スポンサーリンク / Sponsored Link


2015年11月29日

第260回:“Weather today fine but high waves.”―「本日天気晴朗なれども浪高し」(秋山真之)

こんにちは! ジム佐伯です。
英語の名言・格言やちょっといい言葉、日常会話でよく使う表現などをご紹介しています。

0260-mikasa_zenbu_shuho2.jpg
連合艦隊旗艦の戦艦三笠
By by Monado (photo by Monado) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

第260回の今日はこの言葉です。
“Weather today fine but high waves.”

「今日の天気は晴天、しかし高波」
という意味です。
動詞が省略された簡潔な文になっています。
新聞の見出しやテレビのキャプションなどでよく使われる表現です。
少ない文字数で多くの情報を伝える電信文でも使われます。
実はこれは日本で使われた無線電信による通信文の英訳です。
「本日天気晴朗せいろうなれどもなみ高し」
電信文らしくカタカナ交じりで書くと
「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
というのがもともとの文面です。
これは日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-1905)で日本とロシアの大艦隊が激突した日本海海戦(Battle of Tsushima, 1805)で、日本海軍の連合艦隊(聯合艦隊, Combined Fleet)が大本営(Imperial General Headquarters)へ向けて打電した電信文の結びです。
この最期の部分だけ、連合艦隊旗艦の戦艦「三笠(Mikasa)」で作戦担当参謀をしていた秋山真之(Saneyuki Akiyama, 1868-1918)が書き加えたと言われています。

0260-akiyama_saneyuki.jpg
秋山真之(Saneyuki Akiyama, 1868-1918)
Photo by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons

秋山真之は1868年(慶応4年)3月に愛媛の松山に生まれます。
父親は松山藩の下級武士でしたが明治維新で職を失い、経済的には困窮します。
真之は漢学塾で学んだり和歌を習ったりしますが、地元では有名なガキ大将だったそうです。
親友の正岡のぼる、後の正岡子規(Masaoka Shiki, 1867-1902)が上京したのに刺激され、真之は15歳の時に陸軍軍人だった9歳離れた兄の好古よしふるを頼って上京します。

0260-shiki_masaoka.jpg
若き日の正岡子規
Photo by Unknown, from Japanese book Soseki no Omoide (漱石の思ひ出) [Public domain], via Wikimedia Commons

真之は受験準備のために共立学校(今の開成高校)などで英語を学んだ後、大学予備門(後の一高、今の東京大学教養学部)に入り、正岡子規らと東京帝国大学進学を目指します。しかし真之は経済的な理由などもあり文学への道をあきらめ、学費のかからない海軍兵学校に17期生として入学し、首席で卒業して海軍軍人となります。21歳の時です。

0260-major_akiyama.jpg
兄の秋山好古(Yoshifuru Akiyama, 1859-1930)(陸軍騎兵少佐当時)
By Photographer: K. Ogawa [Public domain], via Wikimedia Commons

真之は少尉候補生としてコルベット艦「比叡(Hiei)」に搭乗して実地演習を重ねます。ちょうどこのころオスマン帝国(今のトルコ)のフリゲート艦エルトゥールル号(Ertuğrul)が和歌山県沖で座礁する事故がおき、生存者をイスタンブールへ送還する航海に従事します。
明治25年(1892年)に少尉となり、日清戦争(First Sino-Japanese War, 1894-1895)に従軍します。
明治31年(1898年)には海軍の派遣留学生となってアメリカのワシントンDCに駐在。海洋戦略研究の第一人者アルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred Thayer Mahan, 1840-1914)に師事します。アメリカがスペイン帝国と戦った米西戦争(Spanish–American War, 1898)に観戦武官として参加し、キューバにあるサンチャゴ港の閉塞作戦を観戦したりします。この時の経験が後の旅順りょじゅんでの閉塞作戦に生かされます。

0260-santiago_sampaign_1898.png
サンチャゴ港封鎖作戦
By Frank Martini. Cartographer. [Public domain], via Wikimedia Commons

翌明治32年(1899年)に真之はイギリス駐在となります。帰国して翌年の明治33年(1900年)に常備艦隊参謀となり、さらに翌年に少佐へ昇進します。
ちょうどその頃、大陸では王朝末期の清で起きた義和団の乱(Boxer Rebellion, 1899-1901)の混乱収拾のためロシアが満洲(中国東北地方)へ侵攻し、占領します。ロシアは満洲の植民地化を既成事実化しようとしますが、日本とイギリス、アメリカが抗議します。ロシアはいったん撤兵を約束しますが、ロシアは期限を過ぎても撤退を行わずに駐留軍の増強を図り、対立が深まります。これが日露戦争につながっていくのです。

0260-battlefields_in_the_russo_japanese_war.jpg
日露戦争の戦場となった地域の俯瞰図
By P. f. Collier & Son, modified by Jim Saeki on 28 Nov 2015 [Public domain], via Wikimedia Commons

日露戦争は簡単に言えば、日本とロシアが満洲と朝鮮半島の権益を争ってぶつかった戦争です。
ロシア帝国は極端な南下主義をとっており、満洲・朝鮮がロシアの手に落ちると日本の存続も危うくなります。明治維新で近代国家をつくったばかりの日本にとっては国家存亡の危機だったのです。
1902年(明治35年)、日本はイギリスと日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)を結びます。イギリスはロシアの南下政策が自国の権益の脅威になると考えたのです。

Punch Anglo-Japanese Alliance.jpg
 おお、東は東、西は西...
 しかし東もなければ西もない。国境も、種族も、素性もない。
 二人の強い男が面と向かって立つときは。たとえ両者が地球の両端から来たとしても。
  ― ラドヤード・キプリング
イギリスの風刺漫画雑誌「パンチ(Punch)」に描かれた日英同盟
ラドヤード・キプリングの詩「東は東、西は西」が引用されている
絵柄や詩の引用を見る限り風刺や皮肉はなく、同盟に好意的
(1905年10月の発行時に日露戦争は既に終わっていた)
By A scan of a cartoon from The New Punch Library volume 1, page 44, published in London in 1932. First published on 4 October 1905., PD-US, Link

そして1904年(明治37年)2月8日、日本は旅順港(Port Arthur)に停泊しているロシアの旅順艦隊を攻撃して戦端を開きます。真之も連合艦隊旗艦「三笠」の先任参謀として作戦の指揮をとります。
なお「連合艦隊」とは他国との連合軍を示すのではなく、平時には常備艦隊として日本各地に配置されていた艦隊が戦時に大本営の指揮下に統合されて一つの艦隊となることを示します。
日本の連合艦隊に数で劣る旅順艦隊は旅順港に引きこもります。旅順には難攻不落の旅順要塞があり、日本艦隊は要塞砲の射程外からは手も足も出ないのです。連合艦隊は真之の発案で2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしますが、十分な効果を得られないまま失敗に終わります。
なお、この旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫少佐(Takeo Hirose, 1868-1904, のち中佐)は「軍神」として讃えられます。

0260-commanger_hiroses_great_achievement.jpg
浮世絵に描かれた旅順港閉塞作戦(中央で膝立ちしているのが広瀬少佐)
(『海軍中佐廣瀬君之大偉勲』、廣瀬美邦画)
By English: Hirose Yoshikuni, Japanese, active 1904–1905 日本語: 廣瀬美邦 [Public domain], via Wikimedia Commons

陸軍も中国大陸に進軍します。
黒木ためもと大将(Tamemoto Kuroki, 1844-1923)が率いる第一軍4万2千人は朝鮮半島に上陸し、4月末に朝鮮と満洲の境となる鴨緑江おうりょくこうで2万4千のロシア軍とぶつかり、勝利します。鴨緑江会戦(Battle of Yalu River, 1904)です。
続いて奥保鞏おくやすたか大将(Yasukata Oku, 1847-1930)率いる第二軍3万8千人が遼東半島に上陸し、5月下旬に旅順半島の付け根にある南山なんざんのロシア軍陣地を攻略し、勝利します。南山の戦い(Battle of Nanzan, 1904)です。
第一軍と第二軍は満洲の戦略拠点である遼陽りょうようをめざして北進します。

0260-battle_of_yalu_river_1904.jpg
浮世絵に描かれた鴨緑江会戦
(『勇烈ナル我軍鴨緑江河畔二露国コサック騎兵ヲ撃退之図』、楊斎延一画)
By Watanabe Nobukazu, Museum of Fine Arts, Boston [Public domain], via Wikimedia Commons

中国大陸に遠征軍を送っている日本が勝利するには、日本海の制海権を押さえることが必須条件です。日本海を渡れなければ軍隊を送れませんし、既に送った軍隊にも物資が届けられなければ戦争どころではありません。
当時ロシア帝国はほぼ同規模の艦隊を3つ持っていました。バルト海と、黒海と、極東です。
日本の唯一無二の連合艦隊とは大違いの、なんとも贅沢な話です。
極東艦隊の主力である旅順艦隊は真之たちが懸命に旅順に封じ込めていますが、残存兵力は日本海に面した軍港ウラジオストクを本拠地として、輸送船を襲う通商破壊戦を展開します。ウラジオストク艦隊(Vladivostok Fleet)です。日本では浦塩うらじお艦隊とも呼ばれます。
日本は迎撃したいのですが、旅順の封鎖に主力艦船をとられてしまい、十分な対応ができません。
そのうちに、バルト海を本拠地とするバルチック艦隊(Baltic Fleet)が極東へ回航するとの情報が入ります。ワンセットしか艦隊を持たない日本は、バルチック艦隊が来る前に旅順艦隊と浦塩艦隊を撃滅しなければなりません。しかし旅順艦隊は旅順要塞に守られて、浦塩艦隊には手が回りません。
そこで海軍は陸軍へ旅順要塞の攻略を要請します。
こうして乃木希典のぎまれすけ大将(Maresuke Nogi, 1849-1912)が率いる第三軍が編成され、6月に上陸して旅順攻略に向かいます。

0260-map_of_port_arthur.jpg
1906年に描かれた旅順の地図。要塞の拠点が地図上に示されている。
(Wikipediaより)
From JANE'S FIGHTING SHIPS 1906-07 [Public domain], via Wikimedia Commons

8月10日、海軍陸戦隊が旅順港内の艦船を砲撃したのを受けて、旅順艦隊はついに港外へ出てきます。
連合艦隊にとっては旅順艦隊を撃滅する絶好の機会です。
一方の旅順艦隊は最初から戦闘の意思はなく、ウラジオストク軍港へ逃げ込むのが目的です。
ウラジオストクに逃げ込まれたら、今度こそ聯合艦隊は手も足もでません。
旅順艦隊は戦艦6隻を含む24隻、連合艦隊は戦艦4隻を含む66隻です。
連合艦隊は艦隊運動がうまくいかずに旅順艦隊をとりのがしそうになりながら、砲撃を開始します。
旅順艦隊が夕闇にまぎれて逃げ切るかと思われた時、砲弾が旅順艦隊の旗艦「ツェサレーヴィチ」の艦橋に直撃します。これにより司令官代行のヴィトゲフト少将と操舵手が戦死、イワノフ艦長などが昏倒します。さらに操舵手が舵輪を左に巻き込んで倒れて舵機が故障し、旗艦「ツェサレーヴィチ」は左に急旋回して自艦隊の列に突っこみます。通常は旗艦の後について航行する艦隊はこれによって四散し、南下して旅順へ向かいます。これが黄海海戦(Battle of the Yellow Sea, 1904)です。
いくつかの艦は日本軍に撃破されたり中立国で抑留されたりしますが、一部の艦は旅順に逃げ戻ることに成功し、連合艦隊は再び旅順封鎖にくぎ付けになってしまいます。

0260-tsesarevich1904quindao1.jpg
黄海海戦後に青島チンタオに逃れた旅順艦隊旗艦「ツェサレーヴィチ」
By Неизвеитен. [Public domain], via Wikimedia Commons

9日後の8月19日、旅順艦隊を陸から攻めるべく、乃木大将の第三軍約5万が旅順要塞に対する第一回総攻撃を開始します。しかしコンクリートで固めて機関銃で守った近代的要塞はびくともせず、日本軍は死傷者1万5千人を出して攻撃は失敗に終わります。
ちょうどその頃、北上した第一軍と第二軍は野津道貫のづみちつら大将(Michitsura Nozu, 1841-1908)率いる第四軍と合流して遼陽に迫ります。
8月24日、大山いわお大将(1842-1916)が全軍を指揮する日本軍12万5千人は、アレクセイ・クロパトキン大将(Алексей Николаевич Куропаткин, Aleksei Nikolaevich Kuropatkin, 1848-1925)率いるロシア軍15万8千人と激突します。遼陽会戦(Battle of Liaoyang)です。両軍あわせて4万を超える死傷者を出す大激戦となりますが、ロシア軍はさらに北部の奉天ほうてんへと撤退します。日本軍は遼陽入城を果たしますが追撃の余力はなく、薄氷の勝利となります。

0260-japanese_general_kuroki_and_his_chief_stagg_shigeta_fujii.jpg
遼陽会戦で第一軍を指揮する黒木為骼i令官と藤井茂太参謀長
By P. F. Collier & Son [Public domain], via Wikimedia Commons

そして10月15日、ついにバルチック艦隊が極東に向けて出港します。率いるのはロジェストヴェンスキー少将(航海途中で中将に昇進)(Зиновий Петрович Рожественский, Zinovij Petrovich Rozhestvenskij, 1848-1909)。バルト海から北海、ドーバー海峡を通って大西洋を南下し、アフリカ大陸最南端の喜望峰をまわってインド洋、マラッカ海峡を通って日本へ向かうという、気の遠くなるような大航海です。
これが旅順艦隊と合流されたら日本に勝ち目は全くなくなります。
旅順の早期攻略が至上命題となっていた第三軍は、9月19日の前哨戦を経て10月25日に第二次総攻撃を行います。日本軍は9千人の死傷者を出しますが、新たに投入した二八センチ榴弾砲(28 cm Howitzer L/10)が威力を発揮し、一部の堡塁を占領します。

0260-japanese_infantry_preparing_the_attack_during_the_siege_of_port_arther.jpg
旅順攻撃の準備をする日本軍の部隊
By P. F. Collier & Son [Public domain], via Wikimedia Commons

さらに11月26日、第三回総攻撃が行われます。この戦闘の途中で、乃木大将は旅順港を見下ろす標高203メートルの203高地(203 meter Hill)に目標を変更し、集中攻撃を行います。激戦の末、日本軍はついに12月5日に203高地を占領します。そして203高地に登った観測班の測量により二八センチ榴弾砲が山越えで旅順港を砲撃し、ロシアの各艦は次々と沈没して旅順艦隊は壊滅します。
開戦以来10ヶ月にわたり旅順港外を封鎖していた連合艦隊は、ついに封鎖を解くことができたのです。

0260-203_meter_hill.jpg
203高地
By Imperial Japanese Navy General Staff [Public domain], via Wikimedia Commons


【動画】“二百三高地(予告編)”, by toeimovies, YouTube, 2012/09/01

第三軍はその後も攻撃を継続し、正面攻撃ではなく坑道を掘って爆破するという要塞攻撃の正攻法で旅順要塞の戦力を削いでいきます。そして1905年1月1日、ついにロシア軍は降伏します。
戦闘開始から4ヶ月あまり、日ロ双方でそれぞれ1万5千人を超える戦死者を出し、日本側で6万人、ロシア側で4万6千人の死傷者を出した大激戦が終わります。
第三軍は休息もほどほどに北上し、第一、第二、第四軍と合流し、奉天へ向かいます。

0260-nichirojp.png
日露戦争の戦闘の経過(Wikipediaより)
By Kibayashit [Public domain], via Wikipedia

そして3月1日、大山大将率いる日本軍24万人とクロパトキン大将率いるロシア軍36万人が奉天の荒野で激突します。日露戦争の陸戦の山場、奉天会戦(Battle of Mukden, 1905)です。双方あわせて60万人という、ちょっと想像できないような史上まれにみる大規模な戦闘です。
日本軍は数で劣る兵力で敵を包囲するという陸戦の常識を破る戦法をとりますが、包囲するからにはよほど大兵力だろうというロシア側の思い込みに助けられます。秋山真之の兄、好古が率いる支隊の騎兵が最左翼に進出してロシア軍右翼の背後を脅かしたことも功を奏します。そして10日間の激戦の後、ついにロシア軍は哈爾浜ハルビンへ向かって退却します。
死傷者は日本側6万5千人、ロシア側6万人という大激戦でした。

0260-formation_of_a_division_of_the_japanese_1st_army_after_the_battle_of_mukden.jpg
奉天会戦の戦闘終了後に行われた第一軍の点呼
By P. F. Collier & Son [Public domain], via Wikimedia Commons

勝利はしたものの損耗の激しい日本軍はそれ以上の進撃ができなくなり、日露戦争の勝敗ははるばる遠征してきたバルチック艦隊の行方にかかってきます。
極端な話、バルチック艦隊は戦闘で勝たなくてもよいのです。ウラジオストクに逃げ込みさえすれば強大な艦隊が日本軍の補給路を絶つことは容易で、奉天の陸軍はたちまち飢えてしまいます。
一方、日本艦隊は完全勝利を求められます。主力艦を1艦でもとり逃がすと日本海の制海権は危うくなるのです。
敵は日本海を回るか、太平洋を回るか。対馬海峡か、津軽海峡か、はたまた宗谷海峡か。秋山真之はここに最も悩んだと言われます。連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将(Heihachirō Tōgō, 1848-1934)は敵が対馬海峡を通ると読み、真之は艦隊主力を対馬海峡に配備します。

0260-japanese_battleship_mikasa.png
連合艦隊旗艦の三笠
By Unknown (Yamato Museum) [Public domain], via Wikimedia Commons

5月27日未明、仮装巡洋艦「信濃丸(Shinano Maru)」はバルチック艦隊に遭遇し、有名な「敵艦見ユ」を打電します。
実際には、あらかじめ定めておいた符牒ふちょうによる暗号電文が使われます。
午前4時45分に送られたのが「ネネネネ」という「ネ(−−・−)」の連送です。
これは「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」という意味です。
続いて午前5時、「タタタタ」という「タ(−・)」連送に続いて「モ203」と打電します。
これは「敵ノ第二艦隊見ユ203地点」という意味です。
ちなみに英語版Wikipediaでは、
“Enemy is in square 203”
と紹介されています。
「203地点」もあらかじめ地図をます目に区切って定めておいた場所の番号で、九州西方沖の一地点です。
偶然にも旅順攻略戦の激戦地となった203高地と同じ数字ですね。
敵が九州西方沖に現れたということは、対馬海峡で待ち受けた判断が正しいということです。
真之はこの報を聞いて小躍りします。
彼の前半生はまさにこの日この時のためにあったようなものなのです。

0260-battle_of_japan_sea_(route_of_baltic_fleet)_nt.png
ロシア艦隊は大きく2波に分かれてアジアまでたどり着いた
(Wikipediaより)
By Tosaka [CC BY 3.0], via Wikimedia Commons

5時35分、連合艦隊に「直ちに出港用意」が命じられます。
6時06分、旗艦「三笠」が出港を開始。
6時21分、連合艦隊は大本営へ向けて暗号電文を打電します。
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。
 本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
後半の一文は平文で打電されます。この部分は通信原稿を一読した真之が打電前に鉛筆で付け加えたのだそうです。
天下の名文と言われます。
また逆に
「秋山の美文はよろしからず」
(山本権兵衛ごんのひょうえ海軍大臣、後の総理大臣)
などと批判する声もあります。
しかし、司馬遼太郎(Ryotaro Shiba, 1923-1996)が日露戦争を描いた「坂の上の雲」などによると、これは単なる美文ではないのだそうです。
「天気晴朗」は、濃霧などで敵を取り逃がす恐れがないことを示しています。また視界が良好ならば砲術能力に優れた日本側の命中率が高くなり、敵撃滅の可能性があがることも示しています。
「浪高し」は、十分な射撃訓練をしている日本側には苦になりませんが、訓練不十分なロシア側には大いに不利となります。また、波が高いために事前に計画していた水雷艇による肉薄攻撃ができなくなります。
したがって、真之はこの一文で天候が日本側に極めて有利であることと水雷攻撃は実施できないことを伝え、大本営も阿吽あうんの呼吸でそれを理解するのです。

0260-mikasapainting.jpg
連合艦隊旗艦三笠艦橋で指揮を執る東郷平八郎大将
By Tōjō Shōtarō(1865-1929) [Public domain], via Wikimedia Commons

「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ
 聯合艦隊ハ直チニ出動、
 コレヲ撃滅セントス。
 本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
英語にすると、
“In response to the warning that enemy ships have been sighted,
 the Combined Fleet will immediately commence action
 and attempt to attack and destroy them.
 Weather today fine but high waves.”
となります。
アンドリュー・コビング(Andrew Cobbing)による英語版『坂の上の雲(Clouds Above the Hill)』で使われた翻訳です。


【動画】“【FULL・高音質】坂の上の雲 オープニング”, by りゅーきょー竜峡, YouTube, 2015/04/11

ところでこの日本海海戦(Battle of Tsushima)が行われたのは1905年の5月です。
前々回の記事でご紹介したように、イタリアの発明家マルコーニ(Guglielmo Marconi, 1874-1937)が1.5キロの無線通信に成功したのが1895年です。
翌1896年、逓信省の松代松之助が無線電信の研究を始めます。
日本海軍はマルコーニ社に無線機の購入を打診しますが、非常に高価だったため、自主開発に方針を変更します。
マルコーニは1898年にドーバー海峡をまたいだ英仏間通信に成功。1901年12月には英米間の大西洋横断通信に成功します。
1903年、日本海軍は三六式無線電信機を完成させて制式採用します。200海里(約370キロ)の通信が可能な通信機です。
1905年の日本海海戦の時点で、すべての戦艦と駆逐艦の85%に無線設備が装備されます。
一方のロシア艦隊も無線設備を装備していたものの、所在地を日本側に悟られないように無線封止をしていました。
情報戦で既に日本は圧倒的にロシアを凌いでいたのです。情報戦で英米の足元に及ばなかった昭和の日本軍とは大違いですね。

0260-guglielmo_marconi_1901_wireless_signal.jpg
マルコーニと彼が開発した無線通信機
By Published on LIFE [Public domain], via Wikimedia Commons

“Weather today fine but high waves.”
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ。

わずか20音の美文に多くの想いをこめた秋山真之。
日本海海戦の作戦はほとんど真之が立てたと言われます。
東郷司令長官に「智謀如湧ちぼうわくがごとし」と言わしめた真之。
まさに日本海海戦を戦うために天がこの世に送り出したかのようです。
果たして連合艦隊はバルチック艦隊を撃滅することができたのでしょうか。
それは小説や映画・ドラマなどの作品、そして歴史の教科書をご覧になって下さい。


NHKスペシャルドラマ・ガイド 坂の上の雲 第2部 (教養・文化シリーズ)

それでは今日はこのへんで。
またお会いしましょう! ジム佐伯でした。

【関連記事】第259回:“England expects that every man will do his duty.”―「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」(ネルソン提督), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2015年11月23日
【関連記事】第258回:“SOS”―「われ遭難せり」(遭難信号、タイタニック号など), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2015年11月16日
【関連記事】第135回:“East is East and West is West.”―「東は東、西は西」(ラドヤード・キプリング), ジム佐伯のEnglish Maxims, 2013年12月01日

【参考】Wikipedia(日本語版英語版
【参考】“日本海海戦と無線電信”, by べっちゃん さん, e-徒然草, 2006-03-11

【動画】“二百三高地(予告編)”, by toeimovies, YouTube, 2012/09/01
【動画】“【FULL・高音質】坂の上の雲 オープニング”, by りゅーきょー竜峡, YouTube, 2015/04/11

このエントリーをはてなブックマークに追加
posted by ジム佐伯 at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 戦争と平和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
スポンサーリンク / Sponsored Link

ブログパーツ