することをこころざし、はるか極東の日本まで来たザビエル。
日本と日本人に対する大きな愛情が感じられる言葉です。
日本はその後ポルトガルとの貿易やキリスト教を禁止してしまいます。しかしザビエルたちがもたらした西洋の思想や科学への好奇心はその後も日本に脈々と残り続けます。そして200年以上もの鎖国の間にも出島のオランダを通して西洋の文物を吸収し続け、幕末の開国の時にも十分な知識をもって臨むことができたのです。


【動画】“St. Francis Xavier HD (聖フランシスコ・ザビエル)”, by Catholic Online, YouTube, 2016/12/02

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。

【関連記事】第409回:“The church says the earth is flat, but I know that it is round.”―「教会は地球は平らだと言うが、私は丸いことを知っている」(マゼラン), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年02月22日
【関連記事】第408回:“Who among you, gentlemen, can make this egg stand on end?”―「皆さんの中でこの卵を立てられる人はいますか」(コロンブス), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年02月18日
【関連記事】第406回:“Chipangu is an Island towards the east in the high seas.”―「ジパングは東方の大洋中にある島である」(マルコ・ポーロ『東方見聞録』より), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2017年02月10日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“St. Francis Xavier: Letter from Japan, to the Society of Jesus in Europe, 1551 (聖フランシスコ・ザビエル:日本から欧州のイエズス会への書簡, 1551年)”, by Paul Halsall, Modern History Sourcebook, Fordham University
【参考】“St. Francis Xavier: Letter from Japan, to the Society of Jesus in Europe, 1552 (聖フランシスコ・ザビエル:日本から欧州のイエズス会への書簡, 1552年)”, by Paul Halsall, Modern History Sourcebook, Fordham University
【参考】ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫), M・C・ペリー (著), F・L・ホークス (編集その他), 宮崎 壽子 (翻訳)
【参考】ペリー提督日本遠征記 (下) (角川ソフィア文庫), M・C・ペリー (著), F・L・ホークス (編集その他), 宮崎 壽子 (翻訳)
【参考】街道をゆく〈22〉南蛮のみち 1 (朝日文庫), 司馬 遼太郎 (著)

【動画】“St. Francis Xavier HD (聖フランシスコ・ザビエル)”, by Catholic Online, YouTube, 2016/12/02

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